東京「鳥八」:台湾の “雲林魂” が宿る居酒屋

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江戸時代には徳川家の狩猟場が広がり、有力な大名や旗本が屋敷を構えていたという東京都豊島区目白。明治時代以降も、政治家や財界人の邸宅が建てられるなど、都内有数の閑静な住宅街として知られる目白のメインストリートに、1970年(昭和45年)開業の小さな居酒屋「鳥八」がある。店の看板は焼き鳥。この古き良き居酒屋を経営するのは、台湾・雲林県出身の姉弟だ。

目白の隠れ家的な店

店に一歩足を踏み入れると、食欲を刺激するいい匂いが鼻腔(びこう)をくすぐる。68歳の料理人・松井広智さんが焼き台に串を手際よく並べ、串からジュワジュワと脂がしたたる。焼き鳥は客が必ず注文する一品だ。店内のほとんどは常連客で、松井さんやおかみとの会話を楽しみに毎日のように顔を出す人もいる。中には、20年通い続ける古参も。

焼き台の反対側では、72歳になるおかみの宮澤雪美さんが総菜を作っている。わさびじょうゆ漬けの自家製の鶏わさは、日本酒とよく合う。酸味のきいた締めサバは歯応えがあり、脂もよく乗っている。冷たいビールとの相性は抜群だ。

長年、共に店を切り盛りしてきた2人の呼吸はぴったり。姉の雪美さんの目線や動作を見て、弟の広智さんはその意味を察知しすぐ手を動かす。広智さんは寡黙で、たまにタバコを吸って休憩もするが、彼が丹精込めて作る料理はまさに日本人が思い描く居酒屋料理そのものだ。

台湾の雲林県出身の2人がなぜ伝統的な日本の居酒屋を開くことになったのだろうか? そこには人生の不思議な巡り合わせがあった。

居酒屋鳥八の定番。左上から時計回りにしめ鯖、鶏わさ、もつ煮込み、焼き鳥盛り合わせ(筆者撮影)
居酒屋鳥八の定番。左上から時計回りにしめ鯖、鶏わさ、もつ煮込み、焼き鳥盛り合わせ(筆者撮影)

来店客のようす。右は弟の広智氏。(筆者撮影)
来店客のようす。右は弟の広智氏。(筆者撮影)

第二次大戦時の日台結婚

雪美・広智姉弟の父である王水練さんは、台湾の雲林県・莿桐郷(しとうきょう)の出身だ。日本統治時代に生まれ、高校卒業後に単身で内地・日本の工場に働きに出た。第2次世界大戦時には岩国にある軍事基地で作業員をしていたという。当時、日本軍はまだ台湾人を徴兵の対象としていなかつた。「その頃に父は母と知り合ったと聞いています」と雪美さんは振り返る。

台湾雲林出身の王水練氏(後列右)が、戦後台湾に戻った際に撮影した家族写真。左が雪美さん
台湾雲林出身の王水練氏(後列右)が、戦後台湾に戻った際に撮影した家族写真。左が雪美さん

大阪出身の松井艶子(つやこ)さんは王水練さんと恋仲になり、やがて2人は結婚を決めた。終戦後、王さんは艶子さんを伴って台湾に戻り、一族に紹介した。そして雲林県・虎尾にある製糖工場で働き始め、家族は穏やかな生活を送っていたという。

しかし、1947年の二・二八事件(2月28日に台北市で発生、その後台湾全土に広がった、国民党政権による長期的な民衆弾圧の引き金となった事件)勃発で一家の暮らしは激変した。王さんが当時の国民党政府に捕まり、尋問のために数日間監禁されたのだ。雪美さんは「その時、父はもう台湾にはいられないと思ったそうです。当時の台湾は父には合いませんでした」と話す。こうして王さんは日本へ戻る道を模索するようになる。雪美さん広智さん姉弟が生まれたのは丁度、その頃だ。

