《追悼・水島新司》希代の野球漫画家が、先駆者としてジェンダーの壁に挑んだわけ

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水島新司氏の代表作の一つ『野球狂の詩』は、架空のプロ野球チーム・東京メッツを舞台に、実在するチームや選手を登場させつつ、愛すべき「野球狂」たちの姿を描いた野球群像劇だ。1972年に『週刊少年マガジン』で連載が始まったこの作品に登場する主役の一人が水原勇気。日本のプロ野球初の女性選手であった。ジェンダーへの意識も希薄だった時代に、希代の作家が常識破りの漫画を描いた背景とは?

日本初の女性プロ野球選手

2022年2月現在、現実の日本プロ野球機構(NPB)にはまだ、医学上女性の選手はひとりも所属していない。しかし想像力のつばさを広げるのであれば、すでに20世紀、1970年代にその第1号選手が誕生している。

水原勇気、投手。2022年1月に物故された漫画家、水島新司氏の作品『野球狂の詩』の中心人物のひとり。彼女は武蔵野高校在学時、東京メッツにドラフト1位で指名され、球界のみならず日本社会に激震を巻き起こした。

彼女自身はもともとアフリカに渡って動物学者になるという志望を持ち、プロ野球選手になることはまったく考えていなかった。

それも当然で、当時の野球協約には第83条に「医学上、男子と認められない選手は支配下選手にすることはできない」という条項があった。それにそもそも当時の常識として「女性がプロ野球に入って戦力になることができる」とは、誰も考えていなかったのである。彼女の前には「制度」と「常識」という、ふたつの大きな「ジェンダーの壁」が立ちふさがっていた。

だが、メッツのスカウトや、すでに50歳を超えていた現役投手、岩田鉄五郎、彼の盟友の五利一平監督は彼女のピッチングを見てその資質に瞠目(どうもく)。強行指名を行った。当初は固辞したものの、ついに入団を決めた彼女が、自らの希望で統一契約書に追記した条件が「グラウンド上では男子選手と同等に扱うこと」だった。

水原勇気は入団1年目から1軍に昇格する。その武器は、超個性派ぞろいのメッツの選手の中でも一番といわれた頭脳と、エースの火浦健投手に次ぐマウンド度胸。そして苦心の末に編み出したオリジナルの変化球「ドリームボール」。彼女はリリーフピッチャーとして活躍し、阪神タイガースの田淵幸一選手らセ・リーグの強豪打者と渡り合った。

新装版『野球狂の詩  水原勇気編』(講談社漫画文庫)。水原勇気は、未登録選手として強行出場したオープン戦・阪神戦で気迫の投球を見せ、「連盟が認めさえすれば女性も野球選手になれる」との「第83条」改訂を勝ち取った。今読み返しても胸が熱くなるシーンの連続だ 撮影:ニッポンドットコム編集部
新装版『野球狂の詩  水原勇気編』(講談社漫画文庫)。水原勇気は、未登録選手として強行出場したオープン戦・阪神戦で気迫の投球を見せ、「連盟が認めさえすれば女性も野球選手になれる」との「第83条」改訂を勝ち取った。今読み返しても胸が熱くなるシーンの連続だ 撮影:ニッポンドットコム編集部

デビュー当初から高かった完成度

水島氏が日本初の女性プロ野球選手、水原勇気の活躍を描くにあたって力を注いだのは「実際にあり得る」リアリティだったという。

水島氏は1939年新潟市生まれ。小学校3年生からアルバイトをはじめ、中学生になると家業の鮮魚店を手伝うようになる。卒業後は朝5時に起床し仲買に向かうという激務をこなすが、その合間の短い時間に貸本屋の漫画を読みあさった。もともと絵が得意だった水島氏は大阪の貸本漫画版元、日の丸文庫の新人杯に応募。故さいとうたかを氏の推薦で二席に入る。

