たいわんほそ道~青天の下で歩く民主の聖地、宜蘭の経験を想う――県庁舎~金古路~員山機堡

文化 暮らし 歴史

道とすべきは常の道にあらず。いにしえに生まれた道をさまよいつつ、往来した無数の人生を想う。台湾の複雑な歴史が堆積した道をあるく連載紀行エッセー、今回は「民主の聖地」とも呼ばれる宜蘭。日本の建築集団が手掛けた宜蘭県庁から、太平洋戦争中に特攻隊が飛び立った南飛行場を経て、戦争博物館までの約7キロを歩きながら、時間という永遠の旅人が残した記憶に耳を澄ませる。

郷土の滋味

山脈を貫くながい雪山トンネルをぬければ、そこはKavalanの地である。Kavalanとは、古代よりこの土地に暮らしていた先住民(台湾での正式な呼称は “原住民族”)クバラン族のことで、世界に名を馳せるウイスキー「KAVALAN」の生産地としても知られる。視界いっぱいに広がる蘭陽平原がまぶしい。

宜蘭のバスターミナルに着いて、小腹を満たすためにグーグルマップで見つけた駅近くの「鋒木魚酥」にむかった。店内にはかつおぶしの出汁の薫りがひろがる。太平洋で獲れた新鮮な魚を原料に毎日手作りするという芳ばしい魚酥(魚のすり身揚げ)と麺に、とろみのある優しい味のスープがからむ。宜蘭では、老舗の小吃店の多くがプラスチックではなく、磁器のうつわを使っているのも嬉しい。

器は「鋒木魚酥」と字のはいった磁器のオリジナル。宜蘭では、老舗の小吃店の多くで磁器のうつわが使われるのをよく見かける
器は「鋒木魚酥」と字のはいった磁器のオリジナル。宜蘭では、老舗の小吃店の多くで磁器のうつわが使われるのをよく見かける

そろそろ食べ終えようというとき、お椀の底に「感謝」の文字が入っているのが見えた。

1971年に開業した「鋒木魚酥」の二代目店主・黄光佑さんは今年、新型コロナの影響を受けた人々への支援にも忙しい。5月には宜蘭各地の医療従事者のため1000食分を提供し、コロナ禍で生活に困難を抱える人々へも、社会団体などをつうじて食事券を寄贈した。鋒木魚酥にくれば券と引き換えにいつでも食事ができ、毎月およそ200人分の食券が利用されるそうだ。

「泣きながら食べる人もいたよ。政府がいくら頑張っても、その力には限りがあるからね」

宜蘭の人の郷土愛にさっそく触れることが出来て、お腹だけではなく、なんだか心まで満ち足りて店あとにする。

現在のオーナー屋号の「鋒木」は初代の名前から取られた。現在は二代目の黄光佑さん(左)と妹さん(右)で50年の味を守る
現在のオーナー屋号の「鋒木」は初代の名前から取られた。現在は二代目の黄光佑さん(左)と妹の黃慧甄さん(右)で50年の味を守る

かつて見たことのない官庁建築

今回の散歩のスタート地点は、市街からすこし離れ、蘭陽渓にほどちかい宜蘭県庁舎である。沖縄の名護市庁舎などで知られる日本の建築家集団「象設計集団」が「冬山河親水公園」に続いて設計したもので、1997年に竣工した。

それはまるで、広大で豊かな自然公園だった。伝統的な閩南式建築の赤い煉瓦の屋根や瓦はいつのまにか森と化し、緑のじゅうたんとゆるやかに融けあった湖のうえには飛び石が楽しげに散って、水鳥があそぶ。向こうに大きなヒノキ林が見えて、その下には子供たちや散歩を楽しむ人々。これまで見たどんな「官庁」建築にも似ていない。

宜蘭県庁舎、県議会、県史館のある中央公園の様子
宜蘭県庁舎、県議会、県史館のある中央公園の様子

ここを設計する際の当時の県知事のリクエストは三つ。ひとつは公園化。二つめは権威性を取り除き、市民自身がこの場所の主人と思えるぐらい親しみを持てること。三つめは建築材料に宜蘭の風土の特色を出すこと。いまでも十分画期的なこのコンセプトを、1990年代に考え実行した首長が台湾にいたことに、ひどく興味をそそられた。その県知事の名を陳定南という。