数年後、1950年代半ばに王水練さんはつてを頼って台湾から日本へ渡り、台湾人同胞の紹介で東京都練馬区で、中華料理店を開業した。その後、王さんの政治思想は台湾独立支持へと傾いていく。東京では同郷の雲林県・西螺(せいら)出身で台湾独立運動家の廖文毅氏(りょう・ぶんき / 後に東京に設立された亡命政府・台湾共和国臨時政府の大統領を務める)や、台南出身の言語学者で同じく独立運動家の王育德氏らと知り合い、親交を深めていった。

一家で雲林から日本へ

雲林にいた頃は、日本出身の婦人会「斗六会」で、お互い助け合って生活していたという。右側は弟の広智氏と母親の艶子氏。
雲林にいた頃は、日本出身の婦人会「斗六会」で、お互い助け合って生活していたという。右側は弟の広智氏と母親の艶子氏。

一方、台湾に残った母・艶子さんは女手ひとつで3人の子供を育てていた。現地のコミュニティ「斗六(とろく)会」の日本人女性たちと定期的に連絡を取り合い、莿桐で有名な一族・林家にもよくお世話になっていたそうだ。小さい頃、雪美さんは伝統的な造りの家屋・四合院でよく遊んでいたという。しかし時が経つにつれ、艶子さんの望郷の念は強くなり、現地の有力議員である王吟貴氏を訪ね、何とか帰国できないかと相談をしたそうだ。

「母はいつも、『日本人なのに、どうして日本へ帰れないの?』と言っていました」

3人の子供たちは台湾の小学校で当時の正規の教育、「国語(北京語)教育」を受けていた。雪美さんは学校の中国伝統話劇にも出演し、成績も良かった。しかし、雪美さんは当時、毎日、発音記号である「注音符号」を暗唱しても、それでは母親とコミュニケーションが取れないという気まずさがあったことをよく覚えているそうだ。

台湾の小学校時代の雪美さん(左から2人目)。クラスは学校が開催した中国伝統劇で4位を獲得した
台湾の小学校時代の雪美さん(左から2人目)。クラスは学校が開催した中国伝統劇で4位を獲得した

その後、王吟貴議員の働きかけのおかげで、1961年に艶子さんと3人の子供はバナナを積んだ貨物船に乗って高雄を出発、何度も船を乗り継いで日本への帰国を果たした。それまで、台湾で教育を受けていた3きょうだいは、日本で慣れていかなければならないことがたくさんあった。

「毎週日曜になると、父が頼んでくれた東大卒の蔡さんという人が練馬の我が家に来て、『あいうえお』から始め、東京なまりの日本語を教えてくれました」

雪美さんも、当初は日本語をうまく話せず、1歳年下の妹と同じクラスに編入されたと笑いながら振り返る。まだ、8歳だった広智さんは、日本語の飲み込みが早く、すぐに日本語を母語として話すようになった。

高校卒業後、雪美さんは専門学校で勉強しながら、父が経営する中華料理店を手伝った。その時、40歳を超えた父は重たい中華鍋を振るうのがつらくなってきていた。加えて日本が高度経済成長期に突入すると、店の売り上げは酒が主力となっていた。

「父が『それなら居酒屋をやろう!』と言い出したんですよ」

そこで、親子は北区赤羽にあった居酒屋「鳥八」で修業し、その後、1970年に独立して目白に自分たちの店をオープンさせたのだった。

店を継いだ弟の決意

開店当初から鳥八の経営は順調だったが、5年目に父の王水練さんが胃の病気で突然、他界してしまった。「弟はちょうど大学卒業を控えていて、会社員になるはずでした。でも、父が亡くなると、弟は店を継ごうと決めてくれたんです」と、広智さんへの感謝を口にする。雪美さんは結婚後も毎日店を手伝い、父の店を守った。

バブル期には、大勢の客をもてなすため店を2階まで拡張し、外から料理人も雇ったそうだ。「当時は毎日、午前1時過ぎまで働いていました。母も店に出ていました。母は働くことが好きだったんですよ」と笑って話した。母親の艶子さんは亡くなるまで、時間さえあれば店に出ていた。一家で父・王水練さんが築いた家業を守っていったのだ。

