ロバート キャンベル氏 “村上文学は発酵する一粒のブドウ”―「早稲田大学国際文学館」(村上春樹ライブラリー)の可能性

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2021年10月に開館した「早稲田大学国際文学館」(通称「村上春樹ライブラリー」)の顧問に就任したロバート キャンベルさん。さまざまな「双方向」イベントの企画立案と同時に、今後、同館を研究教育の国際的拠点に育てるための仕事に携わる。同館の独自性はどこにあるのか、そもそも村上文学をどう読んできたのかを聞いた。

ロバート キャンベル Robert CAMPBELL

日本文学研究者。早稲田大学特命教授。米ニューヨーク市生まれ。カリフォルニア大学バークレー校卒業、ハーバード大学大学院東アジア言語文化学科博士課程修了。文学博士(日本文学専攻)。国文学研究資料館(国分研)助教授、東京大学大学院総合文化研究科教授、国文研館長などを経て現職。主な著書に『井上陽水英訳詞集』(講談社)、編著に『日本古典と感染症』(角川ソフィア文庫)、『東京百年物語』(岩波文庫)など。

「村上文学の顕彰機関ではない」

2021年3月まで、国文学研究資料館館長を務め、4月から早稲田大学特命教授・国際文学館の顧問に就任したキャンベル教授。「私自身は江戸時代から明治初期の日本文学の専門家で、村上文学の研究者でもなんでもありません」とキャンベル教授は前置きする。だからこそ、「村上春樹ライブラリー」として大きな注目を浴びる同館をどんな場に育てていくか、自由な発想ができる。「この場で何ができるか、遊び心も存分に働かせて、試行錯誤しています」と楽しそうだ。

最初は戸惑いもあった。「日本全国に物故作家の名を冠した多くの文学館があります。でも、村上春樹は現役で活躍中です。最初、村上さんがライブラリーとどう関わっていくつもりなのか分かりませんでした」

村上さんが考えた同館の基本理念は、「物語を拓(ひら)こう、心を語ろう」だ。

「英語では、“Explore Your Stories, Speak Your Heart”と翻訳しています。村上さんのこのモットーや、具体的に何をしていくか関係者と話し合ううちに確信したのは、ここは“村上文学の顕彰(けんしょう)機関”ではないということです。『拓こう』にあえて開拓の拓を使ったのは、能動的にそれぞれの“物語”を作ってほしいという思いからです。そのための場なのです」

「村上さんの1万枚にもおよぶLPレコードのコレクションを含め、原稿、写真やスクラップなど、40年にわたる作家生活を築き上げた過程を知るための貴重な資料が、ライブラリーに寄せられています。でも、それは一つのきっかけにすぎない。村上さんが望んでいるのは、研究者、在学生だけではなく、国内外を問わずさまざまな立場の人たち、作家、読者、音楽家など異なるジャンルの人たちが出会い、交流することでシナジーが生まれることです。一方的に発信をするのではなく、交信、あるいは共振させるような場づくりが大事です」

40年の作家活動は「発酵するブドウの果皮」

キャンベル教授の比喩はユニークだ。

「村上春樹は、豊かな日本の文学、言語文化という“ブドウ畑”に落ちた大きな一粒のブドウというのが僕のイメージです。その果皮にいろいろな微生物が付着して新しい土着菌をつくる。村上作品は、数世代にわたって読まれ、50カ国以上の言語に翻訳され、それぞれの時代、それぞれの地域や国で、さまざまな受け止め方をされてきました。そうした40年間の “実り” が、発酵して新たな栄養素、あるいは触媒となって、新しい何かを生み出していくことが理想です」

開館記念イベントとして、『Authors Alive!~作家に会おう~』シリーズを計画した。その一環で、村上さんが朗読、村治佳織さんがギター演奏で“コラボ”し、村上文学と音楽について考えた。また、作家の川上弘美さんとキャンベルさんが同じ作品を日本語と英語で朗読して、小説と翻訳について語り合った。詩人の伊藤比呂美さんによる詩のワークショップでは、村上作品の一部分の引用を発句として、十数人の参加者が一人ずつ連詩として言葉をつなげ、完成した詩の朗読には村上さんも加わった。村上さん自身も関わりながら、参加者全員が文学、アートについて再発見したり、村上作品をきっかけに、何かを生み出したりする試みだ。年末には、村田沙耶香さんと朝井リョウさんによる朗読会も実現させた。

「こうした小規模の試みを、地道に積み重ねていきたい。その一部を編集して、協賛のTOKYO FMで放送したり、音楽配信サービスで配信したりしています。コンテンツをアーカイブとして眠らせるのではなく、いろいろなところで火種となり、小さな爆発が起きればいいなと思っています」

「資源活用」の手腕を生かす

今後どんな “火種” をつくれるか―自分自身の経験も引き寄せる。東日本大震災後に、被災者が一時的に身を寄せていた宮城県鳴子温泉で、数カ月にわたり読書会を開催した。その時の手応えが強く印象に残っている。

