ホンダF1 栄光と苦難の歴史
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セナ以来のドライバーズチャンピオン
ホンダが30年ぶりにF1で世界の頂点に立った。
12月12日、アラブ首長国連邦のアブダビで開催されたF1の最終戦でレッドブル・ホンダを駆るフェルスタッペンが優勝し、2021年のドライバーズ選手権を制した。ホンダがF1でチャンピオンに輝くのは、1991年のアイルトン・セナ(マクラーレン・ホンダ)以来の快挙だった。
ホンダにとってF1は創業者の夢であり、大切なDNAの一つだ。創業者である本田宗一郎がF1に参戦したのは、1964年。ホンダはその前年に軽トラックと、小型スポーツカーを発売したばかり。しかも、他の自動車メーカーがどこも参戦していない中、国内の4輪自動車メーカーとして最後発のホンダがモータースポーツの世界最高峰(F1)へ挑んだことは、大きな衝撃を国内外に与えた。
この無謀とも思える挑戦がホンダの技術者たちを急成長させ、その後、日本を代表する自動車メーカーへと躍進する原動力となった。68年にいったんF1活動を休止したホンダがF1の世界でその名を轟(とどろ)かせたのは、83年にF1に復帰した第2期と呼ばれる10年間の参戦時のことだった。
今も破られない年間最高勝率
ホンダはこの時期、イギリスの名門チームであるウイリアムズ、マクラーレンなどにエンジンを供給し、87年から91年まで5年連続でドライバーズ選手権を制し、86年から91年まで6年連続でコンストラクターズ(製造者部門)選手権でチャンピオンに輝いた。マクラーレンと組んだ88年には全16戦中15勝を挙げ、その勝率はいまなお破られることなく、F1史上最強チームとしてたたえられている。
バブル経済が弾けた92年にF1活動を休止したホンダは、2000年に再び参戦。しかし、第3期と呼ばれるこの期間でホンダはかつての栄光を取り戻すことはできなかった。
こうして迎えた08年末、サブプライム問題によって世界経済が急速に後退したため、ホンダはF1からの撤退を発表。9年間で挙げた勝利はわずかに06年の1勝のみだったが、技術が世界にまったく通用していなかったかと言えば、そんなことはない。ホンダの撤退後、残されたチーム(ブラウン)は翌年もF1に参戦し、見事ドライバーズチャンピオンとコンストラクターズチャンピオンの2冠に輝いたからだ。
ホンダの技術者たちにとっては「せめて、もう1年続けていれば……」という思いがあったに違いない。そして、それは15年にF1に復帰するにあたって、スタッフたちの大きなモチベーションにもなっていた。
立ちはだかったパワーユニットの壁
実際、第4期のメンバーには多くの第3期のスタッフが加わっていた。だが復帰当初は苦戦を強いられた。その理由は、ホンダが撤退し、復帰するまでの間にF1で使用するエンジンに関するルールが大きく変更されていたからだ。現在のF1ではかつてのような自然吸気エンジンが動力ではなく、ターボエンジンに2種類の回生エネルギーを組み合わせたハイブリッドシステム。従って、現在では単にエンジンと呼ぶのではなく、エンジンとハイブリッドシステムを組み合わせた“パワーユニット(PU)”と呼んでいる。
PUはホンダが復帰する1年前の2014年から導入されているが、ルール変更に加わっていた既存のメーカーは導入の数年前から開発をスタートさせていたのに対して、ホンダが着手したのは復帰を発表した13年。開発期間はわずか2年だった。そのため、マクラーレンとパートナーを組んで復帰した当初は、性能が低かっただけでなく、信頼性も乏しく、ホンダは厳しいレースが続いた。復帰初年度の日本GPではマクラーレン・ホンダのフェルナンド・アロンソが、ストレートでパワーが出ずにライバルにオーバーテイクされると、当時のF1の一つ下のカテゴリーだったGP2シリーズを指して、ホンダのPUを「GP2エンジン」と叫んだほどだった。
このままではいけないとホンダは体制変更を繰り返し、18年から現在の体制となり、ようやくライバルたちと真っ向勝負ができるようになった。さらに19年には、10年から4連覇していた強豪チームのレッドブルとパートナーを組み、優勝を狙えるまでに体制が整った。
2022年用のPUを1年前倒しで投入
