たいわんほそ道~彰化県鹿港・古い路地をめぐり街づくりの一員となる旅―復興路~民族路
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町おこしに取り組む食堂
台湾高速鉄道(高鉄)台中駅から、車で30分ほどで鹿港市街にある「禾火食堂」に到着した。天井が高く採光のよい陽だまりのような禾火食堂は、古い倉庫をリノベーションしたもので、旧和美駅舎の窓枠を利用するなど新旧をうまく混在させた空間である。2階と3階は民宿として、旅人を受け入れている。経営するのは鹿港の町おこしに取り組む団体「鹿港囝仔」(ろっかんぎんぁ)。地元の青年を中心に、空き家再生や鹿港の歴史と関わる文化事業に力を注いでいる。
拙著『山口,西京都的古城之美』に鹿港囝仔リーダーの張敬業さんが興味を持ち、2018年、講演に呼んでくれたのが彼らと知り合うきっかけだった。それから3年、張さんと禾火食堂の責任者である施佳君さんが結婚し、愛娘の菲菲(フェイフェイ)ちゃんが生まれた。現在、店内にはベビーソファやベビーベッドも備わり、スタッフらは代わるがわる菲菲ちゃんの面倒をみる。吹き抜けのロフトには鹿港囝仔のオフィスがあり、文化事業方面の作業はここで進められる。大きな家庭のような、そして小さな「コミューン」のような禾火食堂は、この日の夕食どきも満席で、席が空くのを待つ客もいる人気ぶりだ。
鹿港が文献にはじめて姿をあらわすのは1784年、清朝乾隆時代。中国・福建とのあいだに航路が開かれたこの港町は、台南の府城に次ぐ都市として栄えた。しかし、日本統治時代に鉄道交通網から外れ、繁栄の勢いはゆっくりと失われていく。
近年はますます若者が都市部に流出し、古い建築物を世話する人もなくなった。寂れる一方の地元に危機感を募らせ、進学や就職で故郷を離れていた若者たちがUターンして結成したのが「鹿港囝仔」だ。
活動は2012年、地域の清掃から始まった。風の強い鹿港の、街かどの曇ったカーブミラーを拭いてまわり、池をきれいにした。廃墟を整理するうち、鹿港に堆積する歴史や文化のかけがえのなさに触れ、文化資産保存へと意識が向けられる。現在は多くの友人やパートナー事業者、自治体といっしょに鹿港の「地方創生」に取り組み、アートフェスティバルも開催する。
ちょうどこの日、鹿港囝仔による「保鹿協会」が清掃に関わった鹿港金銀廳の「金銀格扇」が、鹿港公会堂で公開されていた。鹿港金銀廳は、地元の実業家・黄慶源によって1935(昭和10)年に建てられた豪勢な屋敷で、張敬業さんたちの努力で彰化県の文化財(歴史建築)に登録された。今回展示された「金銀格扇」は、黃秋・黃俊傑兄弟が母親の誕生日を祝うため人間国宝級の木彫工芸師であった故・李松林に作らせたもので、片側一面は金色、裏面は銀色と祝儀不祝儀で使える贅を尽くした屏風である。全部で28枚あったが、盗難のため今は18枚のみで、県の文化局の補助で修復されて今回の展示が実現した。
それまでの道のりが平坦だったわけではない。鹿港金銀廳の文化財登録は、現在の土地の持ち主の権益を損なうとして行政訴訟が起こされ、張さんたちも個人財産への干渉だとひどく批判された。そうした事を、乗り越えてきた。
1930年代の鹿港の栄華を伝える見事な細工を眺め、思わずため息がもれる。そのうちの一枚に「子孫へ」と書かれた屏風があった。さすがの泥棒もこの一枚は運び出すのを躊躇ったのだろうか。今「鹿港の子供たち」によって陽の目をみた金銀廳の「金銀格扇」。無我夢中に残そうとする努力を経たものだけが、後の世を豊かにする財産として遺されていく。
禾火食堂に帰り、鹿港の名物のお菓子「鳳眼糕」のDIY体験もした。原料となるアーモンド粉などを調合した粉を木製の型にギュギュっと詰めて型抜きするのだが、ともすれば端が崩れてなかなか難しい。鳳凰の眼を思わせる佳人の切れ長の瞳、という雅やかな名前を持つこのお菓子づくりを指導してくれるのは、鹿港で4代続く「鄭興珍」の当主、鄭富瑋さん。鄭興珍の始祖は、16歳のときに福建泉州からお菓子に関する「秘密のレシピ」の書かれた手帳を携えて鹿港にやってきた鄭槌である。黄姓の商売人と共に「玉珍斎」を開業したが、方針の違いから黄氏とわかれ、自身の店「鄭興珍」を開業した。つまり、鹿港でよく知られる菓子店「玉珍斎」とルーツを同じくする、1887年開業の老舗である。和菓子の生落雁のような繊細な口当たりの優美なお菓子で、日本統治時代から数々の食品賞を受賞してきたが、その裏にはどれだけの苦労があったろう。
