稽古で投げ飛ばされた番記者だけが知っている素顔の白鵬
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もやしのように細かった入門当時
白鵬は1985年3月11日、モンゴルの首都ウランバートルに生まれた。本名ムンフバト・ダヴァジャルガル。父は年に1回開催されるモンゴル相撲の大会で6度も優勝している“大横綱”。東京、メキシコ両五輪にレスリングで出場し、メキシコ大会ではモンゴル初のメダリスト(銀メダル)に輝くなど、日本で言うならON(王貞治・長嶋茂雄)に匹敵する国民的英雄だ。
モンゴル人関取第1号の旭鷲山に憧れていた白鵬は、5人の入門希望者とともに15歳の時に来日。アマチュア相撲の名門である物流会社・摂津倉庫(大阪府大東市)で、仲間と稽古(けいこ)をしながら入門の機会をうかがった。
ところが、当時は175センチ、62キロという細身。体格に恵まれた少年から次々と相撲部屋にスカウトされていく中、もやしのような白鵬は、親方たちから見向きもされなかった。失意に暮れてモンゴル帰国を決意した、ちょうどその時、引き取ってくれたのが弱小部屋の宮城野部屋、宮城野親方(元前頭・竹葉山)だった。
関取になってから入門当時の思い出を白鵬に聞いたことがある。
白鵬は「やせていたので、最初は相撲の稽古をさせてもらえなかった。とにかく体重を増やすために食べてばかりいた。吐くまで食べていたからね。まあ、食べた物を吐くのは罪なんだけど(笑)。稽古よりつらかった」と、体重増が一番の課題だった、と振り返った。
口癖は「相撲が楽しくてならない」
2001年春場所で初土俵。序ノ口となった翌夏場所は3勝4敗と負け越した。のちの大横綱としては異例のスタートとなったが、稽古に励むうちに体が充実していき、偉大な父から受け継いだ素質が開花する。デビューからわずか3年で新入幕、19歳1か月は昭和以降4位の記録だった。その後も順調に出世し、2006年春場所には関脇で13勝をあげ、場所後に大関に昇進した。
日の出の勢いで三役から大関に上がる頃の白鵬の口癖は、「相撲が楽しくてならない。次の場所が待ち遠しいですよ」。残念ながら、日本人力士からそういう言葉は聞いたことがない。常に向上心を持ち続けて稽古に励んだことが、白鵬を大横綱に成長させた原動力になったのは間違いない。
新大関の夏場所で初優勝。綱取り場所となった次の名古屋場所では、2敗を喫したものの、初日から14連勝で優勝を決めていた横綱の朝青龍と、千秋楽の結びで対決した。熱戦の末、寄り倒して13勝の準優勝を飾った白鵬は、横綱に昇進できると確信したという。しかし結果は、「もう1場所見る」(元大関・魁傑の放駒審判部長)と横綱昇進は見送られた。
その後の夏巡業で二人だけで話す機会があった。
「場所前から(横綱昇進の条件は)13勝と言われていたからね。NHKのアナウンサーに見送られたことを聞いたんです。NHKのアナウンサーが嘘を言うわけはないからね(笑)」と、白鵬は冗談めかしながらも、かなり悔しそうな表情だった。
そこで私は、1987年に横綱・双羽黒が優勝なしのまま廃業して以降、横綱昇進基準が厳しくなったことを説明したが、白鵬は終始納得できない様子だった。
炎天下の夏巡業での猛稽古
だが、こうしたことで腐ってしまうようでは、その後の大成はない。白鵬には試練をバネに変える心の強さがあった。
ちょうどその頃は、巡業形態が「自主興行」から「売り興行」に戻ったばかりだった。自主興行とは日本相撲協会自ら主催するもので、売り興行とは各地の勧進元に興行権を売るもの。江戸時代から長く続いた売り興行だが、若貴ブームの時に日本相撲協会は自主興行に切り替えた。ところが、その後相撲人気が下火になり事業収益が悪化すると、再び売り興行に戻した。このため、当時は興行主がなかなか見つからず、この年の夏巡業もわずか5日しか開催されなかった。
ところが、一人やる気満々の男がいた。白鵬は「1日平均20番、合計100番稽古をする!」と意気込みを語っていた。
巡業には原則、関取全員(70人)が参加する。にもかかわらず、使う土俵は一つだけ。それも2時間ほどしか稽古時間が割けない。申し合い(土俵の中で二人が勝負し、負けた力士は土俵から出て、次に対戦を希望する者は挙手して勝った力士が1人を指名する。いわゆる勝ち抜き戦だが、横綱・大関は特権として負けても続けて稽古ができる。大相撲の代表的な稽古方法)に参加する関取は半数程度で、番数も一人10番程度だ。
初日(福島県郡山市)は、時天空、豪風らと稽古し、13番。時天空に敗れた1敗のみだった。2日目(北海道富良野市)では、稀勢の里、黒海らと17番。黒海の寄りに屈した以外は完勝だった。3日目(伊達市)は少しペースを上げて旭天鵬、露鵬、黒海、豪風らと21番。露鵬、豪風に敗れて19勝2敗。4日目(岩見沢市)は「原因はわからないけど、昨日の夜から右手が腫れて痛くて握れない」と稽古を回避した。
