フビライ・ハンの野望をくじいたのは「神風」だったのか――いま改めて「元寇」を検証する
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「親交を結ぶか、さもなくば戦(いくさ)か」
1274年(文永11年)10月(旧暦)、元(モンゴル帝国)は約3万人の軍勢で九州・博多湾に攻め寄せてきた。
モンゴル帝国とは、13世紀初頭にテムジンが遊牧民諸部族を統一してモンゴル高原を制圧し、1206年にチンギス・ハン(チンギス・カンとも言う)の称号を得て創立した国である。その後、中央アジアまで勢力を広げると、1259年には高麗(朝鮮)も服属させ、やがて西アジア、ロシア、中国北部、朝鮮半島にまたがる大帝国を築き上げた。
モンゴル帝国の本拠地を南方に求め、1264年、都をカラコルムから大都(現在の北京)に移したのが第5代皇帝フビライ・ハン(クビライ・カンとも言う)。チンギス・ハンの孫にあたる。フビライは、1271年に国号を元と改めた。
この頃フビライは、臨安(現在の杭州)を首都とする中国王朝・南宋に侵攻しており、同国と親しい日本を引き離して南宋の経済力を削ぐために、日本に使者を派遣した。
フビライからの国書には「日本は昔から中国に使いを遣(つか)わしてきた。しかし私の代になってから音沙汰がない。きっと元を知らないのだと考え、使いを派遣した。今後は互いに訪問し、親睦を深めよう」と、修好を求める内容が書かれていた。つまり、フビライには当初、日本を軍事占領しようという意図はなかったと思われる。ただ、国書の最後には「私は兵を用いたくはない。どうかそのことをよく考えてほしい」とも記されていた。これは、要求に応じないのなら武力で服属させるぞ――との脅しに受け取れる。
幕府は、外交を担う朝廷に国書を送達し、朝廷側は返書を送らないことを決めた。幕府もこれを了承し、九州・大宰府に滞在中の元の使者に伝え、帰国させた。
しかしフビライは、その後もたびたび使者を派遣してきた。幕府はこれを黙殺し続ける。かたくなに元との外交を拒絶したのはなぜだったのか。
日本史学者の新井孝重氏(獨協大学名誉教授)は次のように見ている。
「この時代の為政者はまったく国際情勢にうとく、また諸国間の接触経験については、なきに均しい状態であった。いわば無知と外交の未経験が国書を前にして、かれらを硬直させてしまったのである。なにしろ、これまでの外交の経験がないのであるから、仕方のないことであるが、外交上の技術にも暗かった」(『戦争の日本史7 蒙古襲来』吉川弘文館)
つまり、日本は「外交音痴」だったというのだ。確かに、元の国土の広大さや日本との国力の差を知っていたら、さすがに幕府も無視できなかっただろう。ただ当時、幕府は南宋の禅僧やその弟子たちをブレーンとしており、彼らは元に攻撃されている祖国を守るため、意図的に元の実体を矮小(わいしょう)化するような情報を伝え、為政者たちの判断を曇らせたという可能性も考えられる。
元の「集団戦法」と新兵器に面食らった鎌倉武士
いずれにせよ、しびれを切らしたフビライは、3万人もの大軍(モンゴル軍2万人、高麗軍1万人)を大船団に分乗させ、1274年10月20日(旧暦、西暦11月26日)未明に博多湾に侵入させた。
厳重な警戒を敷いていなかったこともあり、幕府側の武士たちは大いに慌て、あっさり上陸を許してしまう。こうして合戦が始まったが、戦いは圧倒的に幕府側が不利であった。最大の理由は「戦法の違い」にある。
一騎打ちを挑む鎌倉武士に対して、元の兵は集団戦法で攻めてきたのだ。
武士が「やあやあ我こそは!」と名乗りを上げるべく敵軍に近づいていくと、すぐに取り囲まれて射殺されてしまう。戦闘スタイルそのものが、日本にとって完全に不利なのである。しかも、モンゴル兵の短い弓は、鎌倉武士の弓よりも射程距離が長く、矢には毒を塗ってあるので、皮膚にかすっただけで毒が回る。そのうえ、馬も容赦なく射ってくる。
また、大きな音を立てる銅鑼(どら)に加え、「てつはう」と称する火薬を用いた武器も武士たちに衝撃を与えた。
当時、日本にはまだ火薬が伝来していなかった。だから黒い球が空中ではじけ、爆音を発して火や煙を噴くと、武士たちは仰天、馬は怖じけづき、戦いにならなかったのである。
こうして苦戦を余儀なくされた幕府軍は、仕方なく撤退した。すると元軍も夜には船に戻っていった。
消えた船団:その「理由」は時代と教科書により異なる
ところが――翌朝、なぜか元軍の船は姿を消していたのである。こうして最初の戦い「文永の役」は終わりを告げた。
元の船団が消えた理由については、7年後の「弘安の役」と合わせて、我々は中学・高校の日本史の授業で「元軍は暴風雨のために全滅した」と教えられてきた。いわゆる「神風」である。
日本が危機に陥ると、「神風」が吹いて救ってくれるという信仰は、太平洋戦争中、神風特別攻撃隊という悲劇を生んだが、もともとは元寇以後に広まった思想である。
ところが現在の教科書では、文永の役について、その記述が大きく変化しているのだ。
現在の日本史教科書の記述を見てみよう。
「元は高麗の軍勢もあわせた約3万の兵で、1274(文永11)年、対馬・壱岐を攻め、大挙して九州北部の博多湾に上陸した。(略)一騎打ちを主とする日本軍は苦戦におちいった。しかし元軍も損害が大きく、内部の対立などもあって退いた。(中略)1281(弘安4)年、約14万の大軍をもって九州北部にせまった。ところが博多湾岸への上陸をはばまれているあいだに暴風雨がおこって大損害をうけ、ふたたび敗退した」(『改訂版 詳説日本史B』、山川出版社、2018年)
