ジーコ・インタビュー(中):「忘れられないのは、アジアカップのヨルダン戦」
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テクニカルディレクターとして鹿島の黄金時代を招来
一度、現役を引退した後、再びピッチに戻ったジーコにとって、1991年にアマチュアチームの住友金属工業蹴球団(鹿島アントラーズの前身)からのオファーを受け入れたこと自体、大いなる挑戦だった。
世界のトップシーンで培われた知識と経験を余すことなく伝えたジーコは、プロ化に向けて歩み出す“ひよっこクラブ”を強豪へと押し上げていく。その過程の中で浸透させた「勝利への執着心」は今もなお鹿島に息づくマインドだ。
94年の夏に選手としてのキャリアを終えると、96年からテクニカルディレクターに就任。ピッチ外から鹿島を支え、初の年間タイトル(それまでは1993年のファーストステージ優勝のみ)となった96年のJリーグ制覇の瞬間に立ち会った。
そこから3シーズンで、鹿島はカップ戦を含め4つのタイトルを獲得。2000年にはJリーグ史上初の国内3大タイトル(Jリーグ、天皇杯、Jリーグカップ)を独占するなど、黄金時代の到来を告げた。
クラブ草創期からチームを支え、けん引し、鹿島にJリーグ最多のタイトルをもたらしたジーコの手腕を、誰もが称賛してやまなかった。鹿島の創造主――そんな表現が当てはまるレジェンドに新たな挑戦の機会が訪れる。
代表監督就任会見で見せた日本へのリスペクト
「初めて鹿島に来た時に、まさか自分が将来、日本代表の監督を任されるとは思ってもみなかった。サッカー人生では何が起こるか分からないとよく言うけれど、本当にその通りだよ」
2006年のドイツ・ワールドカップを目指す日本代表監督として白羽の矢を立てられたジーコは、こう言って驚きを隠さなかった。だが、その一方で、あふれんばかりの意欲も胸に抱いていた。
「(常勝軍団と称されるまでになった)鹿島での仕事が認められたわけで、オファーをいただいて大変光栄だったし、誇りに感じた。断る理由など見つからなかった。日本サッカーは急速に成長している。さらに伸びていく可能性も秘めている。私の信念でもある攻撃的なスタイルを貫いて、応援してくれる人たちに少しでも喜んでもらえるような代表チームを作りたいと思っていた」
02年日韓ワールドカップ終了後の7月22日、東京都内のホテルで行われた日本代表の監督就任会見に臨んだジーコは登壇する前に、一度立ち止まり、お辞儀をした。来日して11年。日本人より日本人らしいと周囲から評されるジーコならではの律儀(りちぎ)な一面を垣間見せた。
もっとも当の本人はあの時の振る舞いについて「よく覚えていないけれど」と苦笑しつつ、こう言葉をつなぐ。
「長年、日本で暮らしてきて、お辞儀が日本の中で大切な礼節だというのは、もちろん知っていたからね。自然に出たことじゃないかな。日本の習慣や文化、規律を重んじる国民性は自分の思考や性格にすごくマッチしている。いつも自然体でいられるし、とにかく居心地がいいんだ」
就任会見に同席したJリーグ初代チェアマンで、日本サッカー協会の川淵三郎会長(当時)は「サッカーに対する情熱、知識、経験など、どれをとっても素晴らしい。日本代表を任せる上で、これほどふさわしい人物はいない。どんなチームができるか、私自身も非常に楽しみにしている」と、手放しでほめちぎった。02年の日韓ワールドカップでベスト16にまで勝ち上がった日本代表の4年後に早くも思いをはせた。
サッカーファンを熱くした攻撃的サッカー
ジーコジャパンの初陣は2002年10月16日のジャマイカ戦だった。東京・国立競技場に5万5437人の観衆が詰めかけ、関心と期待の高さをうかがわせた。
中盤を構成したのは海外組の中田英寿(イタリア・パルマ)、中村俊輔(イタリア・レッジーナ)、小野伸二(オランダ・フェイエノールト)、稲本潤一(イングランド・フラム)の4人だ。1982年のスペインワールドカップで一世を風靡(ふうび)したブラジル代表の「黄金のカルテット」(ジーコ、ソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾ)になぞらえ、「日本版黄金のカルテット」と話題になった。
「サッカーはクリエイティブであるべきだというのが持論。これをしなければいけないという考えに縛られたり、失敗を恐れてばかりいたら、新しいものは生まれない。選手たちにはどんどんチャレンジしてほしい。その中でチームとしての成功体験を増やしていきたいと思っていた」
そしてもう一つ、ジーコ監督が選手たちに繰り返し求めたのは「勝利への執着心」だ。
「日本を代表して戦うわけだからね、相手がどこであれ、負けていい試合なんてない。自分たちの優位性を生かして、チーム一丸となって、勝利を目指す。それが私たちの責務でもある」
絶体絶命のヨルダン戦
2004年に中国で行われたアジアカップは、その「ジーコイズム」が存分に発揮された大会だ。前回覇者の日本を倒そうと意気込む他国を前に、幾度となく崖っぷちに立たされたが、見事に生還した。
