冗談から始まった挑戦:体操競技で正式導入された「AI採点支援システム」が切り開く未来とは
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世界初にして最高水準の採点システム
スポーツには水泳や陸上のように記録で順位が決まる競技、柔道やバスケットボールのように選手あるいはチーム同士が対戦する競技に加え、審判が選手のパフォーマンスを採点する、いわゆる「採点競技」がある。その代表格とも言える体操において、近年、画期的な取り組みがなされてきた。AIによって選手の演技を採点するシステムの導入だ。
初めて正式に採用されたのは2019年の世界選手権。そのときは男子のあん馬と跳馬とつり輪、女子の跳馬の計4種目で用いられた。10月18日~24日に北九州市で開催された世界選手権では、男女計10種目のうち5種目で公式運用、2種目で最終テスト運用された。
このシステムは、おおまかには測定する装置と、データベースによって構成されている。
まずは、演技している選手に向けレーザーを1秒間に200万回照射し、体形の立体データを取得、次いでAIが骨格や関節の位置を測定して動作を3D化する。その後、体操の技を登録したデータベースと照合し、どんな技を行なったかを識別。個々の技について定められているルールに従い、加点や減点の要素も判別し、点数として表示する。
その点数は、審判によるチェックを経て最終的に「得点」となるが、システムの完成度はしばしば「自動採点」と表現されるほど高い。近年のスポーツにおいて、デジタル技術はテニスにおけるインかアウトかの判定、サッカーでのゴールラインを割ったかどうかなどの判定等に用いられてきた。だが体操ほど動きが複雑な競技で実現されたケースはなく、世界初にして最高水準のレベルといえるシステムである。
体操をはじめとする採点競技は長年、課題を抱えてきた。人の目でジャッジするため、技が成功したかどうかや、加点・減点など評価の妥当性を巡って選手側から批判が出たり、ときには誤審騒動が起きたりすることもある。AIによって技を客観的に評価できるこのシステムは、その課題を解決するものとして反響を呼んだ。
開発したのは総合ITベンダー「富士通」である。同社スポーツビジネス統括部統括部長の藤原英則氏は、システムを実用レベルに仕上げる道のりは困難を極めたと言う。
体操特有の動きと人の目の限界
ハリウッド映画で使用されているようなマーカーを身体につけて測定するモーションキャプチャーはあるが、対象物と接触することなく計測する装置はそもそも世の中になく、「まずはそれを作るところがスタート地点」だった。
しかも体操は「体を操る」という競技名の通り、高速で複雑な動きをする。体を伸ばしたり球体のように丸まったり、手足の関節もさまざまに動かす。それらを測る装置の開発には従来にない新たな技術が必要とされた。
器具と体の識別も問題だった。
「例えばつり輪の場合、演技の中でつり輪も動きますよね。そのためつり輪を腕の延長と認識し、手長エビのような画像として表示されてしまいました」
そうやって捉えた動きを点数に置き換えるには、技の種類を識別し、さらに「優劣」を判断する必要がある。採点規則をデジタル化したものをAIに学ばせてマッチングさせているが、技は男女合わせて約1400。これらすべてを学習させる必要があった。
「最初に取り組んだのはあん馬でした。固定された台の上で動くから楽勝だろうと思ったのですが、くるくる回っている中に実はいくつもの技が入っていて、どこからどこまでが一つの技で、次の技はどこかどこまでなのか、が分からない。この識別が大変でした。体操関係者の方からは『なんで難しいものから?』と言われました」
体操の世界を学ぶうち、従来の採点方式の厳しさも知った。審判は演技中、手書きで技の名前の略記号を用いつつ内容を速記し、終了後に計算。その方法はアナログの最たるものだった。また、技の高レベル化に伴い、かつては1種目数人でよかった審判が現在は10人前後必要となり、一つの大会では男女で120人ほどに膨れ上がっている。
藤原氏が痛感したのは、採点を人の目で行なうことの限界だった。例えば、あん馬のルールの項目の中には、このような一文がある。
「倒立への上昇局面で足先が下がった場合、15度までは−0.1点、16度から30度までは−0.3点、31度から45度までは−0.5点」
15度と16度の境界のように1度の違いで減点の数字が変わるが、その1度の差を人の目は判別できるのか……。さらに「まっすぐなら減点なし、わずかに曲がれば−0.1点」といった表記もあったが、「まっすぐ」「わずかに」の判断は審判に委ねられてきた。「大会ごとに得点の出方が違う」など、しばしば批判や不満が選手から出る要因はそこにもあった。