「非常時には、食べること、寒さをしのぐことが最優先です。でも、ずっと読書に親しんで生きてきた人にとって、その習慣から切り離されるのはかなりつらい。読書会で他の人たちと同じ短編小説を読み、語り合い、みんなが声に出して少しずつ順番に朗読する。一つの短編をきっかけにして、全くの他人同士が知り合い、心が穏やかになって開けていくという経験をしました」

「ライブラリーでも、読書を一つの素材として、楽しくて面白い集いに少しでもコミットすることで、何かしら自分に変化が起きる―そんな試みをしていきたいですね」

村上作品の中では『海辺のカフカ』や『騎士団長殺し』が特に好きだと言う
村上作品の中では『海辺のカフカ』や『騎士団長殺し』が特に好きだと言う

4年間館長を務めた国文学研究資料館では、資源を単なるアーカイブとしてではなく、生きた素材として活用し、さまざまな人たちと共有する仕事をしてきた。こうした「資源活用」の経験も生かしたいと考えている。

「昨年のコロナ禍で、日本の歴史的経験から感染症をどう見直すことができるのか考えました。上代(じょうだい)から、感染症はさまざまなアートや文学の素材、あるいは作品を生むモチベーションになってきました。例えば、平安時代に『和泉式部日記』『更科日記』が書かれた背景には、感染症によって大切な人を失った経験があります。それで、国文研の豊富な資料を材料に、動画『日本古典と感染症』を日本語・英語で制作しました。特に海外から、教材に使いたいなどの大きな反響がありました。動画がきっかけとなり、『日本古典と感染症』の書籍も編さんしました。万葉集から夏目漱石まで、複数の研究者が感染症を一つの共通項として文学史を組み直す試みです」 

一つの素材がきっかけとなって、さまざまな分野の人が連携し、波及効果が広がっていく。

「ずっと古典の研究をしてきたので、古典文学に関わっている人たちとの接点も生かして、ライブラリーのネットワークを広げていきたい。同時にさまざまな面で多言語化を進めることも大事です」

村上文学はなぜ世界で愛されるのか

ライブラリーには、海外で翻訳された50言語以上の村上作品がそろう。2020年に出した短編集『一人称単数』もすでに英語や韓国語に翻訳されている。世界の読者が新作を待ち受けているのだ。キャンベル教授自身は、村上作品をどう評価しているのだろうか。

村上さんの著作と翻訳版が並ぶギャラリーラウンジ
村上さんの著作と翻訳版が並ぶギャラリーラウンジ

「川端康成や谷崎潤一郎をはじめ、日本の近現代文学は “東洋” というフィルターを通して海外で受容されてきました。例えば川端の『伊豆の踊子』や『雪国』、『山の音』は、日本の死生観、自然観などを主題化しています。村上春樹は、その踏面(ふみづら)を一つ越えて、違う踊り場から物語を作っているように思います」

「私自身は、1980年代後半、『ノルウェーの森』を日本語で読んだのが初めての出会いです。ページをめくると昭和の日本のいろいろな景色が浮かびますが、それが主題にはなっていない。国内外を問わず、読者一人一人が自分に引き寄せ、自分に重ねて読むことができるように思います」

「時代的背景もあります。村上春樹が海外で注目され始めた80年代後半は、世界各地で民主化運動が起きました。例えば韓国では大規模な学生の暴動が起き、多大な犠牲を生みました。世代間に大きな亀裂が走る中で、新たな価値に基づく市民社会の形成に向かう激動の時代と、村上作品がパラレルに重なり、若者たちの間で大変な人気を博しました。80年代後半からの中国の開放路線、89年のソ連崩壊後の東欧の民主化革命の中でも、若者たちが村上作品に食い付きました」 

「特に政治的ではないし、具象的に暴力や紛争、格差を主題にはしていない。でも上の世代の人たちが作り上げた社会の矛盾、欺瞞(ぎまん)が露わになり、それに対する若い世代のあらがいや無力感のようなものが、作品を通じて共有されていたように感じます」

「90年代以降は、海外のどの空港の書店でも山積みにして売られていますが、日本文学に分類されていない。初めて日本のさまざまな資質、歴史的メッセージ性などを背負わずに、物語を運ぶことに成功した作家です。世界文学の中でも特記すべき存在ではないでしょうか」

コロナ禍や社会の分断など、閉塞(へいそく)感が強まる2020年代の世界。そこで、文学はどんな光を照らせるのか。村上さん自身も、自らが生み出したライブラリーに積極的に関わりながら模索しているのかもしれない。

早稲田大学国際文学館公式WEBサイト

バナー写真:早稲田大学国際文学館の地下1階から1階に連なる吹き抜けの階段本棚で。建築家の隈研吾さんが、自分のイメージする村上作品の構造―日常と異世界と行き来する「トンネル」―を形にした。村上作品を「結び目」とする独自のグルーピングで、芸術、歴史、自然科学など幅広いジャンルの書籍が集まっている。あちこちにさまざまなポーズで読書する「リトル・ピープル」がいる。

撮影:花井智子

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