台湾を変えた日本人シリーズ:台湾縦貫鉄道完成の最大の功労者・長谷川謹介
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清朝時代の鉄道を大幅増設へ
「台湾鉄道の父」は誰かを巡って、台湾で昨年、小さな論争が起きた。そのとき、話題になったのは清朝の台湾初代巡撫(知事に相当)の劉銘伝か、本稿で紹介する日本人の鉄道技術者・長谷川謹介か、という点だった。劉が巡撫だった時代に台湾に初めて鉄道が造られたが、それを抜本的に改造し、大量輸送を可能とする南北縦貫鉄道を完成させたのは長谷川だった。
台湾が日本の領土となった1895年、すでに北部の基隆から中部の新竹間に99キロの軽便鉄道が敷かれていた。これは劉が建設させたものだったが、20メートルで1メートル上昇する急勾配の上、最小曲線半径が80メートル、狭いところでは56メートルの急カーブもあり、スピードや輸送力が貧弱で、台湾の近代化に役に立つ状態ではなかった。
初代台湾総督の樺山資紀は防衛と統治の両面から縦貫鉄道建設の重要性を認識し、同年8月には日本政府に建設を要望した。政府は翌年3月に7万7000円余の予算を組み、縦貫線の調査を命じた。「3カ年継続事業として総工費約1539万円を要する」との結論に至り、同年5月、実業界の265人が発起人になり「台湾鉄道会社」が計画された。台湾総督府も援助していたが、途中で頓挫してしまう。
民営から官営へ
1898年2月に第4代総督児玉源太郎が就任。3月には民政長官の後藤新平が着任して、事態は急展開する。台湾総督府は縦貫鉄道を民営でなく官設とすると決定し、予算案を議会に提出して賛同を得ていた。予算成立が可能と考えた後藤は鉄道作業局長官の松本荘一郎に、縦貫鉄道建設を任せられる技師長の推薦を依頼した。その結果、元日本鉄道技師長の長谷川謹介が1899年4月1日、高等官2等年俸3500円の待遇で台湾へ派遣された。当時45歳の働き盛りであった。
長谷川が赴任する台湾は領有して5年目で、鉄道の管轄は軍隊から民政局へ移管されて3年目になっていた。しかし、武装勢力や先住民族の襲撃、さらにはマラリアなどの風土病がまん延しており、台湾へ行くというと「大きな借金ができたのか」と心配されたのだった。だが長谷川には台湾行きを選ぶ理由があった。現在の東北本線などを建設、運営していた日本初の私鉄である日本鉄道の建設課が廃止され、数十人の部下と共に働く場所を失いかけていたのだ。
長谷川は1855年に現在の山口県山陽小野田市で生まれ、少年時代には両親を嘆かせる勉強嫌いでやんちゃな子供だったという。大阪の造幣局にいた兄の為治が心配して呼び寄せ、英語などを学ばせると語学が上達した。やがて新橋横浜間に日本初の鉄道を敷設した鉄道庁長官の井上勝の目に留まる。官設鉄道の管轄機関である鉄道寮へ入り、お雇い外国人の通訳をしながら測量を手伝った。その後、トンネル工事の機械化の先駆的事業「柳ケ瀬隧道」の掘削や、当時の日本で最長の鉄橋「天竜川橋梁」の架橋などを指揮し、井上勝の秘蔵っ子として名を高めていった。
一大プロジェクトに後藤新平から「指名」される
後藤は「鉄道国営政策」に基づいて、北部の基隆から南部の高雄(当時は打狗)まで総延長405キロに及ぶ本格的な台湾縦貫鉄道の建設を決めた。1899年以降10カ年継続事業として2880万円の予算を組み、後藤はこの一大プロジェクト実現のために長谷川を起用したのである。
渡台した長谷川は臨時台湾鉄道敷設部技師長に任命され、やがて台湾総督府鉄道部技師長、さらには鉄道部長を歴任する。長谷川の鉄道建設の基本理念は「1メートルでも先へ、1日でも早く、できるだけ収入を」というものであった。このやり方を「速成延長主義」と陰口をたたく者もいたが、長谷川は信念の人であり「結果良ければ全て良し」をモットーとした。後藤も「自分は台湾鉄道部創設から台湾を去るまで台湾鉄道部長の職にあったが、それはただ名義だけの部長で鉄道のことは長谷川君に一任して判を押していたに過ぎない」と語り、児玉が後藤に全幅の信頼をおいていたように、後藤も長谷川に絶大なる信頼を寄せていた。
勾配を緩くし輸送力をアップ