景気がよかった80年代の日本。雪美さんは休日を利用して海外旅行を楽しんだ。写真はタイに旅行した時のもの
景気がよかった80年代の日本。雪美さんは休日を利用して海外旅行を楽しんだ。写真はタイに旅行した時のもの

目白は昔から多くの文筆家や芸術家が住む街だ。雪美さんは客の中にとても優雅で素晴らしい詩を詠む人がいたことを覚えている。他にもジャイアンツで活躍していた王貞治さん(現・ソフトバンクホークス会長)の兄で医師の王鐵城さん、徳川家の末えいなども店の近くに住んでいた。

高級住宅街である目白には、バブル期には多くの台湾人も住んでいた。現在は数軒を数えるほどになっているという。雪美さんは近隣を案内してくれた。

「以前、この辺りには桃園県出身の李合珠(りごうしゅ / 台湾出身の実業家、エイチアイインターナショナル=旧・中台工業の創業者)さんご一家が住んでらっしゃいました。お家からは新宿が一望できました。ここは許禎祥さんの家、池袋で結婚式場を経営している台湾人一族の家です」

鳥八は2018年にテレビ番組「吉田類の酒場放浪記」にも登場し、まさに目白の隠れ名店として知られるようになった。

受け継がれる雲林のチャレンジ精神

グルメ番組「吉田類の酒場放浪記」も鳥八を取材訪問し、サイン色紙を残している(筆者撮影)
グルメ番組「吉田類の酒場放浪記」も鳥八を取材訪問し、サイン色紙を残している(筆者撮影)

雪美さんは、来日当初の数年は今でも忘れられないほどつらい時期もあったという。

「以前は本当に貧しくてね、父はよくこう言っていました。私たちは雲林にいたら、ただの貧しい農家に過ぎなかったと」

そこで父の王水練さんは、事業を興す心境で東京に来たのだという。ここまで話すと、雪美さんは毅然とした表情でこう続けた。

「私たち雲林人は貧しくても、やりぬく力を持っています!」

台湾近代史をひも解くと、雲林の地名は日本統治時代に一度消えている。その原因は1896年に日本軍が台湾接収を進めていた時、雲林では激しい抵抗運動が起こり、日本軍に多くの死傷者を出したことにさかのぼる。そしてこの事件を受け、日本軍は報復として多くの市民を殺害。後の日本統治時代にはこの悲惨な歴史に触れられることがないよう、日本政府は雲林という地名を用いず、「虎尾」や「斗六」という名を用いた。

戦後も雲林人の勇敢さとどんな困難にも立ち向かい、結束していく気質は受け継がれている。台北市と新北市には雲林同郷会などの組織があり、王水練さんも来日当初から、廖文毅氏を含む多くの同郷の仲間と手を取って助け合ってきた。

さて、鳥八の将来について話が及ぶと、雪美さんと弟の広智さんは「続けられなくなったら、店を閉めようと考えている」と話した。

「もう歳ですし、下の世代に店を継ごうという人もいません。店はあとどれくらいやっていけるか分かりませんが、最後の瞬間まで頑張っていきますよ」

その時、筆者はふいに日本語で「お二人の雲林魂ですね!」と言うと、雪美さんは大笑いして「そう!これが雲林魂です」と言った。日本風情たっぷりの居酒屋は、台湾の雲林から海を越えてやってきた二人のチャレンジ精神が宿る場所だった。

店の玄関は、開業以来の変わっていないという(筆者撮影)
店の玄関は、開業以来の変わっていないという(筆者撮影)

バナー写真=半世紀続く居酒屋「鳥八」は、台湾出身のおかみ・雪美氏が店を切り盛りしている(筆者撮影)

本文中の筆者撮影の写真のほか、全て宮澤雪美氏が提供。

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