少女マンガのパイオニア・水野英子―82歳の「異端児」がどうしても伝えたいこと
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手塚治虫の『漫画大学』に衝撃
水野さんが生まれたのは漁港の街、山口県下関だ。満州にいた父親は終戦後の混乱で行方不明になり、母親の実家で育った。その母も早く亡くなり、祖母と「お兄ちゃん」と呼んでいた叔父が家族だった。近くに貸本屋があり、幼い頃から少年少女世界文学全集などを夢中で読んだ。また、「映画が好きなお兄ちゃんに連れられて、西部劇やターザン映画などを見に行きました」と言う。
当時、マンガは貸本用の書き下ろしの単行本が主流で、雑誌は少年向けの絵物語が全盛期。「少年ケニヤ」「砂漠の魔王」などの冒険活劇や、戦艦もの、西部劇などが人気だった。11歳の頃に手塚治虫の『漫画大学』(1950年刊)と運命的な出会いをする。マンガの描き方の指南書だが、いくつかの短編作品が載っていた。
「単なる勧善懲悪ではなく、深いメッセージと人間洞察があって、衝撃を受けました。西部劇、ミステリ―、メルヘンからSFまで、あらゆるジャンルを描き分け、SFは未来への警鐘で終わるんです。当時、子ども向けの読み物にそんなことを描いた人はいませんでした」
小さい頃から絵を描き、物語を作ることが好きだったので、迷いなく「マンガ家を目指す」ことに決めた。「小学校5、6年でペンを使って描く練習をして、中学生になってから、当時唯一アマチュアの投稿を受け付けていた『漫画少年』に投稿し始めました。審査するのは手塚先生でした。入選作は掲載してくれますが、いつも佳作でした」
18歳でトキワ荘の住人に
デビューのきっかけは幸運な偶然だ。当時の月刊「少女クラブ」(講談社)で手塚の連載『リボンの騎士』を担当していた編集者・丸山昭が、原稿を受け取りに行った際、たまたま水野さんの投稿原稿を見つけたのだ。「なぜ私の原稿がそこにあったのかは分からない。でも、手塚先生は、なかなかかわいい絵を描くから、育ててみたらとおっしゃったそうです」
中学を卒業した頃、丸山氏から「何か小さい作品を描いて送ってくれないか」と手紙をもらい、間もなくマンガ家として1歩を踏み出す。しばらくは、地元の漁網会社の工場で働きながらマンガを描く生活が続いた。初めて描いた長編作品は、馬と2人の少女の友情を描いた「西部劇」だった。
1958 年3月、18歳で上京し、後のマンガ界の巨匠たちが若き日を過ごしたトキワ荘で7カ月暮らした。主に取り組んだのは、石ノ森章太郎、赤塚不二夫との実験的な合作だ。3人の頭文字に「U」をつけた「U・マイア(MIA)」(読みは「ウマイア」)が合作ペンネームだった。石ノ森氏がシナリオ構成、水野さんが男女のキャラクター担当、赤塚氏がまとめ役だったという。「上京3日目には、石ノ森さんのおごりで、3人で銀座の映画館で『十戒』を見ました。それからも、時間があれば3人で映画を見に出掛けました」
「石ノ森さんは音楽好きで、クラシックからポップス、ジャズ、映画音楽まで、あらゆるジャンルのレコードを集めていました。私もNHKのラジオ番組の影響でクラシック音楽が好きだったので、興味津々でした。レコードと本の山に囲まれた石ノ森さんの部屋で、3人でひたすらマンガを描きました」
少女マンガの原点はトキワ荘にあると、水野さんは言う。
「当時、少年向けはまだ絵物語が主流で、少年マンガ誌はまだ生まれていませんでした。少女マンガ誌は発展途上で、描き手が足りなかった。だから、石ノ森さん、赤塚さんをはじめ、トキワ荘の若手はみんな少女マンガを描きました。それぞれ手塚先生の洗礼を受けているので、いろいろ実験しました。後年、少年誌に単純な活劇だけではなく複雑な内容の作品が掲載されるようになるのは、少女マンガに鍛えられた土壌があるからです」
「少女マンガ」初のロマンスと壮大な歴史劇
1960年の『星のたてごと』で少女誌の “タブー”を破り、初めてラブロマンスを描いた。「ワルキューレ」(ワーグナーのオペラ「ニーベルンゲンの指輪」4部作の第2部)の神話世界をヒントにした大胆な設定の物語だ。
「学校でも、男女共学なのにバラバラで遊び、お互いに興味があるのに近づけないのは変だと思っていました。結婚だって恋愛ではなくお見合いばかり。世界の名作物語でも映画でも、美しいロマンスが描かれる。それなら、マンガで描いてもいいのではと思ったんです」
また、『白いトロイカ』(64〜65年週刊マーガレット連載)は、ロシア革命を背景にした少女マンガ初の歴史ロマンだ。