夜は、禾火食堂の上にある民宿「東皋歇暝(たんこ・ひょうみ/Tang-ko Hioh-mî)」の宿泊客向けナイトツアーに参加した。禾火食堂のある復興路は、鹿港の街をぐるりと壺形に取り囲んだ道路東側の幹線にあたり、1889年の地図をみると市街と農耕地との境界なのがわかる。つまりここは私のような外の人間にとって、「鹿港ワンダーランド」への入り口なのだ。
案内してくれるのは郷土研究家の「學哥」こと李宗學さん。暗い通りをぐねぐねと曲がり細い路地に入る。鹿港の路地風景を好む人は多いだろうが、夜のわくわく感は格別だ。民宿のスタッフが、列の前後で鹿港の伝統工芸である提灯(ちょうちん)をぶら下げている。暗い路地をゆく私たち自身が古都の夜景の一部となるような、特別な感覚である。
1921年の『日治二萬五千分之一地形圖』にも描かれている由緒正しい路地を提灯の明かりに誘われるように歩いていくと、「鹿港景靈宮」という廟にでた。特に鹿港で信仰を集める「蘇府王爺」が祀られるが、元は泉州移民によって拓かれた鹿港の土地の東を護る土地公として1717年に建てられた。東の安らかな土地を意味する「東皋福地」と書かれた扁額があり、民宿「東皋歇暝」の名はここから取られたという。
ひとつの廟から暗い路地をひたひたと歩くうちにふっと明るくなり、次の廟がある。廟の脇には香や錫といった伝統工芸の店舗や工房が並び、この街を拓いたひとびとの平安を願う心が道具に息づいて、鹿港の重厚な文化を支えているのがわかる。
そのうち、いつの間に大きな建物の後ろへ出た。台湾五大家族のひとつ、鹿港辜家を興した辜顯榮の旧宅「鹿港民俗文物館」である。鹿港を訪れた人なら大抵一度は来ている観光地だが、その後ろを夜に歩くなんて思いもしなかった。高い壁の上に文物館の窓がある。かつて幾人の泥棒がここから中へ忍び込もうと企んだんだろう?
古い地図をみれば、今は駐車場が広がる館の正面には、かつて大きな池があったらしい。辜顯榮宅の二階に登れば、広大な池の向こうに彰化と南投の境界にあたる八卦台地が見えたかもしれない。
民俗文物館の裏道をさらにいけば「和興青創基地」。清代には塩の集積拠点であり、日本統治時代に「和興官吏派出所」のための宿舎群だった建物で、2021年にリノベーションが終わり、鹿港の若者発のセレクトショップが集積する。
ナイトツアー終点は「勝豐バー」である。ここも日本統治時代からある連棟式の二階建てをリノベーションしたもので、建物の持ち主である許家の若旦那、許鉅煇さんが経営しているとっても良質なバーだ。
台湾屈指の観光名所、鹿港。しかし観光に訪れる人は、殆どが日帰りか、夜は彰化や台中へ移動してしまう。そこで鹿港囝仔の張さんや許さんは「夜も楽しめる鹿港」について考えた。勝豐バーや夜の街歩きツアー、そして民宿「東皋歇暝」はどれも、泊りがけでゆったり滞在して鹿港を味わってほしいという願いの実践なのだ。
翌日、チェックアウト時に、前日に注文しておいた土産物の包みを受け取った。地元っ子の「とっておきグルメ」が並んだリストに購入数を書き込んでスタッフに渡せば、買い揃えてくれるサービスだ。これなら、両手に荷物を抱えて観光する必要も、最後に焦って土産店を走り回る必要もない。さらに言えば、作り手の見えない店でお金を使うのではない、鹿港囝仔の仲間たちの所で消費できるのも嬉しい。一泊二日と短いけれど、彼らの取り組む町づくりの一員に入れてもらえたような、そんな素敵な旅である。
写真は一部を除き、筆者撮影・提供
バナー写真=ナイトツアーの様子。写真中央が郷土研究家の「學哥」こと李宗學さん。民宿のスタッフが、鹿港伝統工芸の提灯をぶら下げている。