当時の応募作はマニアックで理屈っぽい作品が多く、審査員もそうした漫画を評価していたそうだ。しかし水島氏は最初から娯楽性を意識していて、完成度が高かった。さいとう氏は俄然、水島氏の作品を推したという。

2015年の天皇、皇后両陛下(現在の上皇ご夫妻)主催の秋の園遊会に招待された水島氏。2005年に紫綬褒章、14年には旭日小綬章を贈られている(2015年11月12日、東京・赤坂御苑) 時事
2015年の天皇、皇后両陛下(現在の上皇ご夫妻)主催の秋の園遊会に招待された水島氏(中央)。2005年に紫綬褒章、14年には旭日小綬章を贈られている(2015年11月12日、東京・赤坂御苑) 時事

水島氏は入選を契機に大阪に出て漫画を描き始める。初期は時代物など、少女漫画以外のどんな分野も手がけたが、本当の大勝負は「投げる、打つ、守る」という、野球の場面を納得できるように描く技術を身につけてから。その上で「子どものころから好きだった野球漫画」を描くと決めていたそうだ。

そうした水島氏が、ついに挑んだ野球漫画が、少年サンデー連載の『男ドアホウ甲子園』。この作品のヒットの後、水島氏は『ドカベン』『あぶさん』をはじめ、長く愛される野球漫画の名作を世に送り続けることになる。

「子どもたちに好きな野球のすべてを伝えたい」「うそのない野球漫画を描くために」。水島氏はずっと密着取材を続けてきた。その姿勢は徹底していて、故野村克也氏が南海ホークス(現ソフトバンクホークス)の監督を務めていた時代、後楽園球場にホークスが来ると出かけていって練習の球拾いをした。そうしてプロの現場を取材するうちに、とうとうどの球場に行ってもフリーパスで球拾いができるようになったという。

名捕手からもお墨付きの魔球

そうした水島氏の作品だけに、『野球狂の詩』の展開は荒唐無稽なファンタジーではない。これは有名な話だが、水島氏は多くの選手に「野球で女性が男性に勝るものがあるとすれば、それは何ですか」と聞いて回ったそうだ。しかし、みな否定的な中、ただひとり野村氏だけが、変化球勝負の投手で1イニング限定ならばやれるだろうと答えた。それで生まれた投手が水原勇気であり、彼女の武器であるドリームボールだった。

このドリームボールも決して神秘的な魔球ではない。当時阪神タイガースの江本孟紀(たけのり)投手のシュートと、読売ジャイアンツのクライド・ライト投手のスクリューを合わせて発想したもの。シュートして、揺れて、落ちる。野村氏はこの変化球についてもあり得るボールだと言ってくれたそうだ。

もっとも、野球漫画にかけては誰にも負けないという自負を持つ水島氏にして、当時、女性投手の活躍を「現実にあり得る話」として描くのは大変な冒険だったという。ではなぜ、水島氏はそうした冒険に挑んだのだろうか。

アニメ版のオリジナルサウンドトラック『野球狂の詩』の解説「私と野球狂」によると、着想のきっかけは1971年から1978年にかけて、「水泳1500m自由形の女子世界記録が、男子の日本記録を上回っていた」という現実。ジェンダーの壁を越えて、男性をしのぐ力を持つ女性が実際にいる。この記録に触発された水島氏は制度の壁に挑戦してみようと思い立った。

1977年から1979年にかけてテレビアニメが放映され、サウンドトラックも制作された。帯には水島氏のコメントとして「野球を愛するすべての女性、および水原勇気を愛するすべてのファンに捧げます」と書かれている 筆者撮影
1977年から1979年にかけてテレビアニメが放映され、サウンドトラックも制作された。帯には水島氏のコメントとして「野球を愛するすべての女性、および水原勇気を愛するすべてのファンに捧げます」と書かれている 筆者撮影