そんな矢先、2020年の秋にホンダはF1参戦を終了する決定を下した。ただし、第3期の撤退時と異なるのは、撤退するまでにもう1年チャンスを与えたことだった。決定を聞いたホンダF1のPU開発を行っている本田技術研究所HDR Sakuraセンター長兼F1プロジェクトリーダーの浅木泰昭が動いた。
浅木は22年用に開発していた新しい骨格のPUを1年前倒しして、21年に投入したいと本田技術研究所の社長に嘆願。「このまま結果を出さずに終われない」と言う浅木の熱意に社長も承諾し、新骨格PUの投入が決まった。
決定を誰よりも喜んだのが、フェルスタッペンだった。7連覇中のメルセデスと7冠王者のハミルトンを倒すには、メルセデスに匹敵するPUが必須だったが、ようやくそれを手に入れられたからだ。
「ホンダは勝つためには何でもする。そこには限界はない。彼らが22年用に開発していた新骨格のパワーユニットを1年前倒しで投入してきた時、僕は絶対にチャンピオンになろうって誓った。だって、僕がドライブしてきた中で最高のエンジンだったからね」(フェルスタッペン)
フェルスタッペンが感じた手応えは間違っていなかった。開幕戦のバーレーンGPで、ホンダは予選でポールポジションを獲得。シーズンの趨勢(すうせい)を占う重要な一戦で、ポールポジションを獲得するのは30年ぶりのこと。1991年に、ホンダはセナと共にチャンピオンを獲得しており、30年ぶりのチャンピオン獲得に向けて、幸先良いスタートを切った。
ホンダとメルセデスのデッドヒート
その後も伝統の一戦である第5戦モナコGPで29年ぶりの優勝を遂げると、第9戦オーストリアGPまで5連勝。ホンダが5連勝を飾ったのは、16戦15勝した1988年以来のこと。強いホンダの復活に日本のモータースポーツファンは、30年ぶりのチャンピオンを祈願した。
しかし、メルセデスとハミルトンも強かった。シーズン終盤の第19戦ブラジルGPから第21戦サウジアラビアGPまで3連勝。最終戦アブダビGPを前にハミルトンがポイントでフェルスタッペンに追い付いた。
74年以来、47年ぶりにポイントリーダーが同点で最終戦に臨む一戦となったアブダビGP。シーズンを通して激しいバトルを演じたフェルスタッペンとハミルトンの戦いは、最終戦でも繰り広げられ、決着はファイナルラップでフェルスタッペンが逆転して、新王者に輝くという劇的な幕切れとなった。
参戦は終了するが……
悲願を達成したホンダのスタッフたちはレース後抱き合い、人目を憚(はばか)らず泣いた。それは第3期にあと一歩でチャンピオンになれなかった無念を晴らし、第4期に経験した多くの困難を乗り越えた充実感が入り混じった感情だった。
ホンダF1のテクニカルディレクターとして現場で技術陣の指揮を執る田辺豊治も、その一人だった。田辺は第2期にウイリアムズとマクラーレンでホンダの黄金時代を経験し、第3期では苦しみを味わって、再び頂点に立ったベテランだ。田辺はチャンピオン獲得の価値を次のように語った。
「ホンダがレースに参戦するに当たっては、いかなるカテゴリーにおいても1番を目指すというのがある。しかし、F1では1991年以来取れていなかった。特に第3期、私もいたが、そこではまったくチャンスがなかった。ジェンソン・バトンのハンガリーGPが唯一の優勝という形で第3期が終わり、第4期に復帰。しかし、F1はハイブリッドの時代に入り、厳しい戦いが続きましたが、みんなで努力してきた。たとえ1番になれなくとも、1番を目指して本気でやったという過程が大切なんだと思います。だから、この経験はわれわれにとって必ず何らかの肥やしになると思います」
ホンダのF1での挑戦は、これを持って終了する。これまでF1のPUを開発してきたメンバーの多くは、F1参戦を終了する理由となった「2050年までにカーボンニュートラル(温室効果ガス排出量を実質ゼロにする)を実現する」(八郷隆弘前社長)ために、新しい場所で新しい挑戦をスタートさせる。その新たな門出を祝いつつ、いつの日かF1に帰ってきて、栄光の歴史の続きを見ることを世界中のファンが願っている。(敬称略)
バナー写真:F1アブダビGPで総合優勝を果たし、日の丸を掲げるフェルスタッペン(右端)、一人おいてレッドブルレーシング・モータースポーツアドバイザー、ヘルムート・マルコとホンダF1マネージングディレクター、山本雅史(左端)=アブダビ(ゲッティ=共同)