「アジアカップの中で、忘れられないのはやはり(準々決勝の)ヨルダン戦だね。長年、サッカーの世界で生きてきたが、言葉では説明しきれないことが起こった。私はどんな状況に置かれても最後まで勝負をあきらめない。それが習性のようなものになっているが、ヨルダン戦はさすがに気が気ではなかった」
百戦錬磨、酸いも甘いもかみ分けるジーコ監督でさえ「平静を保つのが難しかった」と明かす伝説のゲームだ。この大会では、中村俊輔を除き、欧州組の中田英寿、高原直泰、稲本潤一を欠いていた影響もあってか、日本は予選から苦戦が続いた。なんとかグループリーグを首位で通過したものの、準々決勝のヨルダン戦は、歴史に残る激闘となった。
前半、先制点を決めたのはヨルダン。日本はすぐに同点としたものの、1-1のまま突入した延長戦でも決着がつかず、PK戦にもつれ込んだ。このPK戦の映像を改めて見直してみると、結果が分かっているにもかかわらず、肩に力が入ってしまうのだから、当時のジーコの重圧たるや想像に難くない。
手に汗握るどころではない。PKを行うサイドが途中で入れ替わるなど、前代未聞の光景も繰り広げられたのだから。先に蹴る日本は最初の2人が相次いで失敗し、絶体絶命のピンチを迎える。そこでキャプテンの宮本恒靖がレフェリーのところへ駆け寄り、サイドの変更を求めたのだ。PKを失敗したのは芝がめくれてのミスキックだったためだが、交渉の結果、逆サイドのゴールでPK戦を再開することになった。
サイドが変ってから流れが変わり、ヨルダンも2人PKを失敗し、サドンデスに突入。サドンデスに入ってからの6人目も相手GKに止められた。ヨルダンのPKが成功すれば、その時点で日本の敗退が決まるという絶体絶命のピンチを計3度も迎えたが、GK川口能活が神がかり的セーブを見せ、チームを救った。
勝負を決したのは7人目のキッカーだ。日本のキャプテン、宮本恒靖がゴール左隅に丁寧に蹴り込み、ヨルダンのそれはポストをたたいた。PK戦を静かに見守っていたジーコ監督は勝利の瞬間、大声で叫び、抑え込んでいた感情を一気に爆発させた。
「ヨルダンの選手たちはPK戦の途中で、もう自分たちは勝ったと思っていたのではないか。でも、そうはならなかった。そこが集中力の欠如につながったような気がする。勝負は最後の最後まで分からない。私たち日本はヨルダンに敬意を払いつつ、感情に左右されることなく、勝利への執着心を貫いたからこそ勝つことができた」
苦闘の末のアジアカップ制覇
試練はまだ続く。3日後に行われた準決勝のバーレーン戦も薄氷を踏む逆転劇だった。1点のリードを許す展開の中、3-3の同点に追いついたのは90分の終了間際。そして日本の決勝ゴールは延長に入って3分後のことだった。
決勝を翌日に控えた公式会見で、ジーコ監督はこう言って胸を張った。
「日本は勝利を引き寄せるだけの力がある。(どっちに転んでもおかしくない試合の連続だったが)運で勝ったのではなく、持てる力とトレーニングの成果があってこその勝利だ。私たちは勝つべくして勝った」
2004年8月7日、北京で行われた決勝の相手は開催国の中国。完全アウェイの雰囲気の中、先手を取ったものの追い付かれる。だが、後半に2点を追加した日本が、前回の2000年レバノン大会に続き、アジアカップ連覇を成し遂げた。
うだるような暑さと湿気、連戦が疲労感を倍増させる、かの地で、スタメンをほぼ固定して戦う指揮官の采配に疑問を投げかける声も少なくなかったが、ジーコ監督によって闘魂を注入された日本がタイトルを持ち帰った。
「私は常にこれがベストと思えるメンバーをピッチに送り出している。その期待に選手たちがよく応えてくれた。何よりうれしかったのはチームが一体感をもって、勝利に執着し、優勝という成果を上げられたことだ。それは私が最も望んでいたことだからね」
表彰式の後、選手たちに胴上げされ、感無量といった表情を浮かべる指揮官がいた。ドイツ・ワールドカップのアジア予選に向けて大きな弾みとなったのは確かだった。
6戦全勝の末、ワールドカップ・アジア1次予選を突破したジーコジャパンは最終予選で北朝鮮、バーレーン、そしてイランと同組。05年2月9日、ホームでの北朝鮮戦を皮切りに、ドイツ行きをかけた真剣勝負が始まった。
敵地でのイラン戦に敗れたものの、その他の試合でしっかり勝ち点を積み上げ、6月8日の北朝鮮戦に2-0で勝利。最終予選を1試合残した段階で、ドイツへの切符を手に入れた。「世界最速、一番乗り」と、大いに話題を振りまいた。
ワールドカップ本大会の開幕まであと1年。「日本サッカー史上最強」と言われたジーコジャパンへの期待はとめどなく膨らんでいく。
バナー写真:アジア杯準々決勝ヨルダン戦、PK戦の末に勝利し、手を広げGK川口に駆け寄る宮本主将(2004年7月31日、中国・重慶)共同
以下、ジーコ・インタビュー(下):「日本には、本当に感謝しかない」に続く。
ジーコ・インタビュー(上):「鹿島との出会いが私のサッカー人生を豊かにしてくれた」