スケートボードと日本社会――ストリートカルチャーがなじまない国で、多くのメダリストが育った理由とは?
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降って湧いたスケートボードのメダルラッシュ
この夏に行なわれた東京五輪ではさまざまな競技や選手が話題を集めた。多くの人にとって初めて触れるであろう新競技もあったが、開催の前と後で、認知度、注目度が最も変化したのはスケートボードだろう。
大会が始まるまでは、日本勢のメダル獲得有望種目としてクローズアップされることはあったが、メジャーな競技に比べればその存在は「オリンピック新種目の一つ」でしかなかった。ところがいざ競技が始まると、スポーツニュースにとどまらず、さまざまなテレビ番組で連日特集されるほど脚光を浴びた。
その要因は、なんといっても選手たちの活躍にある。
スケートボードは、直線的なコースを使う「ストリート」と、お椀を組み合わせたようなくぼ地状のコースを使う「パーク」の2種目が男女それぞれで行われ、ストリートの男子で堀米雄斗が金メダル、女子では西矢椛(もみじ)が金、中山楓奈(ふうな)が銅メダルを獲得した。さらにパークの女子でも四十住(よそずみ)さくらが金、 開心那(ひらき・ここな)が銀と、メダルラッシュに沸いた。
大会が終わっても熱は冷めず、オリンピックに出場した選手たちの動向がニュースとなり、スケートボードができる施設には多くの人が押し寄せているという。実はこの活況は、スケートボードのこれまでの状況からすれば隔世の感がある。そもそも日本において、スケートボードは否定的に見られがちだからだ。
ストリートカルチャーが生む軋轢(あつれき)
公道や公園でスケートボードをする姿を目にすることは少なくない。ボードさえあればどこでもできる手軽なスポーツであるため、そうした場で楽しむスケートボーダーは多い。いわゆる「ストリートスポーツ」と言われるゆえんである。
だが、ストリートで行われることから、一般の人々との間に摩擦も生まれる。例えば、「スケートボードは危険を伴う」という現実。オリンピックに出るレベルの選手はともかく、技量が足りなければコントロールしきれず、スケートボードだけどこかへ飛んで行ってしまうこともある。それが事故や器物破損のリスクとなり、「スケートボードは危ない」と判定される。
騒音も問題視される。路面を走る際に生じる音は相当大きい。また、「やんちゃな」感じに映るファッションを身にまとうスケートボーダーも多く、それらが要因となって住民と対立することもしばしばある。
ストリートならではのカルチャーはしばしば規範を外れ、スケートボードは厄介者のように見られがちだ。かといって、スケートボードを楽しむための施設が充実しているわけではない。それがゆえ、禁止されていてもやむを得ず公道や公園で練習し、さらに反発を招くという悪循環も生じている。
つまり、スケートボードを取り巻く競技環境は、決して恵まれてはいなかった。そこからなぜ、何人もメダリストが生まれたのか。大きな要因の一つは、オリンピック種目になる以前から、選手の周囲に惜しみない情熱を注ぐ存在があったことだ。
メダリストを生んだ仲間意識と低年齢化
たとえば堀米の金メダルは、日本代表コーチを務めた早川大輔氏の存在抜きには語れない。
現在47歳の早川氏は、自身も13歳の頃からスケートボードに夢中になり、19歳で訪れたロサンゼルスで本場のカルチャーに触れてプロスケーターになることを決意。日本ではまだ競技としてマイナーだった時代から先駆者としてスケートボードシーンをけん引してきた。第一線を退いた今もなお、スケートボードに情熱を傾け、東京五輪には「コーチ」の肩書ながら、堀米の「先輩」として参加した。
さかのぼること10年前、早川氏はスケートボード仲間が連れてきた小学生の頃の堀米のパフォーマンスを見て、即座に才能を見出し、サポートしようと決意した。堀米が中学生になるとスケートボードの本場アメリカで腕を磨かせたが、その費用は自分たちで賄うしかなかった。資金援助を得るべくスケートボード協会や企業に声をかけたが、当初は色好い返事がなかったという。結果的に自己負担したこともある早川氏は、その事実を「まあ、そのへんはありました」と控えめに認める。
