李琴峰が読む『紅楼夢』(後編)――壮大なクィア小説
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(前編はこちら)
恋愛小説としての『紅楼夢』
『紅楼夢』がどんな小説かという点について、これまで色々な解釈がなされてきた。これは作者の自伝的な小説だとか、いや歴史小説だとか、違うこれはリアリズム小説だろうとか、まさに諸説紛々の様相を呈している。有名な文学作品はしばしば政治的な目的で利用されるが、『紅楼夢』もまた例外ではない。特に中国共産党による中華人民共和国の成立以降、『紅楼夢』は「封建制度に抗い、階級闘争の精神を体現した政治歴史小説だ」とさえ言われた(例の毛沢東もこの説を唱えた一人である)。小説の解釈は自由だが、流石にここまで来ると曲解もいいところである。私にとって『紅楼夢』はやはり第一義的に、優れた恋愛小説である。
主人公の賈宝玉と林黛玉の悲恋は「大恋愛」と呼ぶのに相応しく、その根源は前世に遡る。賈宝玉の前世は天上界の太虚幻境(たいきょげんきょう)に住む神瑛侍者(しんえいじしゃ)という仙人で、林黛玉は霊河(れいが)のほとりに生える絳珠仙草(こうじゅせんそう)という霊気のある草である。神瑛侍者は毎日草に甘露(仙人が飲む甘い霊液)をかけ、そのおかげで絳珠仙草は草木の姿を脱して人間の女性の姿になることができた。ある日、神瑛侍者は下界に下り、人間として生まれ変わる。それを知った絳珠仙草もまた下界に下りることにした。甘露をかけてもらった恩返しとして、絳珠仙草は一生涯の涙を神瑛侍者に捧げることを決意する。賈宝玉と林黛玉との恋愛は、前世から運命づけられているというわけだ。林黛玉は賈宝玉と口論するとすぐ涙を流す泣き虫だが、これもまた宿世の因縁というものである。
二人だけでは恋愛小説として盛り上がらないので、林黛玉の恋敵として薛宝釵(せつほうさ)という女の子が出てくる。言ってしまえば三角関係の構図なのだが、三人の関係性はどろどろの修羅場みたいな陳腐なものではない。賈宝玉はずっと林黛玉に一途だし、薛宝釵もそれを分かっていて、賈宝玉と結ばれたいなどと願ったことはない。林黛玉は最初は薛宝釵を意識するあまり嫉妬したりもするが、二人は次第に親友の仲になっていく。ただ、林黛玉は性格が我が儘なところがあり、身体も弱く、恐らく長生きできないだろうと思われていた。一方、薛宝釵は容姿端麗で気立てが良く、当時の基準で見れば完璧な女性である。すると大人たちから見れば、薛宝釵こそが賈宝玉の妻になるのに相応しい女性だ、ということになる。片や前世から続く縁、片や現世の理想の妻、そこに貴族の家に生まれた者としての責務、周りの様々なしがらみや思惑が複雑に絡み合い、やがて悲恋を生み出していく。こんな素敵で壮大な恋愛小説は他に知らない。
クィア小説としての『紅楼夢』
こじつけと思われるかもしれないが本当だ。『紅楼夢』はクィア小説として読んでもとても面白い。
様々な人間模様が描かれるこの作品には、男性同性愛描写も女性同性愛描写もあり、女性が男装する場面も出てくる。薛蟠(せつばん)や秦鍾(しんしょう)などの登場人物が女性も好きで男性にも惹かれる、今で言うところの両性愛者として描かれている。お調子者として有名な薛蟠だが、とある美男子に言い寄ったところ失敗し、ボコボコに殴られてしまうなんてエピソードもある。主人公の賈宝玉も年齢が近い美男子、秦鍾や蒋玉函(しょうぎょくかん)に心を惹かれていた。
中国の明代と清代には男色を好む風潮があったので、古典小説においても男性同性愛描写は珍しくないが、女性同性愛描写はなかなか見当たらない。ところが『紅楼夢』にはある。見落とされがちだが、第58章には以下のエピソードがある。
賈宝玉の家にはお抱えの女の子だけの劇団があり、みんな大観園に住んでいる。劇団の中で、男役の藕官(ぐうかん)と女役の菂官(てきかん)がよく芝居で夫婦を演じるが、日々生活をともにしている中で二人は愛し合うことになり、本当の夫婦のような関係になっていく。後に菂官が先に亡くなり、藕官は悲しみのあまり激しく泣き叫んだ。死んだ恋人を忘れられない藕官はそれ以降、菂官の命日になるとこっそり掟を破り、冥銭を焚いて菂官を祭る(火事のリスクがあるので、庭園の中で冥銭を焚くのは禁止されている)。藕官のエピソードを知った賈宝玉は溜息を吐き、「神は既にこのような人を生んでおきながら、何故また僕みたいな髭が生えていて眉が太い汚らわしいものを創り、この世界を汚す必要があるのか」と嘆いた。
賈宝玉のこの台詞はこれまでの研究ではあまり重視されていないようだが、私は大いに注目すべきだと考える。「このような人」や「僕みたいな」など曖昧な言葉で誤魔化しているが、賈宝玉が言いたいのはつまりこういうことではないだろうか――「神は既に女を愛する女を生んでいるのに、何故また僕みたいな汚いもの(=男)を生む必要があるのか、世界を汚すだけではないか」と。いや、そうとしか読めない。賈宝玉は小説の中で一貫して女性を褒め称え男性を忌み嫌う態度を取っているので、そんな彼が「女を愛する女」の存在を知った時、自分を含めた男を不要な存在だと感じるのは、ごく自然なことだろう。「女の子は水でできた体」と説く彼からすれば、女性同士の恋愛が最も清い関係性に見えるに違いない。それにしても、18世紀の古典小説にこんな台詞が書かれていたんだよ? すごくない?
