今に残る江戸の年中行事と風物詩 : 『守貞漫稿』(その14)

歴史 文化 美術・アート

『守貞漫稿』は、江戸時代と現代が「つながっている」と思わせる史料だ。庶民に根づいた年中行事や風物詩に関する記録は、大衆文化や信仰が現代まで絶え間なく続いていることを強く感じさせる。今もなお、色あせずに残る江戸の小景を喜田川守貞の絵と文で追う。

江戸時代とほぼ同じ形を留める文化

『守貞漫稿』に掲載された天保(1831)〜慶応末(1868)、つまり幕末の江戸年中行事や風物詩から、現存しているものを抜粋してみた。もちろん、これがすべてではないが、令和の現代を生きる我々になじみ深いものも少なくない。

現在まで残る主な風物詩・年中行事(旧暦で表記、現在とは時期が異なるものもある)

門松・注連縄(しめなわ) 正月 正月に注連縄や門松などの飾りを門に付ける
鷽替え(うそかえ)神事 正月7日 天満宮で前年の災厄・凶事などを落とし吉を祈念する
ひな祭り 3月3日 桃の節句。ひな人形を飾り女児女児の成長を祈る。上巳(じょうし)ともいう
灌仏会(かんぶつえ) 4月8日 釈迦の誕生を祝う仏教行事。「花祭り」として知られる
初鰹(はつがつお) 4月中 「女房を質に入れてでも」と言うほど江戸っ子が好んだ。江戸中期の俳人・山口素堂は「目に青葉 山ホトトギス 初鰹」と初夏の風物詩を並べ詠んだ
端午節 5月5日 男児の健康を祈願。「こどもの日」の原型
浅草川開き 5月28日~8月28日 納涼イベント。川開きはなくなったが、隅田川の花火大会は今も東京の一大イベント
大坂諸祭礼 6月 四天王寺の愛染祭りを皮切りに晦日の住吉祭まで各所で祭礼
江戸山王社祭礼 6月15日 江戸城の鎮守・日枝神社の祭礼。将軍も上覧
七夕 7月7日 短冊に願い事を書き、笹(ささ)に飾る風習
于蘭盆会(うらぼんえ) 7月15日 お盆。祖霊、亡き人を供養して偲ぶ仏法行事
十五夜 8月15日 中秋の名月、月見の日。団子を供えて後に食べる
神田明神祭礼 9月15日 徳川家縁起の祭り。山王祭と並ぶ江戸の一大イベント。明治期からは5月に開催されている
玄猪(げんちょ) 10月亥の日 亥の日に餅を食べ秋の収穫を祝ったが、現在では「亥の子餅」と呼ばれる秋の和菓子になごりをとどめる
酉の市 11月酉の日 鷲(わし)や鳥にちなむ寺社で縁起物の熊手を売る

この中から、江戸時代に行われていた形・体裁を、ほぼそのまま留めているものを、喜田川守貞の絵と文を添えて紹介したい。

まずは、毎年1月に全国の主だった天満宮で行われる「鷽替え神事」。

「鷽」は、「鶯」「鴬」(うぐいす)と似ているが、冠が異なる。旧字の「學」と同じ冠の下に「鳥」で「うそ」と読む。太宰府天満宮の伝承では、菅原道真(すがわらの・みちざね)がハチに襲われた時、鷽が退治してくれた。そこから、1月7日に天神様に詣でれば、前の年についた「嘘」を「誠」に取り替えてくれるという伝承が生まれ、同時に新しい年の「吉」を祈念する神事へと変わっていった。大阪天満宮、亀戸天神、湯島天神では初天神の1月25日に行われる。