才能を伸ばしてやりたいと無私で支える早川氏のような存在を得て育った選手は、堀米に限らず大勢いる。そこに感じられるのは、同じスケートボードに打ち込む者への強い仲間意識だ。その仲間意識もまた、選手の成長に大きく寄与する。ストリートの日本代表、白井空良(そら)はこう語る。
「技を教えて、と他の人に聞いたり、練習方法を聞かれて答えたりするのは珍しくないです」
白井だけが特別なわけではなく、大会を観戦していると、「さっきのトリック、どうやって練習したの?」「どれくらい練習している?」といった会話を選手同士が交わしていたりする。
ライバルには手の内を隠したいものだ。なのにオープンであるのは、「皆が仲間」であると認識しているからにほかならない。教え教えられることで切磋琢磨し、みんなで高め合う空気が何人ものメダリストを生み出したのだ。
別の視点から見る向きもある。堀米を除けば女子の種目で多くのメダリストが生まれた理由が「低年齢」にあるとするものだ。四十住こそ19歳だが、大会時点で中山は16歳、西矢は13歳、開は12歳でメダリストとなったように、十代の選手が日本代表に選ばれ、大会でも活躍した。スケートボードは「小柄で敏捷」であることがメリットになると言われ、彼女たちは体が成長し切る前段階ならではの敏捷性を発揮したのだ。
近年では世代が代わり、スケートボーダーであった親に連れられ、幼少期から競技を始める選手が目立つ。それらいくつもの要因が関連してメダルラッシュが起きたのだろう。
他の競技にはない価値観
東京五輪後のブームのきっかけが好成績にあるのはもちろんだが、前述の「仲間意識」がもたらすスケートボードならではの価値観も日本で大きな反響を呼んだ。
「スケートボードは順位を決めるためにやっているわけではない。誰かがすごい技をやれば、たたえ合うのが自然なカルチャーです」(早川氏)
東京五輪でパーク女子の優勝候補と目されていた岡本碧優(みすぐ)は、最終となる3回目の試技で金メダルを狙って大技に挑んだが失敗、4位の結果に終わった。その試技が終わった直後、海外の選手たちが駆け寄り、岡本を高々と担ぎ上げた。「選手同士がたたえ合う」シーンはしばしばメディアに取り上げられるほどインパクトを与えたが、それは慰めからではなく、安全策をとれば銅メダルに手が届いたであろう岡本がチャレンジした姿勢への称賛が込められていた。
相手を破って成績を上げることを至上命題とするのではなく、いかにかっこいいパフォーマンスができるか、チャレンジするかを優先し、体現した選手を称賛する。勝ち負けを超えた価値観があることを感じ取り、それが新鮮に映ったからこそ、スケートボードのブームはさらに大きくなったのだ。
むろん、課題はある。誰もがスケートボードに好意的になったわけではないし、今なお、スケートボーダーと住民や行政とのトラブルが伝えられもする。
それでもオリンピックを契機にスケートボードの認知や理解が進んだのは間違いない。9月には福島県喜多方市に、10月には埼玉県さいたま市にスケートボードの施設がオープンした。堀米の出身地である東京都江東区でも来年11月に開業を予定しているほか、東京・代々木公園でも2024年3月開業を目指して計画が進められている。かつてないほど施設の充実が図られようとしている動きは、オリンピックの成果があればこそだ。
この追い風をいかすことで、さらに理解が深まり、施設面をはじめ競技環境の向上へとつなげることもできる。そうすれば、さらに競技力も上がり、世界屈指の強豪としての地位も築いていける。そんな好循環を期待させる契機となったことを考えれば、東京五輪は実に意味のある大会だった。
バナー写真:東京五輪・スケートボード男子ストリートで金メダルを獲得した堀米雄斗の試技(2021年7月25日、東京・有明アーバンスポーツパーク)AFP=時事