私の台湾研究人生:届かなかった論文抜き刷り——「警総」に郵便をインターセプトされる
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台湾から届いたPDFファイル
「先生の名前が入った書類が国家安全局のファイル中に見つかりました。『警総』が先生の郵便物をインターセプトして国家安全局に報告したものです。添付で送ります」といって、旧知の呉俊瑩さんからメールが来たのは、2021年9月のことだった。
呉さんとは、2007年に私が半年間、台湾の政治大学大学院台湾史研究科で客員教授をしていたときに知り合った。当時はまだ院生だったが、今や総統府直属の国史館(総統・副総統文物管理編纂機関)の研究員として史料の編纂(へんさん)に従事しつつ、新進の台湾現代政治史研究者として活躍している。
「警総」とは台湾警備総司令部のことで、1940年代末から87年7月まで続いた長期戒厳令の執行機関であり、この時期の政治統制と弾圧の中心的機構であった。台湾では長くこの略称で知られ恐れられた。国家安全局とは、総統に直属する国家内外の安全情報を統括する機関だ。総統就任間もない時期に李登輝が「私こそ情報機関の親玉だ」と言ったのは有名な話である。
政府機関保存の一件書類(行政などに関わる公的文書。台湾では「檔案」と呼ぶので以下これに倣う)は1999年に「檔案法」(政府文書管理法)が制定され、作成から30年を過ぎた政府文書は原則閲覧可能となっていたが、国家安全局のマル秘文書は民主化後もなかなか公開されなかった。しかし、権威主義体制時代の政治人権抑圧を見直そうという「移行期正義」の声の高まりを受け、現在の蔡英文政権になってから「政治檔案条例」が制定されて、閲覧可能となったという。呉さんが送ってくれた文書は、国家檔案局に移管されていた国家安全局の檔案を、研究者として呉さんが個人の資格で申請して入手したものである(国史館所管の資料ではない)。
抜き取られ開封された通信、届かなかった研究論文
下の写真がその警総檔案の表書きである。呉さんが入手したのは「副本」で、発出者はゴム印で「沙淘金」の名が付され、呉さんによれば、これは警総で郵便検閲を担当する「特檢處」(=特検処)の別名である。かつての国民党政権では、政治的にセンシティブな部門に三文字中国人名を当てる習慣があった。この「副本」の宛先は「鍾國勝」だが、これも呉さんによれば、国内安全を担当する国家安全局第三処の別名である。「正本」の宛先「文正言」、副本のもう一つの宛先「高宇泓」も同局の政治情報の部門の別名であるという。檔案発出の日付は、写真右下の藍色ゴム印から「中華民国74年(1985年)7月24日」であることが分かる。
文書は、香港居住の若林正丈が「台湾抗日ナショナリズムの問題状況再考」という印刷物(私の論文の抜き刷り)を、台北市の江春男と台北県と台南市の人物に送ったもので、内容には1927年以後「台湾文化協会」「台共」(日本植民地統治期の台湾共産党)、「台湾民主党」などが台独運動に従事した等のことが書いてあるので、添付して参考に付する、との趣旨である。白いテープの部分は、国家檔案管理局が呉さんに入手を認める際、個人情報保護の規定により処理した部分である。
下の写真は、私が江春男氏に論文抜き刷りを郵送した際の封筒である。私は当時、在香港の日本総領事館に勤務していた。「江春男」とは、「私の台湾研究人生」ですでに2度ほど登場願っている司馬文武氏の本名である。同氏には事前に承諾していただいて名前を出している。司馬氏は、党外雑誌『八十年代』の編集を担当するなど、著名で影響力のあるジャーナリストであったから、警総は私をマークしていたというより、司馬文武氏への郵便物をマークしていて、私が香港から郵送した論文抜き刷りを見つけ、開封してみると「台湾共産党」などの語があるので、インターセプトするに至ったのであろう。