鷽替えでは、「木うそ」を授与してもらえる。鷽が木にとまった姿を彫った木製の人形だ。天神様を救った鳥だから、御守りである。

守貞が嘉永4(1851)年、亀戸天神で買った木うその絵がある。購入できたのがうれしかったのか、絵も文も詳細で熱が込もっている。

(左)守貞が亀戸天神で買った「木うそ」。白木を彫っており、目と羽は黒、くちばしは朱色、側面は緑色、後頭部は金色の彩色を施しているとある。(右)亀戸天神の「木うそ」準備の様子。守貞が購入したものとほとんど同じ形が維持されている。
(左)守貞が亀戸天神で買った「木うそ」。白木を彫っており、目と羽は黒、くちばしは朱色、側面は緑色、後頭部は金色の彩色を施しているとある。(右)亀戸天神の「木うそ」準備の様子。守貞が購入したものとほとんど同じ形が維持されている。

「守貞今年買得ル所ノ鷽鳥図。カノ社頭(亀戸天神)ニテ、コレヲ売ル店十床バカリ。各大・中・小アリ。図スルモノハ中形ナリ」

「亥」の刻印があるのは、嘉永4年が亥年だからだ。

次に5月28日からの浅草川開き。川開きは、江戸庶民が楽しみにしていた納涼イベントで、5月28日〜8月28日まで開催。期間中に花火が数回あがった。隅田川花火大会である。

「今夜初メテ、両国橋ノ南辺ニオイテ花火ヲ上グル也。諸人、見物ノ船多ク、マタ陸ニテモ群衆ス。今夜ヨリ川岸ノ茶店、夜半ニ至ルマデ是アリ。軒ゴト、絹張リ行燈ニ種々ノ絵ヲカキタルヲ多ク掛クル」

茶店は、日暮で閉店するのが決まりだった。だが、川開きの期間は夜の営業も許された。

「大花火ノ費ハ、江戸中、船宿オヨビ両国辺茶店、食店ヨリコレヲ募ル也」
花火を打ち上げる資金は船宿・茶店らが持ち寄って捻出(ねんしゅつ)したとある。江戸が一丸となって催す大イベントだったことがうかがえる。

(左)守貞画の隅田川花火。舟は一艘だけだが、乗船する花火師を丹念に描き、「人」に焦点を当てている。(右)『名所江戸百景 両国花火』(広重画、安政5 / 1858年、国立国会図書館所蔵)は遠隔から何艘もの舟、橋、群衆を描いている。
(左)守貞画の隅田川花火。舟は一艘だけだが、乗船する花火師を丹念に描き、「人」に焦点を当てている。(右)『名所江戸百景 両国花火』(広重画、安政5 / 1858年、国立国会図書館所蔵)は遠隔から何艘もの舟、橋、群衆を描いている。

守貞が描いた絵が、また興味深い。『名所江戸百景』が遠景で、花火職人や群衆より花火を中心に描いているのに対し、守貞は職人を丁寧に描いている。職人が手に筒を持ち、筒から花火が打ち上がる様子まで分かる。

花火の現場で職人をメインに描くのは、他の絵師にはあまり見られない。守貞の「人」への愛情が垣間見られる。

時代の波に翻弄された江戸の祭り

6月15日は山王社祭礼。日枝神社のお祭りだ。

今も約300メートルに及ぶ祭礼行列が東京・赤坂を練り歩く神幸祭が隔年で行われ、伝統を保持している。

江戸と幕府、山王祭の所縁(ゆかり)は深い。日枝神社が江戸城の鎮守であり、徳川将軍家の産土神(うぶすながみ / その土地の守護神)とされていたからだ。山車(だし)や神輿(みこし)が半蔵門から江戸城内に入ることを許され、将軍や御台所が吹上御庭(現在の吹上御苑 / 皇居南西にある庭園)からしばしば上覧した。

山王祭と神田明神祭礼は隔年で開催され、ともに「天下祭」と称された。

もっとも、『徳川実紀』などを見ると、将軍上覧は毎年必ずあったわけではなさそうだ。確認できる限り山王祭の上覧は71 回、神田祭はわずか3回だった。(『江戸の天下祭り』/ 比較都市研究 2001年20巻2号)

