魯迅と「藤野先生」:“相思互敬”の師弟愛

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中国近代文学の父、魯迅の自伝的短編小説『藤野先生』は日中両国の教科書に載る名作だ。日清戦争後、両国関係が悪化していく中、国境を越えた “相思互敬”の師弟愛が生まれた。その先生、医師の藤野厳九郎(げんくろう)の生涯と魯迅との厚誼(こうぎ)をたどり、今日的意義を考える。

中国人も訪れる藤野厳九郎記念館

福井県あわら市温泉1丁目203番地。あわら湯のまち駅(えちぜん鉄道)から徒歩1分ほどの湯のまち広場の一角に「藤野厳九郎記念館」がある。

記念館には藤野家の診療所を兼ねた木造2階建て旧居=登録有形文化財(建築物)=が移築されている。記念館の前庭には藤野厳九郎が座り、若き日の魯迅が寄り添うように横に立つブロンズ像が設置されている。館内の資料室にも二人の胸像が並ぶ。

記念館の前庭にある藤野厳九郎(左)と若き魯迅(右)のブロンズ像
記念館の前庭にある藤野厳九郎(左)と若き魯迅(右)のブロンズ像

「新型コロナウイルス感染症がまん延する前は年間2000人から3000人ほどの来館者がありました。そのうち1割程度が中国人の留学生や観光客でした」

1月17日、記念館に13年間勤めている劉冬蓮(りゅう・とうれん)さんは流ちょうな日本語でこう話してくれた。1967年生まれの劉さんは、中国内陸部にある江西省上饒(じょうじょう)市出身。彼女は89年に日本に留学、2009年にあわら市観光協会の職員に採用された。記念館に大勢の中国人観光客らが来場するようになったため、中国人スタッフが必要になったからだ。

劉さんは「来館者のほとんどは魯迅が好きな人たちです。中国からは修学旅行で学生も来ますが、中国人の多くは『藤野先生』を知っています」と解説する。

「私がわが師と仰ぐ人のなかで、彼こそはもっとも私を感激させ、私を激励してくれたひとりである」
魯迅が1926(大正15)年10月12日に書き上げ、同年12月に発表した小説『藤野先生』の一節だ。

魯迅の『藤野先生』の手書き原稿の複製(藤野厳九郎記念館)
魯迅の『藤野先生』の手書き原稿の複製(藤野厳九郎記念館)

仙台から福井へ「曲折の後半生」

藤野厳九郎とはどのような人物だったのか。記念館にある各種展示や遺品だけでなく、関連書籍などの資料を基に彼の一生を概観してみよう。

出生は1874(明治7)年7月1日。医師、藤野昇八郎(恒宅)・ちくを夫妻の三男として、敦賀県(現福井県)坂井郡下番(しもばん)村に生まれた。現あわら市下番である。

地元の複数の小学校、福井県尋常中学校などを経て92年、愛知県立愛知医学校(現名古屋大学医学部)に入学、96年に卒業。翌年、医術開業免許を授与された。東京帝国大学にも出張して1年間、解剖学を学んだ。

1901年10月、仙台医学専門学校の講師に迎えられた。魯迅(本名周樹人)が同校の最初の中国人留学生として入学したのは04年9月。その時点で解剖学の教授になっていた厳九郎は30歳。魯迅は9月で23歳。その邂逅(かいこう)から約1年半にわたって師弟愛が育まれたのである。

しかし、「藤野先生」は転機を迎える。12年に東北帝国大学医学専門部の教授となったものの、医学教育制度の改革で専門部が廃止され、教授として残れずに15年に退職したのである。

その経緯を巡っては諸説ある。土田誠著『医師 藤野厳九郎』(あわら市日中友好協会)によると、「学位がないとか、県立の愛知医学専門学校卒業の経歴しかないとか、果ては外国留学の実績がないなどといわれ、結局は仙台に残ることはできなかった」とされる。

厳九郎は福井県の郷里に帰り、開業していた次兄を手伝うとともに、三国町(現坂井市)や生家の下番など地元で開業医を続けた。

愛知醫學校の卒業証書(藤野厳九郎記念館)
愛知醫學校の卒業証書(藤野厳九郎記念館)

頑固ながら「医は仁術」を実践

厳九郎は愛知医学校時代、名古屋の小料理屋で三味線を弾いていた加藤りかと知り合った。りかは早くに両親を亡くしていた。『医師 藤野厳九郎』によると、「厳九郎は彼女の話を聞いて、いたく同情した。私と結婚してくれと厳九郎は頼んだ」。二人は結ばれたが、りか夫人は1917年12月30日、病気で亡くなった。享年43だった。