さらに下の写真は、その論文抜き刷りの表紙であり、檔案にはご苦労にも以下抜き刷りの裏表紙まで、全てのページが写真にとられて添付されている。論文の掲載雑誌は、私が当時助手として所属していた東大教養学部の幾種類かあった紀要の1つで、発行日は、1985年3月30日となっている。
かくして、この論文抜き刷りについて、宛先となっていた司馬文武氏らはもちろん、差出人本人の私も、呉俊瑩さんが国家檔案管理局のリストから探し出して知らせてくれるまで、36年間警総に抜き取られ国家安全局に報告されていたことを知らないでいたのである。
私が当時台湾の「党外」人士に盛んに接触していて情報治安機関のマークの対象になっていたことが、戒厳令解除後数年たって明らかになったことは前にも書いた。昨年秋呉俊瑩さんがこの檔案を探し出してくれたことで、遅くとも1985年夏にはマークの対象となっていたことがようやく分かったわけである。
ただ、この論文は、その後呉密察氏が翻訳して『当代』という月刊誌に掲載された。下の写真がその第1ページである。掲載誌の発行日は私の郵送がインターセプトされてからおよそ2年後の1987年9月1日。長期戒厳令がついに解除されたのが、その1カ月半前の同年7月15日であった。呉氏はどのようにしてこの論文を手に入れたのか私も思い出せないのだが、私の問い合わせに対して、呉氏はその昔自分が翻訳していた事すらも当初は忘れていたのだった。
長期戒厳令下の情報・治安のルーティーン・ワーク
私の論文は、日本植民地統治期に存在した各種抵抗運動の戦略構想を簡単に分析・分類しただけのものであった。現代の話には全く及んでいない。それゆえ公然と郵送しても大丈夫だと判断したのだと思う。警総が外国との通信を監視していることはもちろん知っていた。
実際に当事者から聞いた話をいまだによく覚えている。その人は当時台湾大学の大学院に留学していた日本人で、日本の大学では、中華人民共和国が制定したローマ字ピンインと簡体字で中国語を覚え、大学院レベルの勉強には詳しい大きめの中日辞典が必要である。だが、当時の台湾は簡体字の書物の持ち込みは禁止されていた。そして、旅客は入境に際しても出国に際しても荷物検査を受けなければならならず、ほとんど例外なくパスポート・チェックの後スーツケースを開けられたのである。
そこで彼は、一計を案じて、天真爛漫(らんまん)にも近々息子の様子を見に訪台することになっていた両親に手紙を書いて、スーツケースの底に件の辞書(愛知大学編『中日大辞典』)を潜ませて持ってくるように頼んだのである。両親が台北の空港に到着し税関でスーツケースを開けるや、担当官は迷い無くその辞書を探し当てて没収した。おそらくは私の通信をインターセプトしたのと同じ情報機関がその留学生氏の両親宛の航空便を開封し、両親の名前、到着期日や搭乗便名を空港の担当者に連絡し、また封をして郵便業務の流れに載せた。その日、空港の担当官は両親の到着を待ち構えていたのである。
私やこの留学生氏の例は、長期戒厳令下で営々と続けられてきた情報・治安機関の膨大なルーティーン・ワークの中のほんの1例にすぎない。山脈に例えれば、その裾野の雑木林の中の1本である。国民党権威主義体制に挑戦する人々の実際の行動と情報・治安機関との攻防は、こうしたルーティーン・ワークの堆積のずっと上の方、その山脈の稜線(りょうせん)地帯で展開されていたのである。国際的な側面で言えば、収檻されている政治犯の救援・待遇改善のために活動していた日本の台湾政治犯を救う会や国際アムネスティの活動などもその稜線の上で展開していた。そういう構図だったのだと思う。
1986年夏頃になると、台湾の諸都市での公然たる反政府の示威行動を警総も規制できなくなり、戒厳令はそこで「死に体」になっていたと観察したことを本連載のほかの回で述べた。記憶では、その少し前から空港での荷物検査がほとんど形式的なものになっていた。
権威主義体制の動揺はそうしたところにも観察されたのであった。
写真は全て筆者撮影・提供
バナー写真=「警総」の若林正丈関係資料送達文書(左)と論文の抜き刷りの表紙(右)