長谷川には大きな課題が2つあった。1つはどこに、どのような線路を敷くかということだった。赴任してすぐ、線路を選定するため、実地視察した。基隆-台北間の改良工事では最小曲線半径が80メートルだったのを240メートルに変更し、1/20勾配を1/60勾配にするために、これまで巨額の資金をつぎ込んでいた路線を放棄し、新しい路線を決定した(注:曲線は半径が大きいほど緩やかで、勾配は分母が大きいほど斜度が小さい)。
台北以南でも地形が厳しい苗粟-台中間だけは1/40勾配としたが、平均勾配を1/60勾配とした。台中-高雄間にいたっては1/100という緩い勾配にした。これによって速度も輸送力も格段に向上する。
さらに、防衛上の必要から、海岸線を極力避けた。この路線決定という課題は、それまでの知識と経験で克服できた。しかし、台湾における鉄道資材の調達については、未知の世界であった。台湾島内で調達できないため、日本からの移入に頼らざるを得なかった。上京して購入した建設資材は、機関車、客貨車、レール等をはじめ、材木、石材、セメント、石炭等に至るまでおよそ8000トンにもなった。これを台湾へ輸送するには2000から4000トン級の船が3隻は必要だった。
実力を結集
ところが総督府による官営事業だったにもかかわらず、輸送業者が二の足を踏んで決まらない。台湾航路を未経験の海運業者が多く、陸揚港の基隆や高雄の港は整備されていないため船会社が嫌がったのである。やむなく総督府直営として輸送を開始し、南洋丸、東英丸、台湾丸の3隻を雇い入れた。港湾が未整備で荷揚げも難航したが、傭船料が1カ月9000円で、1日延びるごとに何百円もの追加費用がかかるため、悠長なことは言っておれない。長谷川のもとには、日本内地から連れてきた子飼いの部下のほかに、先任者や新任者がいる状態であったが、実力主義で部下を育てた。技術力と器量を重視したため、45歳の長谷川の部下には、30代や20代の新進気鋭の若者が多く残っていた。
縦貫鉄道工事は大きく4ブロックに分けて実施された。基隆-新竹間の「北部改良線」、新竹-豊原間の「北部新線」、高雄-濁水溪間の「南部新線」、濁水溪-豊原間の「中部線」である。
まず1899年5月に「北部改良線」を起工した。旧路線を使ったのはわずか8キロ余に過ぎず、1902年3月には101.3キロの全線が開業した。長谷川が赴任して3年後のことである。その工期の短さに後藤をうならせ誰もが驚嘆するほどの早さであった。
一方、高雄-濁水溪間150キロの「南部新線」、濁水渓-豊原間の約72キロの「中部線」工事も1908年4月に竣工(しゅんこう)し、起工以来5年の歳月をかけて難工事を終えた。台湾縦貫鉄道最後の全工事が、終わったのである。「北部新線」とあわせて基隆-高雄間約405キロ全線が開通した。
鉄道ホテルも建設
1908年10月24日には、台中公園において全通式を行うことになっていた。来賓は日本内地の招待者を含め1000人が予定されていた。ところが、来賓をもてなすホテルがないことを知った長谷川は、台北駅前の3000坪ほどの土地に延べ620坪余りの3層階ホテルを建築することを計画した。鉄道予算外の費用であったが、総督府技師の野村一郎と鉄道部技師の福島克巳に設計を依頼し、全通式までに間に合わせる予定で1907年6月に起工した。
工事は遅れに遅れたが10月20日、英国風のホテルが落成した。全通式の4日前のことであった。このホテルは帝国ホテルに勝るとも劣らないと言われていたが、残念ながら戦時中の空襲で破壊され現存していない。工事が終わってみると工期を約1年、経費を130万円も節約した上に、予定外の鉄道ホテルまで造った長谷川の一大事業は終わった。工事の完成を見届けた長谷川は、総督府を辞任し日本内地で鉄道院に籍を置き、最後は鉄道院副総裁まで務めた。
台湾の近代化に貢献した縦貫鉄道は、現在も在来線として使われ、台湾人の生活に寄与している。「台湾鉄道の父」とたたえられた長谷川の銅像は、旧台北駅前に建置されていたが、現在は鉄道ホテル同様に現存していない。
バナー写真=台湾苗栗市鉄道博物館に保存されているDT561テンダー型蒸気機関車(Masa / PIXTA)