宜蘭の「包青天」

陳定南は1943年、宜蘭は三星郷大洲村の生まれ。幼い頃から頭脳明晰なだけでなく、何事にもまっすぐに取り組む性質だった。宜蘭中学から台湾大学法律系に進み、卒業後は兵役で軍法部門に入るが、一党独裁下で数々の不法がまかり通るのを目の当たりにし、法律家よりも商売の道を選ぶ。

大きな転機が訪れたのは1979年のことだった。民主派が一斉摘発された美麗島事件の発生、そして事件に関わった友人・林義雄の母と双子の娘が何者かに殺害された「林宅血案」の衝撃は、陳定南を政治の世界へと向かわせる。1981年には知事にみごと当選し、戦後初の国民党外の宜蘭県知事となった。

かつては選挙運動に関わって陳定南を支え、今は「陳定南紀念館」でボランティアガイドを務める元・宜蘭高校教諭の黄瑞疆さんによれば、陳定南は非常に優れた「改革家」だったという。中でも力を入れたのが公共建築の品質を高めることで、入札の談合や反社会的組織の介入、賄賂を徹底的に排除し、水増しコンクリートといった手抜き工事には厳しく対処した。

「車にはいつも手抜き工事かどうか測るための工具が積んであってね。建設中の現場を奇襲して鉄棒で叩いて品質を確かめ、水準を満たしてなかったら容赦なくやり直させた」と黃さんはいう。

工事現場のコンクリートの水準を確かめる陳定南(陳定南教育基金会提供)
工事現場のコンクリートの水準を確かめる陳定南(陳定南教育基金会提供)

また、映画館での上映前の国歌斉唱や各監視機関、蒋介石の銅像など、権威的なものを廃し、石油工場の建設を退け、代わりに環境保全と公園づくりに力をいれて県民の生活の質向上をはかった。台北と宜蘭をつなぐ雪山トンネル建設が決定したのも、陳定南の任期中のことだ。

象設計集団の樋口裕康氏は、新しい「まちづくり」の手法として現代建築を取り入れ、「熊本アートポリス」プロジェクトを創設した元・熊本県知事の細川護熙氏と、陳定南の共通性を指摘する(『冬山河的八十年代。』/謝國鐘・著/遠足文化/2015)。熊本とおなじく、陳定南の時代に確かな方向性を持った宜蘭の環境デザインは、その後も美しい風土と調和した個性的な建築やランドスケープを次々と産みだし、世界中の建築ファンらを宜蘭へと惹きつけ続けている。立法委員や法務部長(大臣)も務め、その清廉潔白な姿勢から「宜蘭の包青天(注:庶民に愛された中国・宋代の政治家)」とも評された陳定南だが、2006年に肺がんのため惜しまれつつ亡くなった。63歳の若さだった。

1921年の地図ではこのエリアと宜蘭市街を結ぶ「凱旋路」を歩く。ここから庁舎や議会を眺めても、こんもりとした丘や森が見えるだけで、知らなければそこに県庁があるなんて誰も思わないだろう。お昼にたべた「鋒木魚酥」の美味しさを思い出す。穏やかさや親切さの奥にある、強烈な郷土意識と反骨精神。宜蘭人のもつ一筋縄ではいかない心意気に支えられた陳定南の地方自治のかたちは、後に人々から「宜蘭経験」と呼ばれるようになった。

飛び立った特攻隊の青年、見送った少女

凱旋路をさらに歩けば、視界は開けてサイエンスパークや宜蘭運動公園が広がるが、ここはかつて、日本時代につくられた飛行場だった。

脇の田んぼの中に、当時使われていた風向きの観測施設「南機場風向帶」が緑に覆われひっそりと残っていた
脇の田んぼの中に、当時使われていた風向きの観測施設「南機場風向帶」が緑に覆われひっそりと残っていた

鏡のように空をうつす水田の上をゆったりと羽ばたいていく白鷺に、当時ここから飛び立っていった人たちを思う。1936(昭和11)年以降、宜蘭には三つの飛行場が出来たが、ここは軍用の第一飛行基地「南飛行場」だった。太平洋戦争末期、昭和20 (1945)年に米軍が沖縄諸島に上陸し沖縄戦が始まると、南飛行場は、日本の陸海軍特攻隊の出撃場所となる。