文永の役の際、モンゴル軍が敗退した要因を「内部の対立」としていることが分かる。それでは、他の教科書はどうなっているのか。該当部分を抜き出してみよう。
「混成軍で、志気も低かった元・高麗軍が、不慣れな戦いによって損害をこうむり撤退した」(実教出版)
「御家人たちは、元軍の集団戦法に苦戦しながらも、多くの損害をあたえ、そのため元軍は退却した」(東京書籍)
このように、暴風雨で元軍が撤退したことが、日本史の教科書の記述から消えているのだ。
興味深いのは、山川出版社の教科書が文永の役での撤退理由を「内部の対立」としているのに対し、実教出版は敵の「志気の低さや不慣れな戦い」、東京書籍は「日本軍の健闘」を要因にあげている。このように教科書によって退却理由が違う。清水書院の教科書だけは「おりからの暴風雨もあって、征討軍はあっさり撤退した」とあるが、「暴風雨のために」と断言せず、「暴風雨もあって」とぼかした表現になっている。
つまり、なぜ文永の役で元軍が撤収したのか、研究者の間でも定説がないのである。さらに、筧雅博氏(フェリス女学院大学教授)は「モンゴル側からすれば、威力偵察にすぎず、上陸地にとどまって、戦いを継続する用意は、もともとなかったのである」(『日本の歴史10 蒙古襲来と徳政令』、講談社)と、威力偵察説を提起している。
一方で、こうした暴風雨否定説に異を唱える学者もいる。
服部英雄氏(九州大学名誉教授)は、その著書『蒙古襲来』(山川出版社)の中で暴風雨の到来を肯定する一方、たった1日で撤退したという説を否定している。
服部氏は、京都の公家・藤原兼仲の日記『勘仲記』などを分析した結果、モンゴル軍は1日で去ったのではなく7日ほど滞在しており、最後に暴風雨に見舞われたと論じる。暴風雨の記録は、高麗側の記録にあるという。今後、もしこれが定説となれば、再び教科書にも「文永の役で元軍は暴風雨のために引き上げた」と記されるかもしれない。
「神風」は風雨をつかさどる神の“ご加護”から
さて、文永の役の後も元は服属を求める使者を日本に送ったが、時の幕府の執権・北条時宗はことごとく使者を処刑した。
そこでフビライは、1281年(弘安4年)、14万人という大軍を再び日本へ差し向ける。朝鮮半島から元高麗軍を中核とする東路軍3万人、寧波から旧宋軍を混じえた江南軍10万人が博多に迫って来た。ところが、前回と同じ轍(てつ)を踏まぬよう、武士たちは元の戦法を徹底的に研究していた。20キロにわたって構築した石塁(防塁)も功を奏し、幕府軍は元の大軍の上陸を阻止し続けた。
こうして2か月近く持ちこたえていると、7月1日(旧暦、西暦8月23日)に大型台風が九州に襲来。日本軍も大きな被害を受けたものの、元の船は軒並み沈没し、敵兵は海の藻屑と消えたのである。
このように弘安の役では、暴風雨(巨大な台風)が確かにあり、元軍は壊滅的な打撃を受けたのだ。なおこの折、朝廷や幕府は各地の寺社に怨敵退散を祈祷させていた。
たとえば、伊勢神宮には勅使の二条為氏大納言が派遣されたが、為氏は内宮の別社にある風神社にも詣でた。ここには風雨をつかさどる神が祀られており、元寇後、この神が猛風を吹かせてくれたのだとうわさされ、朝廷は1293年に神社の家格を上げて「風日祈宮」とした。
また、肥前(福岡)の筥崎(はこざき)八幡宮や信濃(長野)の諏訪大社、出雲(島根)の布宇(ふう)神社なども効験があったとして朝廷から格上げされた。こうして、日本は「神国」なので、その加護を受け、いざとなると神風が吹くという思想が次第に広まっていくのである。
一方フビライは、その後も日本遠征を計画したものの、ベトナムの征服に苦戦したうえ、中国や東南アジアの各地で反乱が続発、さらにジャワ島への遠征が撃退されて終わったため、再々征の機会を逸してしまう。
幕府衰退の引き金となった御家人たちの窮乏
こうしてどうにか外敵の侵攻を防いだ鎌倉幕府だったが、元寇は幕府衰退のきっかけとなった。
当時、戦に対する恩賞は土地の給与(新恩給与=その地の地頭職に任じる)だったが、元寇は外国との戦争だったため新たに与える土地が不足し、恩賞は極めて不十分なものだった。しかも戦の出費は自弁(持ち出し)。討ち死にしたり、後遺症が残る大けがを負ったりした武士も少なくなかったろう。このため、幕府直属の家臣である御家人の多くが経済的な打撃を被り、貧窮化して土地を担保に金を借りるようになった。
こうした状況を尻目に、有事を理由に執権の北条一族が重要な役職や守護職を独占するようになり、“おいしい”思いをする。ついには御家人たちの幕府に対する忠誠心が薄れてしまい、それが結果として幕府の瓦解につながっていくのである。
バナー写真:元寇の様子を描いた絵巻物『蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)』の中でも、最大の見せ場となる至近戦の場面。鎧兜(よろいかぶと)に身を固めて馬に乗り、敵兵めがけて突撃する竹崎季長(たけさき/たけざき・すえなが)。元の兵士たちは布や革で作られた動きやすい服を着て、集団戦法を用いている。国立国会図書館ウェブサイトから掲載