「中学生の頃から神話や伝承が好きだったし、『ニーベルンゲンの指輪』の壮大な物語と音楽に魅了されていました。また、ロシアには憧れがありました。兄が持っていたロシア文学を読んでいたし、ロシア映画も見ていたので。とにかく、手塚先生のように、さまざまなジャンルの、スケールの大きな作品を描きたかった」。手塚作品、文学、音楽と映画が水野さんの創作の源泉だ。
ロックの世界を描いた『ファイヤー!』
野心的なテーマや描写に挑んできた自分を「異端児」と呼ぶ。その本領を発揮したのが、1969年「週刊セブンティーン」で連載を始めた『ファイヤー!』だ。少女物の枠を超え、「ロックの時代」の精神を投影させた画期的な作品だ。
当時、米国ではベトナム戦争に対する反戦運動、黒人の公民権運動などが拡大する激動の時代だった。
「“自由の国”アメリカの裏側が暴かれていくことに強い興味があったし、世界的に若者たちが今までの社会の在り方や物質文明に反旗を翻す現象をすごいと思っていました。その中で、ロック―特にプログレッシブ・ロックの強くて複雑な反体制のメッセージ性に引かれてのめり込み、ロックをマンガで描こうと思いました」
純粋に音楽と愛を追求して破滅する主人公・アロンのイメージは、当時の人気バンド、ウォーカー・ブラザーズのリードボーカル、スコット・ウォーカーから生まれたと言う。「恵まれた環境にいるのに、自分の在り方に疑問を持ちながら活動している印象がありました。中でも、ソロで歌った“Plastic Palace People”に衝撃を受けました。美しい曲で、抽象的な歌詞が素晴らしい。その汚れのないイメージを基に、アロンを生み出しました」
連載前に、欧米への取材旅行を敢行した。「1カ月足らずの旅ですが、若い人たちが集まるクラブなど、各地でアンダーグラウンド文化の拠点を一人で訪ねて回りました。どの街でも当時はやったロックが流れていて、世界は一つだと実感しましたよ」
本作では白人、黒人、ネイティブアメリカンなど、米国社会の多様な人たちを描き出した。また、ヌードやベッドシーンも描いた。「虚飾を全部捨てよう、生まれたままの姿になろうという当時のヒッピーたちのメッセージを表現する意味で描きました。私より後は、ポルノのようにベッドシーンを描くマンガが増えちゃいましたが…」
『ファイヤー!』は大きな反響を呼び、男性読者が一気に増えた。「一時期はファンレターも男性からが多かった。女性に浸透するまでには時間が掛かりました」
未完の大作『ルードヴィヒ2世』
マンガ界で週刊誌が主流になると、描き手の「囲い込み」が始まった。“専属”にして、他社の編集者との接触を断つことが目的だ。だが、契約書を交わす発想はなかった。また、当初は二次使用の概念がなく、出版社のずさんな管理で、原稿の多くが紛失した。
「私は専属なんてとんでもないと拒否したし、編集とは度々ケンカしました。反逆児とか、生意気だとよく言われたと思いますよ」
『ファイヤー!』連載当時、「著作権」という概念があることを知り、仲間たちと勉強会を開いたが、組合を作ろうとしているのではと警戒した出版社から妨害されて続けられなくなった。同作も、当初自分が想定していたより、早く終結するように言い渡され、何とかまとめたという。「多分、こうした行動のせいだったのでしょう」
連載終了の2年後に息子を生み、シングルマザーになった。「子ども一人育てるのが、あんなに大変だとは思わなかった。長期連載は断念して、イラストなどの仕事でつなぎました。収入は最盛期の4分の1ぐらいになりましたが、なんとか生活はできました」
マンガ界で新しい世代が台頭してくるにつれ、雑誌連載の依頼は激減した。心残りなのは、ドイツに取材旅行もして取り組んだ久しぶりの大作『ルードヴィヒ2世』の連載が、掲載誌の廃刊で中断したことだ。「ルードヴィヒは、私の好きなワーグナーのパトロンです。純粋すぎる青年の悲劇として描いていた。でも、まだ半分しか描けていません。どの出版社に持ち込んでも、連載再開を引き受けてくれませんでした」
いまではもう、体力的に同作を完成させるのは無理だと言うが、どうしてもやっておきたいことがある。「手塚先生以降の時代を担った私たち世代の記録がなくて、『リボンの騎士』から『ベルサイユのばら』までの20年間が空白なんです。少女マンガの当時の在り方を、もっとみんなに知ってほしい。実は、当時活躍した十数人のマンガ家の方々に協力してもらい、その頃の記録を取ってあります。何とか本にして、多くの人に読んでもらいたいと思います」
<関連サイト>
豊島区立トキワ荘マンガミュージアム
現在「特別企画展「鉄腕アトム ―国産初の30分テレビアニメシリーズ―」開催中(~4月10日)
バナー:若き日の水野英子さんと代表作『ファイヤー!』(©水野英子)