富士通は2017年に国際体操連盟と提携。多くの選手のデータを収集し、あいまいな基準を具体化するなど作業を進めた。システム開発の難しさもあったが、当初は審判たちからの反発も受けた。
「他の産業でも議論にあがる点と思いますが、体操界でもAIが審判の職を奪うのではないかという懸念の声がありました」
それに対して、採点精度の向上や公平性など、導入による体操界のメリットを粘り強く説明していった。何よりも選手から歓迎する声が大きかったのが推進する力になった。
勘違いから始まった開発
そうやって完成にこぎつけたAI採点支援システムは、2019年世界選手権以降、大舞台で用いられてきた。来年イギリス・リバプールで行なわれる世界選手権では、男女のゆか、男子の平行棒の最終テストを行い、全10種目の完成を目指す。
開発の苦労が実っていまやシステムは主要大会に定着したが、プロジェクトの発端は「勘違い」にあった。
東京オリンピック・パラリンピック開催が決まった頃、IT技術をスポーツに生かす可能性を探っていた藤原氏は、さまざまな競技団体の関係者と話をするようになっていた。その一人に現・国際体操連盟会長の渡邊守成氏がいて、会話の中で渡辺氏が「ロボットで採点できたら」と口にした。
「あとで聞いたら、冗談のつもりで言ったそうです」
だが藤原氏は正面から受け止め、開発を決意。会話から半年後、日本で開催された国際体操連盟総会に試作品を持ち込み、プレゼンテーションを行なった。
「本物のあん馬の用具を持ち込みました。会場のホテルの方は相当困惑されていました(笑)」
選手に演技してもらい、その背後のモニターで画像を示した。
「実は『紙芝居』のようなものでした」
まだAIによる採点など完成していなかった。「完成したらこうなる」というイメージ画像を手動で表示したのである。そんな危なげな手法でPRして、もし完成しなかったら……。だが、藤原氏はリスクを恐れていなかった。
「多くの場合、まず社内に技術があって、それに基づき製品を開発するという順序をたどりますよね。でも僕らは、最初にかなり先の未来を描いてみる。今は技術がなくても将来こんな世界があると見せてみる。そのあとで技術を追いつかせる。そういう順序で考えます。社会をよりよくするにはどうしたらいいか、デザイン志向と言いますか、社会をデザインすることが重要だと思っています」
イノベーションはこうした発想の仕方で生まれるという信念があった。
社内では反対意見に見舞われたという。
「そんなものできないよ、と技術者たちから言われました」
反対は技術者たちだけでなかった。社内でもさまざまな部署から賛同を得られず、なかなか企画を通せなかった。技術的に実現したとしても、事業としての成否を案ずる意見があったからだ。藤原氏はそれでも粘り強く働きかけた。システムが力を発揮するのは、体操の採点だけではないと見通していたからだ。
採点にとどまらないシステムの可能性
「この技術は体操だけでなく他の競技にも応用していけます。他の分野、例えば健康面で活用できます。オンラインのフィットネス講座で、講師が見ているわけじゃないから、正しい動きかどうか分からない。そのとき、AIを通じて正しいフィードバックを返せれば、自宅にいながらしっかり運動を行なうことができます。また、通院する高齢者の方に、病院に着いて入り口から受付までの動きをセンシングして、姿勢や歩き方などをアドバイスをするという一石二鳥の活用も考えられます」
さらには、産業や文化での活用も考えられるという。職人技と呼ばれる技術にはすべからく正しい体の使い方があり、従来感覚で捉えられていた動きを数値化すれば、伝統技能の取得などにも役立つ。
「テクノロジーの進化をざっと振り返ると、蒸気機関からスタートして電気、コンピュータ、IoT(Internet of Things=モノのインターネット)……という流れです。コンピュータくらいまでは、人間の労働的なものをいかにテクノロジーで解決するかという時代でした。でもIoTになってからは、どちらかというと人間がいらない、となってきている。そんな現代にあって、テクノロジーは人々の幸せと健康につながっていくべきだと思います。体操の採点システムの技術も、そのための第一歩だと考えています」
「冗談」から始まった挑戦は、人々の営みを変えるかもしれないほど多様な可能性を秘めている。
バナー写真:世界体操など、国際レベルの大会でもすでに活躍している「AI採点支援ステム」。審判の手元のモニタでは点数のほかにも様々な情報が表示される=記事中の写真は富士通提供