ヒロインが活躍する時代背景

そしてもうひとつ、娯楽の分野には「不況期には女性キャラクターが注目される」というジンクスがある。『野球狂の詩』が発表された1970年代も二度にわたって「オイルショック」が起こり、生活用品が買い占められるなど、不況の時代だった。実際にこの時期、『エースをねらえ!』の岡ひろみや、『ベルサイユのばら』の男装の麗人、オスカルなど少女マンガのヒロインが人気を集めている。

優れた創作者とは時代の空気を共有しているもの。これは想像がすぎるかもしれないが、もしかすると水島氏もこうした時代の中で「プロ野球に挑む女性投手」を描こうと発想されたのではないだろうか。

傍証というわけではないが『野球狂の詩』には少女漫画家・里中満智子氏との合作が含まれている。『ドカベン』のエース、里中智の名の由来は、里中満智子氏の「里中」。「女性読者にも読んでもらいたい。そのためになじみのある名前を」ということで里中氏に依頼し、名前を借りたのだそうだ。「女性を描くことで、少女漫画の読者にも野球のおもしろさを伝えたいと意識していたのでは?」という筆者の想像は、この辺りに由来する。

ただ、創作者も水島氏のように偉大な存在となると「時代を共有する」ことを超えて、その作品によって「時代そのもの」を創り、動かしてしまう。

たとえば水島氏は週刊現代2005年4月23日号で、「落合も清原も新庄も振れなかった1mのバットを、あぶさんは振れる」と語っていた。これを読んで筆者などは「すごい! 水島氏にとって現実の選手と同じようにあぶさんも存在しているんだ」と感じたものである。うそのない野球漫画を目指してきた水島氏だから到達できる境地。つまり氏にとって、夢(=作品)と現実は等価なのだ。

象徴的なことに「ドリームボール」は、『野球狂の詩』のもうひとりの主人公ともいうべき人物、万年ファーム暮らしの捕手、武藤兵吉が見た夢から生まれている。その夢は「夢のお告げ」といった甘いものではなく、「水原の捕手として昇格し一軍で活躍する」という、とても切実な夢だった。この夢の場面から逆算し、ドリームボールは現実となる。人の可能性を拓(ひら)くものは夢。リアリティも大事だが夢も大事。

プロ野球協約から性別の制限がなくなったのは1991年。全国高等学校女子硬式野球連盟が発足したのは1997年。そして2008年にはプロ野球独立リーグに吉田えり投手が誕生している。その歴史の中で、常に水原勇気の存在が言及されてきた。夢が常識を破り、現実を変えてきた、といえる。

ナックルボールを武器に、高校生で関西独立リーグ入りした吉田えり。2010年には米独立リーグのチコ・アウトローズに入団。ニューヨーク・タイムズ紙は5月31日付スポーツ面トップで報じた 共同
ナックルボールを武器に、高校生で関西独立リーグ入りした吉田えり。2010年には米独立リーグのチコ・アウトローズに入団。ニューヨーク・タイムズ紙は5月31日付スポーツ面トップで報じた 共同

先にふれた「私と野球狂」の最後で、水島氏はこのように語っていた。

「しかし、水原勇気は多くのファンを得ることができ、少女野球の流行さえ生みました。少女野球が語られるとき、いつも水原勇気の名が持ち出されるのは、作者としてこんなにうれしいことはありません。思い切った冒険作でしたが、苦労のしがいがあったというものです」

水島氏の冒険は今もなお受け継がれ、新たな挑戦者を生み出しているはず。いつかきっと“ドリームボール”を手にして、NPBのマウンドに上がる人も現れるに違いない。

バナー写真:ジェンダーや多様性といった言葉が存在しなかった1970年代、水島新司氏は水原勇気を描くことで「野球は男のもの」という当時の固定概念に風穴を開けた。さらに『野球狂の詩  平成編』では、40歳を超えた彼女をコーチ兼投手として現役復帰させている 撮影:ニッポンドットコム編集部

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