小平奈緒:低迷期を乗り越えて挑む五輪連覇――35歳を“女王”たらしめるスケート人生の2度の転機とは【北京五輪アスリートの肖像】
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平昌金メダル後の低迷と復調への決断
金メダリストだからこそ味わうことになった苦しみを乗り越え、連覇の偉業に挑む。2018年平昌五輪でスピードスケート女子500mを制した短距離のエース・小平奈緒(35歳・相澤病院)が、自身4度目の五輪となる北京大会へ向けて急ピッチで調子を上げている。
平昌五輪後は左股関節の違和感に悩まされるようになり、昨季はとうとう5年ぶりに国内で500mの優勝を逃すなど、まさかの低迷を見せた。行く先が塞がるような暗いトンネルの中で、小平が起死回生を図って選択したのは、シーズン途中であるにもかかわらず氷から離れ、陸上トレーニングに専念すること。そうすることによって体を一から作り直すことが目的だった。
結果的にこの決断が功を奏し、フィジカルが整ってきた今季は前半戦のワールドカップ(W杯)で複数回の優勝を飾ることに成功している。
まずは昨年11月のノルウェーでの第2戦で500mを制し、20年2月以来となるW杯優勝を果たすと、12月にカナダで開催された第4戦では1000mで優勝。これで500mと1000mのW杯通算勝利数を「34」とし、長野五輪男子500m金メダルの清水宏保が持つ日本人最多勝利数に並んだ。
500mと1000mの2種目で北京五輪出場を決めている現在は、「北京五輪ではこれまで積み上げてきた技術、メンタリティーをすべて氷の上で表現したい」と力強く語っている。
ピンチに陥った時に大胆な調整方法を自分で選択し、見事にカムバックを果たした小平。決断力のルーツは、文武両道で過ごしてきた若き日の成長過程にあった。
スケート漬けの少女時代
長野県茅野(ちの)市生まれ。4歳上と5歳上の2人の姉についていく形でスケートを始めたのは3歳の頃だった。幼い頃から抜群のセンスで大人たちを驚かせていた少女がスケートにのめりこむようになったきっかけは、小学5年生の2月に開催された1998年長野五輪。女子500m銅メダルの岡崎朋美や、男子500m金メダルの清水宏保のレースをテレビで見て、言葉にならないほどの感動を覚えた。
その後はスケートが中心の日々を過ごすようになった。才能が一気に開花したのは、茅野北部中に入り、部活とスケートクラブの二本立てで練習するようになってから。冬は茅野市のリンクと岡谷市のリンクで二部練習をし、帰宅は夜11時という毎日を過ごし、中2でシニアの全国大会に出場するまでになった。中3になると、高校3年生までが対象の全日本ジュニア選手権を制して注目を浴びた。
数々の中学記録を樹立した小平には強豪校からの誘いが引きも切らなかったが、高校は地元の伊那西高校に進学。1年生のときはコーチの家に下宿し、残り2年はアパートで一人暮らしをし、朝、放課後、夜と練習に明け暮れた。
文武両道がゆえの2度の転機
大きな転機となったのは国立大学への進学だ。長野五輪で清水の金メダル獲得を科学的アプローチからサポートした結城匡啓(まさひろ)コーチが信州大学で指導しているのを知り、高校1年生の時から推薦入試で信州大学へ進む計画を立て、内申点を上げるべく勉学にも励んだ。とはいえ、当時の第一優先はスケートの練習時間の確保。そのため、勉強は授業時間にすべて完結できるように、集中して取り組んだ。
自分で選んだ道を信じて最大限の努力をする。そうすると結果がどうであれ自分の中に何かが必ず残る。気づいたのは「自分で決めたことは、たとえ成功しなくても正解になる」ということ。今ではこれが“小平哲学”の軸になっている。
大学を卒業し、2009年4月からは長野県松本市にある相澤病院に所属した。社会人になってからはより一層スケートに打ち込みながら実力をつけ、10年2月にバンクーバー五輪に初出場。個人種目の1000mと1500mを滑ったほか、チームパシュートでは銀メダルを獲得した。
2度目の大きな転機は14年ソチ五輪の後。この大会で初めて出場権を獲得した500mでメダルに届かず悔しい思いをした小平は、究極の滑りを目指してスケート大国であるオランダでの単身武者修行を決意し、欧州へ向かった。
そのオランダでは語学の習得に力を入れた。滑りのコツの細かい部分は、英語での会話では伝わらないし、深く理解することもできない。ニュアンスまでくみ取るには、やはりオランダ語が必要だ。そう悟った小平は、小さなノートを常に持ち歩いては、ことあるごとにオランダのチームメートにオランダ語の単語を書いてもらい、必死に覚えた。こうして2年間のオランダ修行を終えて帰国する頃には、オランダ語でテレビインタビューを受けるまでに語学力がついていた。
敗戦を乗り越えて挑む35歳、4度目の大舞台
現在35歳。また、今回の北京五輪はけがを乗り越えて挑む大舞台だけに、意気込みはひとしおだ。実は、小平が最初に“ピンチ”だと自覚したのは平昌五輪の翌年の2019年1月だった。世界選手権に出るために滞在していたドイツでのこと。五輪の金メダリストである小平は欧州でも注目されており、「大きな期待を感じていて、正直に調子が悪いとはいえない状況だった」(小平)という。金メダリストであることが重りになり、弱みを見せることができなかったのだ。
だましだましの状態で滑っても極端に成績が落ちなかったことは、けがを長引かせることにつながった。こらえきれずに体が悲鳴を上げたのは20年11月。すでに北京五輪のプレシーズンは始まっていたが、コロナ禍によって日本スケート連盟が海外への派遣を見送ったこともあって、思い切って陸上で体を作り直すことを決断した。
結果的にはこの英断が現在の復活ロードにつながった。今では昨季の国内での敗戦についても「自分の弱みを見せるのは恥ずかしいと思う人がほとんどだと思うが、スポーツを好きな人は自分の人生と照らし合わせて、乗り越える姿も見てくれる」とプラスにとらえている。北京五輪に向けては、「間に合わせたな、というのではなく、その上を来たな、と思わせたい」と語るまでになった。
「北京で(女子500mの)五輪連覇に挑戦できるのは私一人しかいない。しっかり地に足をつけてやっていきたい」
日本選手団の主将を務めた平昌五輪では、「主将は勝てない」というジンクスを見事に覆し、500mで金メダル、1000mで銀メダルを獲得した。苦しみを乗り越えて挑む4度目の大舞台で手にするものは、何色の輝きを放つのだろうか。自身の持てるすべてを氷上で表現し切った先に、最高の輝きが待っている。
バナー写真:スピードスケート五輪代表選考会・女子1000mを滑走する小平(2021年12月30日、長野・エムウエーブ)共同