天下祭の山車の修繕費などは幕府が一部資金援助していたが、幕府が積極的でなかった時代もあった。理由は財政悪化である。

「天保府命前は年々大行となり」(守貞)だったが、天保の改革で倹約令が出されると、天下祭もその対象となり、壮麗な行列などは規模を縮小せざるを得なくなった。

守貞が生きた天保〜慶応期は、まさにこの時期だった。江戸の祭の衰微期といえよう。
さらに文久3(1863)年に14代将軍・徳川家茂が京に上洛して以降、15代・慶喜まで、将軍が江戸を留守にする。「上様」が上覧しない祭礼は、天下祭とはいえない。

時代の波に翻弄された祭りを、守貞はどこか虚ろな視線で見ていたのではなかろうか。
彼が描く山車の絵には、力強さがない。

守貞画の山王社祭礼の山車2点。天下祭の山車は豪華絢爛で知られるが、守貞の絵には装飾があまりない。江戸の祭りの衰微期であったため装飾に制限があったのか、または守貞に描く気が起きなかったか…。
守貞画の山王社祭礼の山車2点。天下祭の山車は豪華絢爛で知られるが、守貞の絵には装飾があまりない。江戸の祭りの衰微期であったため装飾に制限があったのか、または守貞に描く気が起きなかったか…。

酉の市はまったく変わっていない

最後は年末の風物詩、酉の市を取り上げよう。

「十一月酉ノ日、江戸ニテ今日ヲ酉ノ町ト号シ、鷲(おおとり)大明神ニ群詣ス。コノ社、平日詣人ナク、タダコノ日ノミ群詣シテ富貴開運ヲ祈ル」

筆者は東京都台東区出身なので、浅草・鷲神社の酉の市は馴染み深い風物詩だが、現在でも同社は普段はほとんどひと気がなく、閑散としている。酉の市の日だけ、熊手を売る露天が所狭しと立ち並び、人がわんさか集まってくる。江戸時代もまったく同じだったらしい。

「熊手ヲ買フ者ハ、遊女屋、茶屋、料理屋、船宿、芝居ニ係ル業躰ノ者等ノミコレヲ買フ」

熊手は商売繁昌の縁起物だから、商いを営む者が買い求めたとある。これも現在とほぼ同じで、お酉様に行くと地元の有力企業や商店・飲食店や、歌舞伎関係者の「売約済」の張り紙を貼った熊手が目立つ。

縁起物である熊手は、鷲が獲物を「鷲づかみ」にする時の爪を模した形といわれる。福や金を「かき集める」という意味から、「かっこめ」とも呼ばれる。現在でも神社が酉の市の日に授与する熊手形のお守りをかっこめという。

「(熊手は)大ナルヲ好トス」と守貞。熊手は大きいほど吉兆をもたらすといわれ、毎年、前年より大きい熊手を買うのが縁起がいいとされている。これも同じだ。

(左)守貞画の熊手。これは大サイズのもので長さは1丈(約3.03メートル)。宝舟・米俵・千両箱・お福面などの装飾が見える。(右)『十二月ノ内 霜月酉のまち』(豊国画、安政元 / 1854年、国立国会図書館所蔵)。丁稚(でっち)に熊手を運ばせる女性。
(左)守貞画の熊手。これは大サイズのもので長さは1丈(約3.03メートル)。宝舟・米俵・千両箱・お福面などの装飾が見える。(右)『十二月ノ内 霜月酉のまち』(豊国画、安政元 / 1854年、国立国会図書館所蔵)。丁稚(でっち)に熊手を運ばせる女性。

酉の市は、江戸時代から今に至るまで、客層や販売方法もほとんど変わらずに年の瀬の風物詩であり続けたことが伝わってくる。

だが、残るものもあれば、消えるものもあった。次回は消えた年中行事と風物詩を取り上げ、シリーズ『守貞漫稿』の最終回としたい。

バナー画像 : 十五夜にお供えする月見団子。「机上中央ニ三方(さんぽう)ニ団子数々ヲ盛リ、花瓶ニ必ズ芒(すすき)ヲ挟シテ供ス」とある。現代はここまで豪華ではないが、旧家などではこの風物詩が残っている。左上は江戸の団子の図。京坂の小芋型の団子との違いを示すため、正円を大きく描いている。『守貞漫稿』国立国会図書館所蔵

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