郷里に戻ったばかりで愛妻を失った厳九郎は非常に落胆したという。だが、周囲の勧めで18年、井田文と再婚した。翌年に長男の恒弥、23年には次男の龍弥が生まれた。

開業医時代の厳九郎の人柄をうかがわせるエピソードが坪田忠兵衛著『郷土の藤野厳九郎先生』(藤野厳九郎先生顕彰会)で紹介されている。「気むづかしい人で、特に機嫌が悪いと非常につきあいにくい人であった」、「楕円形の金縁の眼鏡を掛けていた」、「貧しい人からは診療代を取らず、盆払い、暮れ払いに持ってくるまで、いつまでも待って督促はしなかった」などだ。

移築された旧宅の一室(藤野厳九郎記念館)
移築された旧宅の一室(藤野厳九郎記念館)

頑なで服装にも無頓着ながら、「医師としての態度は、それこそ“医は仁術”そのもので、ごまかしは大嫌いな変人に似た真面目一本やりのお医者様であった」。謹厳実直で、患者から尊敬されていたことがうかがえる。

魯迅は『藤野先生』で「彼の性格は、私の眼中においても、また心中においても、偉大である。たとえ彼の姓名が多くの人びとに知られていないとしても」と讃えている。

旧家出身で愛煙家という共通点

魯迅は1881年9月25日、清の時代の紹興(現中国浙江省紹興市)に生まれた。没落しかけたとはいえ、生家の周家は代々、科挙の合格者を出し続ける名家だった。

一方、藤野家は代々、医者の家系であった。厳九郎の祖父の代から蘭学を学んだ。父親は現在の大阪大学医学部へとつながる緒方洪庵の適塾に入門している。厳九郎自身は小学校在学と並行して、元福井藩士の野坂源三郎の私塾に通い、漢籍、算術、習字などを教わった。

魯迅と厳九郎はともに旧家出身で、幼くしていったん母方の親戚の養子となったり、父親を早くに失くしたりと境遇が似ている。魯迅はヘビースモーカーとして知られた。厳九郎は「たばこは朝日が大好物で噛むほどいつも吸っていられた」(『郷土の藤野厳九郎先生』)。こうした共通点も二人を深く結びつけたのではないか。

魯迅は日中が全面戦争に突入する前年の1936年10月19日、上海で永眠した。享年55。厳九郎は仙台で別れて以来、二度と魯迅と会う機会はなかったが、『文学案内』37年3月号に「謹んで周樹人様を憶ふ」と題する追悼文を寄稿した。

『藤野先生』には、解剖学のノートを朱筆で丁寧に添削する有名なエピソードが出てくる。追悼文では「私は時間が終はると居残って周さんのノートを見て上げて、あの人が聞き間違ひしたり誤ってゐる処を訂正補筆したのでした」と魯迅に親切にしたことをさりげなく表現している。

追悼文では少年時代、「野坂先生」に漢文を教えてもらったことにも言及し、中国の「先賢を尊敬する」と同時に、中国人を「大切にしなければならない」という気持ちがあったと綴っている。

魯迅の仙台留学は、日本が日清戦争に勝ってから間もない時期で、ちょうど日露戦争と重なっていた。当時の日本には中国人を見下すような風潮もあったと言われるが、厳九郎は漢学の素養があっただけに、魯迅とは相思相愛ならぬ“相思互敬”の間柄だったのだろう。

上海の内山完造が魯迅死去8年後に「藤野先生」に送った手紙(藤野厳九郎記念館)
上海の内山完造が魯迅死去8年後に「藤野先生」に送った手紙(藤野厳九郎記念館)

「故郷」あわら・紹興が友好都市

厳九郎は開業医時代、戦争にも反対していた。『医師 藤野厳九郎』によると、「中国と戦争するのはあかん」と患者の前で軍を批判していたという。当時は治安維持法で検挙されかねない言行だ。

長男の恒弥はくしくも東北帝国大学医学部に合格、軍医将校となった。ところが、1945年1月1日、広島陸軍病院にて25歳の若さで戦病死した。厳九郎は悲痛落胆、ときに放心状態になったという。酷暑の8月10日、往診の途中に倒れ、恒弥の後を追うかのように翌11日に息を引き取った。享年71。老衰と診断された。

あわら市の記念館には厳九郎の黒い鞄や医療器具なども多数残されている。最後まで一医師として患者に尽くした人生だったことが偲ばれる。実は仙台から帰郷後に北京医科大学の教授に招かれたことがあるが、厳九郎はその申し出を断り、町医者に徹する道を選んだ。

藤野厳九郎は世間的には無名だったかもしれない。しかし、魯迅との師弟愛は戦後、日中両国で語り継がれている。お互いの「故郷」である芦原町(現あわら市)と紹興市が83年に友好市町締結の調印をしたことは象徴的だ。