サイエンスパークの横長に広がる芝生のなかにある八角管制塔
サイエンスパークの横長に広がる芝生のなかにある八角管制塔

そこから真っ直ぐな道路の向こうの太平洋を眺めれば、天をあおぐ亀のすがたの島が浮かぶ。離島の亀山島だ。北東に細長くのびるサイエンスパークや運動公園を地図の上で亀山島と繋いでみれば、その延長線上には沖縄がある。この細長い公園は、片道の燃料しか持たずに飛び立った若者らの軌跡なのだ。

かつての滑走路があった場所、道路の向こうに亀山島。飛行機はここから亀山島をめがけて離陸した
かつての滑走路があった場所、道路の向こうに亀山島。飛行機はここから亀山島をめがけて離陸した

先日、彼らの最期に立ちあった方にお会いした。謝静意さん、昭和4(1929)年宜蘭生まれ。静意さんは昭和20(1945)、蘭陽高等女学校(現・蘭陽女中)在学中に特攻隊を見送った。

「その日、教頭先生に呼ばれてね。同級生の松岡さんと松下さん、3人で結婚退職された宮内先生の家を訪ねるよう言われたの。広尾さんも呼ばれたけど、その日はいなかった。広尾さんの従兄弟はね、真珠湾攻撃で突撃した九軍神の1人だった」

宮内先生の家で見送りの作法を一通り習い終え、夕方に市長の公用車で田んぼに囲まれた飛行場に向かった。兵隊さんの数は10人ほど。一列に並んだ兵隊さんに、日本籍学生の松岡さんと2人でお神酒を順番についだ。

「今でも時々思いだすの。途中で燃料が無くなって生きて帰った人もいるっていうでしょう、あの人たちも生きて帰ってないかしらって」

この年の4月11日から6月7日までの間、沖縄に向けて62機が特攻隊として宜蘭飛行場から出撃し、海軍45人、陸軍37人が没した記録が残る。

日本語を主体に活動する文化活動センター「玉蘭莊」でお会いした謝静意さんは、いわゆる台湾の「日本語教育世代」だ
日本語を主体に活動する文化活動センター「玉蘭莊」でお会いした謝静意さんは、いわゆる台湾の「日本語教育世代」だ

記憶を留める戦争博物館

南飛行場跡から田んぼの中の道をさらに北に向かう。この辺り、1921年の地図を見れば金包里古と書かれている。新北市の金山老街にも同名の地域があるが、一説によればそこの人々が員山に移って開墾し、元の場所の名前を取って「金包里古」と名付けたらしい。金包里古には、日本時代には北飛行場、そして宜蘭神社(現・宜蘭公園)、その向こうには員山温泉もあった。特攻隊の青年らは温泉で一夜を過ごし、宜蘭神社にお参りして出撃したともいう。

もうひとつ、当時の遺構がここにある。「員山機堡」という飛行機の格納庫で、現在はコンパクトな戦争博物館になっている。

元・新聞記者で、現在は地元・宜蘭の郷土史家である楊基山さんが、「員山機堡」を案内してくれた。回廊には、特攻隊にまつわる歴史や台湾の人々の記憶に関する展示が、終戦までの時間軸に沿って展開される。

宜蘭の郷土史家である楊基山さんが戦争博物館の回廊を案内してくれた
宜蘭の郷土史家である楊基山さんが戦争博物館の回廊を案内してくれた

「員山機堡」の改修工事を請け負ったのは黄聲遠(田中央聯合建築士事務所)。陳定南らによって地方自治が発展した「宜蘭経験」の中で育ち、2017年に日本の吉阪隆正賞を、2018年には台湾文化界において最高の栄誉である国家文芸賞を受賞。台湾を代表する建築家のひとりだ。

格納庫のうえから螺旋状にめぐらされた屋根は空に向かったところで、いきなり途切れている。

生命の片道切符を持って空に消えた若者たちの軌跡を、建築家は造形に投影した。土地と歴史とそこに立つ人との生き生きとした関わりを大切にした「宜蘭経験」は、消えることのない蝋燭の炎のように受け継がれ、その灯がまた宜蘭の風土を照らし、浮かび上がらせる。ひんやりとした回廊の壁に手を当てた瞬間、この地の土台をつくる堅固な精神の背骨に、ふと触れた気がした。

「員山機堡」の格納庫
「員山機堡」の格納庫

写真は一部を除き筆者撮影

バナー写真 : 宜蘭県庁舎、県議会、県史館のある中央公園の様子

台湾 太平洋戦争 基地 日本統治時代 街歩き 特攻隊