性同一性障害者としての賈宝玉
そもそも賈宝玉自身も相当クィアな人間である。合山究氏『『紅楼夢』―性同一性障碍者のユートピア小説』(2010)は現代医学の知見を活かして『紅楼夢』を考察した上で、三つの結論を出した。①賈宝玉は現代で言うところの性同一性障害者である、②賈宝玉のモデルは作者・曹雪芹自身であり、曹雪芹もまた性同一性障害の傾向がある、③『紅楼夢』は作者が「現実の苦悩や悲嘆から脱却するよすがとし」て書いた「性同一性障碍者のユートピア小説」である。
賈宝玉を性同一性障害(GID)に結びつけること自体、そんなに驚くような結論ではない。LGBTやクィア理論、ジェンダー・スタディーズの知識をある程度備えている読者であれば思いつくものではある。私自身も大学で『紅楼夢』を再読した時、「賈宝玉はトランスジェンダーに違いない」と思った。それでも、それを学術的に分析し、一冊の単著としてまとめ上げた功績は大きい。最初にこの視点に気付いたのは台湾でも中国でもなく日本の学者だったのは、今でこそ日本はジェンダー平等やLGBTの後進国になりつつあるが、2000年代に少なくともトランスジェンダーにとって日本は先進国だった、ということの反映だろう。「性同一性障害」という病名の知名度の高さや、性別変更のための立法措置などは、中国や台湾では見られなかった現象である。
合山氏の研究手法に問題がないわけではない。最も大きな瑕疵は、クィア理論やジェンダー・スタディーズの知見を踏まえていないという点にあるだろう。氏は「男性性」と「女性性」というものを当然視し、その上で賈宝玉には「男性として当然備わっているべき性衝動」がないと考え、そこからGIDに結び付けた。検証の過程においても精神医学の権威を無条件に信じ込み、「性同一性障害者」を客観的かつ均一的な存在として前提に置いているところが問題である。氏は「性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン」などに書かれている「性同一性障害者の症状」を絶対視し、精神科医になったつもりで賈宝玉の言動を観察し、診断を下した。
しかし、精神疾患というものは客観的な存在というより、時代とともに「構築」されるものが多い。性に関する事柄が特にそうである。実際、かつて精神疾患と目されていた同性愛は1990年に脱病理化を果たし、性同一性障害もまた2018年に精神疾患から除名され、「性別違和」や「性別不合」という「状態」になった。男性性、女性性、そして精神医学についてもっと懐疑的な視点が必要だったのではないか。
研究手法において瑕疵があったため、その結論についても頷けないところが多い。例えば、賈宝玉が時々正気を失うこと、仏教と道教に惹かれること、正式な名前がつけられていないことなどについて、氏は全て性同一性障害で説明しようとしているのだが、流石に無理がある。「曹雪芹にも性同一性障害の傾向がある」という結論は推測の域を出ず(そういう可能性があるのは否定しないが)、「『紅楼夢』は性同一性障害者のユートピア小説」という結論も鵜呑みにできない。もし曹雪芹が本当に「現実の苦悩や悲嘆から脱却する」ために「性同一性障碍者のユートピア小説」として『紅楼夢』を書いたのだとしたら、そのユートピアたる大観園の崩壊まで書く必要はないし、また、そんな自分を慰めるような小説が最高傑作として文学史に名を刻むこともなかっただろう。
ただ、賈宝玉がいわゆる性同一性障害者、あるいは性別違和や性別不合の傾向を持っている人なのかという点については、その通りだと思う。したがって、『紅楼夢』は心の性と身体の性の不一致を抱える人物を主人公に据える、壮大なクィア小説として読める。
もっと読まれてもいい『紅楼夢』
『三国志演義』や『西遊記』のような分かりやすい物語を持つ古典小説とは違い、『紅楼夢』は日本の読者にとって今さら手に取りづらい印象があることは理解できる。日本語訳で読んでも、難しい漢文や漢詩、知らない器物や制度、そして膨大な数の登場人物にすぐ挫折するかもしれない。しかし、『紅楼夢』には時間をかけて読解する価値があると思う。
あるいは、ドラマから入るのもいいかもしれない。『紅楼夢』は中国語圏で度々ドラマ化されてきた。一九八七年のもの(中国・中央テレビ放送『紅楼夢』)、一九九六年のもの(台湾・中華テレビ放送『紅楼夢』)、そして二〇一〇年のもの(邦題『紅楼夢 〜愛の宴〜』)がおすすめである。
バナー写真=『紅楼夢』の名場面を再現した粘土のミニチュア作品。左が林黛玉、右が 賈宝(ロイター)