そのきっかけは81年に北京で開かれた「魯迅生誕百周年記念行事」に合わせ、福井テレビが「魯迅のゆかりの地をたずねる」訪中団(団長、青園謙三郎福井テレビ会長)を派遣したことだ。総勢30人で同年9月19~26日に上海、杭州、紹興、北京を歴訪した。

訪中団に同行した福井テレビの小川忍記者(当時、後に取締役)とNHK福井放送局の上滝賢二記者(同、後にNHK理事)によると、訪問団顧問の齊藤五郎右エ門・芦原町長(当時)が紹興市人民政府幹部に友好市町となることを提案したのに対し、「紹興市としても前向きに考え、中央政府に伝える」との回答があった。若き記者二人は競うようにテレビニュースで報じた思い出があるという。

魯迅が通った紹興の私塾「三味書屋」(1981年9月、小川忍氏撮影)
魯迅が通った紹興の私塾「三味書屋」(1981年9月、小川忍氏撮影)

『クレイグ先生』ともう一つの師弟譚

魯迅は医学から文学に転向するため、1906年3月、仙台医学専門学校を退学、東京に向かった。譚璐美著『戦争前夜 魯迅、蔣介石の愛した日本』に記されているように、魯迅は仙台から東京に移ると、尊敬する夏目漱石が住んでいた本郷の貸家で暮らしたこともある。魯迅は帰国後、漱石が英国留学時代の恩師をモデルに執筆した『クレイグ先生』を中国語に翻訳するほど、漱石に傾倒していた。

魯迅の『藤野先生』は、実は『クレイグ先生』を参考にしたのではないかと指摘する魯迅研究者は少なくない。もっとも、魯迅の師弟関係は「藤野先生」にとどまらない。

「私はふと魯迅と増田渉のことを思い出した。これは、異国の師弟の情誼であって、まことに藤野先生と魯迅の間の友情の延長に相当するのではないか?」

魯迅の長男、周海嬰氏が「藤野先生と魯迅」刊行委員会編『藤野先生と魯迅-惜別百年-』(東北大学出版会)に、『「惜別」百年の感想』と題して寄稿した一節である。

中国文学者、増田渉は31年、上海に渡り、魯迅の寓居(ぐうきょ)で毎日3時間、膝を突き合わせて個人的に教えを受けた。魯迅は34年、岩波文庫の『魯迅選集』に『藤野先生』だけは入れてほしいと帰国していた増田に要請、『魯迅選集』は翌年出版され、厳九郎はかつての教え子が高名な作家になっていたことを知った。

海嬰氏は寄稿で「魯迅は藤野先生に感激した気持ちを、この日本の青年学者に返すつもりだった(中略)。藤野先生の魯迅への厚情、魯迅の増田渉への厚情、中日両国の間には、こういう好ましい故事や好ましい典範が必要である」と訴えている。

「惜別」写真が投影する今日的意義

「藤野先生」が自分の写真(裏に「謹呈周君 惜別藤野」と署名)を仙台を去る魯迅に贈ったことはよく知られている。小説は以下のように結ばれている。

藤野厳九郎が魯迅に贈った写真(複製)の裏面に「惜別」の署名(藤野厳九郎記念館)
藤野厳九郎が魯迅に贈った写真(複製)の裏面に「惜別」の署名(藤野厳九郎記念館)

「先生の写真だけは、今でも北京のわが家の東の壁に、机に向けて掛けてある。夜、仕事につかれてなまけたくなったようなとき、そのたびに顔をあげて灯影の中に、彼の色の黒い、やせた顔を見やる。すると、いまにもあの抑揚のひどい口調で、つかえながら話しかけてくるように思われて、たちまちまた私は、良心がふるい起こされ、勇気がましてくる。かくて一本のタバコに火をつけ、ふたたび『正人君子』のやからに深くにくまれる文章を書きつづけるのである」

「東の壁」は日本の方角を意味している。「正人君子」とは封建的、保守的な人たちを風刺しているのだろう。魯迅はペンで鋭い論陣を張った。医道を貫いた厳九郎はときにメスを握った。二人ともいわゆる“いい人”ではなく、芯の強い人間だった。だからこそ、共鳴し合ったのかもしれない。

2022年は日中国交正常化50周年。魯迅が清国の官費留学生として1902年4月に横浜港に上陸してから120周年でもある。昨年は魯迅生誕140周年、記念イベントが相次いだ。だが、現在の日中関係は良好とは言えない。民間外交の模範ともいえる「魯迅と藤野先生」の物語は、今日的意義を失っていない。

(注記)魯迅の小説『藤野先生』の翻訳は多数あるが、本稿では全国学校図書館協議会(1985年4月15日発行)の松枝茂夫訳を引用した。

バナー写真:藤野厳九郎記念館の資料室にある藤野厳九郎(左)と魯迅(右)の胸像 撮影:筆者(藤野厳九郎記念館関連は全て)

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