青森市での最終日、会場は覆うテントもない完全な露天巡業だ。このままでは「公約を守れない」と思ったのか、白鵬は十両力士同士の申し合いに突如参加。途中から幕内力士も加わり、何と43番の猛稽古をこなした。感心したのは、気温30度を超す炎天下、ほとんど息が上がらないスタミナだった。結局、5日間(実質4日間)で計94番の稽古量だった。
稽古後、白鵬は私のところに歩み寄ると、「5日間合わせて100番いった?」と聞いてきた。
「94番だった」と正直に答えると、「それなら今日、もっとやればよかったなあ。でも割(巡業の取組)で5番取ってるでしょう(笑)。それを合わせれば99番。それに毎日ぶつかり稽古をやったからそれを1番に数えれば、全部で100番になるよね(笑)」と、負けず嫌いの性格らしく、最後まで100番稽古達成にこだわっていた。
ハワイ巡業で体感した横綱の圧力
白鵬は翌2007年の春場所、夏場所と連覇して横綱に昇進した。22歳2か月は北の湖、大鵬に次ぐ史上3番目の若さだった。
横綱昇進直後には、ハワイで巡業が行われ、白鵬の両親や妹たちも同行した。自由行動の日、白鵬はホテル近くのビーチで海水浴に興じていた。しかし、「遊んでいると体がなまる」と、同部屋の幕内・龍皇と水着のままで肩慣らし的に稽古を始めた。
しばらくすると、白鵬が私を見て「年の割にいい体をしているね。稽古してみる?」と不敵な笑みを浮かべた。
「年の割には余計ですよ。よーし、やってやろうじゃないですか」。175センチ、70キロと新弟子時代の白鵬とほぼ同体格の筆者が、192センチ、155キロの新横綱に挑戦することになった。
もちろん白鵬は本気ではなかったが、分厚い胸に全力でぶつかっても1ミリも動かせない。私は左を差し、右も巻き替えてもろ差しになった(いや、させてもらった)。驚いたのは次の瞬間。白鵬が前のめりにちょっとだけ体重をかけると、腰がきしんで息が苦しくなった。
白鵬はたやすく右を巻き替え、内無双を切るように巻くと、一瞬のうちに天と地が逆になるような感じで、私は2メートルぐらい吹っ飛び、砂の上に転がされていた。見上げると青空を背に横綱の笑顔が見えた。
力士、しかも最高位の圧力とは、かくもすさまじいものか。無邪気に笑っている白鵬を見て、素直に感心した。
白鵬の強さに触れた記事もしょせん、本場所や稽古を見て書いたもの。その点、実際に肌を合わせた筆者の書く白鵬の記事は、その後、他の記者とは一味違うものになったはずだが……。
「復興土俵入り」で知った大相撲と日本の絆
白鵬の相撲は常に腰が割れ(腰を深く落とし)、精密機械のような取り口で、組んでも離れてもほとんど破綻をきたすことがない。それが45回も優勝できたゆえんだが、意外と“天然”なところもあった。
2010年初場所の初日には、何と横綱土俵入りで「せり上がり」を忘れるというハプニングがあった。
相撲では鶴竜に快勝したが、支度部屋での囲み取材が解けて報道陣が散ったあと、白鵬のところに近づき「今日の土俵入りでせり上がりを飛ばしたでしょう?」と尋ねた。
白鵬は「バレてました?(笑)今日から四股(しこ)の踏み方を変えたので、そればかりが頭にあって……。歌手は歌詞を間違えてもそのまま歌うでしょう? それとは違うかあ(笑)」と照れながら答えていた。
確かに、横綱として言動にやや問題があったのも事実である。そうしたことから白鵬を傲慢(ごうまん)な人物と誤解している人もいる。しかし、筆者の知る白鵬は、本当に相撲が好きで、屈託のない好青年だった。
朝青龍の時もそうだったが、日本人が考える横綱像とモンゴル人のそれとの乖離(かいり)は、指導する側の部屋や相撲協会にも問題があったのではないだろうか。横綱時代の後半に増えた、かち上げや張り手といった勝つために手段を選ばない取り口は、「横綱は絶対に負けてはいけない」という人並外れた負けん気の強さ、そして使命感の表れだった、と私は見る。ともかく白鵬は自分なりに、横綱が他のスポーツのチャンピオンとは異なることを理解していた。
2年前の九州巡業、雑誌の取材で独占インタビューをする機会があった。
この時、白鵬は自ら「地下にある邪悪なものを取り払うという意味がある」と四股の本来の意味を説明。その具体例として、東日本大震災直後に行った復興土俵入りについて触れ、「(岩手県)山田町に着いた日は、余震が多くて眠れないほどだった。それで次の日に横綱土俵入りをして帰ったら、山田町から電話があって『土俵入りのあと余震が収まりました』と言っていただいた。その時、大相撲と日本が繋がっているとの確信に変わった」というエピソードも披露した。
白鵬が14年以上も横綱を張れた秘訣としては、筋力トレーニングよりも四股やテッポウといった相撲古来の鍛錬法を大事にした点も挙げたい。さらに、相撲の歴史にも興味を持って勉強しており、日本人力士以上に造詣が深い。それゆえ、大相撲の良き伝統を弟子たちに伝えていける名伯楽になる資質は十分ある。「間垣親方」としての第二の相撲人生にも、私は大いに期待している。
バナー写真:2007年6月に行われたハワイ巡業、ホノルルのビーチでの一コマ。筆者と相撲を取って投げ飛ばし、「どんなもんだい」とばかりに笑う白鵬=筆者提供