「二刀流」大谷翔平の源流(下):「原石」に磨きをかけた花巻東高恩師の指導
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大谷の指導に活きた菊池雄星のデータ
いずれは160キロが出るよ――。
15歳の大谷翔平がそう語りかけられたのは、彼が高校に入学して間もない頃だった。岩手県の花巻東高校野球部を率いる佐々木洋監督の言葉を初めて耳にした時は、現実味がなかった。後に大谷はこう振り返る。
「最初は、160キロは無理な数字なんじゃないかと思っていました。ただ、周りの方々にずっと『いける』と言われていましたし、体を管理してくださるトレーナーさんにもそう言われていたので、いつしか勝手に160キロは『いけるのかな』と、その気になっていましたね」
花巻東高校に入学した頃の大谷は、すでに身長が190センチ近かった。ただ、体の線は、まるでマッチ棒のように細い。体重は63キロほどしかなく、ウエイトトレーニングをすれば、20キロのバーベルシャフトを持っただけでもフラフラしてしまう。発展途上の体躯(たいく)だった。
だが逆に、十分な筋力と体力がまだついていない状況で、ひとたびマウンドに立てば、140キロに迫るスピードボールを投げるポテンシャルの高さに、周囲の大人たちは驚くとともに、底知れぬ「可能性」を感じずにはいられなかった。
「160キロ」という数字について、かつて佐々木監督はこう話したことがある。
「大谷が育っていった理由の一つに、菊池雄星の存在がありました。我々としては雄星という参考書で大谷を育てることができました。雄星は体重が20キロ増す中で、スピードが20キロ増した。これぐらいの筋力がついたら、これだけのスピードになるというザックリとした計算ではありましたが、大谷の秘めた能力を考えれば、いずれは160キロを出すと思えたんです」
確信していた球速160キロ
2021年のメジャーリーグのオールスターゲームで、同郷で同高校出身である大谷と菊池が選出されて日本で話題となった。大谷にとって3歳年上の菊池は、花巻東高校の先輩にあたる。菊池は09年春の選抜高校野球大会でチームを準優勝に導き、同年夏の甲子園では当時の左腕としての甲子園最速となる154キロを記録した。その彼の卒業と入れ違いで花巻東高校に入学したのが大谷だった。
二人が岩手のグラウンドで同じ時間を共有することはなかったが、両者が連なって花巻東高校の紫色のユニフォームに袖を通したことは大きな意味合いを持つ。佐々木監督の立場で言えば、菊池を指導したノウハウが明確なものとして蓄積され、その熱量が薄れることなく、記憶に鮮明に残ったまま大谷と出会えたことは幸運だった。もしかしたら、それは偶然のようで、必然の出会いだったのかもしれない。
大谷の入学直後に、佐々木監督は夢物語を語ったわけではない。決していい加減な目標ではなく、それまでの経験値も含めて「160キロが出る」と、佐々木監督は確信していたのだ。
そのためにも、大谷には「雄星さんのようになりたい」「〇〇みたいになりたい」という発想ではなく、それまでの常識にとらわれない「〇〇を超えたい」というマインドを持つ必要性を佐々木監督は説き続けた。
≪実際に成功した人の足跡をたどる以外に、確実に成長する方法はない≫
それは佐々木監督が大谷に投げ掛けた言葉の一つだが、無論、その言葉に偽りはない。先人が刻んだ歩みを敬い、その足跡をたどることが成功への近道である。ただ、その成功法に加えて、新たな発想力を持つことを佐々木監督は伝え続けた。
「目標達成表」に書いた思い
具体的な数値をはっきりとイメージすることで、人は目指すべき場所が明確となり、その定めたものに向かって突き進める。佐々木監督は「ピッチャーとしての大谷にとって、160キロという数値が大きな目標になったと思うし、その目標自体が大谷を引っ張ってくれたと思う」と語ったことがある。そして、こう言葉を加えるのだ。
「目標には数字がないといけないし、計画がセットされていないと目標とは言えない。だから、子供たちには数字やライバルといった具体的な目標を持たせ、それを達成するための計画を立てるように言い続けています」
花巻東高校野球部には具体的な目標を一枚の用紙に書き込む「目標達成表」というものがある。一般企業が取り入れている人材育成のシステムやビジネス書を参考に、佐々木監督が独自に作り出したものであり、すべての選手が書き記すものだ。
これまで多くのメディアでも紹介されてきたものだが、正方形の枠を大きく九つに分け、その1マスをさらに9分割した「目標設定シート」とも呼ばれる用紙には、大きな目標、そしてその目標を実現するために必要だと思う要素を細かく記入する。
用紙の真ん中に書かれた事柄が、その選手の大きな柱となる目標。要するに自らが思い浮かべる「将来の自分」になるのだが、大谷が高校1年冬に書いた目標設定シートの中央には「ドラ1 8球団」と記されている。プロ野球のドラフト会議で8球団から1位指名される選手になることを目標に掲げた。
そのために必要な要素として、「キレ」「コントロール」「変化球」「体づくり」「メンタル」「人間性」「運」の言葉を並べた。また、目標を実現するために「スピード 160キロ」という要素も加えた。佐々木監督の回想だ。
「私の経験上、たとえば160キロという目標にすると、実際には158キロぐらいにしかならない。もちろん、掲げた目標をそのまま達成することもありますが、多くは目指したものよりも、ちょっと下の地点にたどり着く。だから、後になって思ったんですよね。160キロではなく163キロを目指しなさいと言うべきだったと……。でも、大谷は私が言うまでもなく、分かっていました。私が改めて“163キロ”と伝える前に、すでにその数字を書き込んだ用紙を、ウエイトルームに貼っていたんです。それには、ビックリしましたね」
慎重に練られた育成プラン
高校野球の約2年半というスパンを見据えて、大谷の育成プランが慎重に練られた事実がある。体が成長曲線を描き続け、筋力や体力が未熟だった高校1年の時点では、けがの予防のためにも体に過度な負荷はかけられなかった。トレーニングや試合での起用法に、佐々木監督は細心の注意を払った。
本音を言えば、秘めたポテンシャルを目の当たりにすれば、喉から手が出るほどに、すぐにでもピッチャーとして起用したかった。だが、1年夏までは試合でのピッチングを封印して野手としての出場に限定した。佐々木監督は言うのだ。
「手足が長く、特にリーチの長さはスピードボールを投げるための絶対条件。また、関節の可動域の広さ、股関節や肩甲骨の柔らかさといった親御さんから授かった要素も、大谷はもともと持っていました。それだけに、入学直後でも試合で投げれば、ある程度の結果は付いてきたと思います。でも、1年の夏前まではピッチャーとして使わなかった」
成長という階段を一歩一歩、確かな歩みと共に上がる。体とピッチャーとしての成長、そして人間的な成長が「それぞれにゆっくりとした曲線を描きながら上がっていくように、まずは体と心の育成をじっくりやっていこうと決めた」と佐々木監督は振り返る。2年夏の岩手県大会直前に骨端(こったん)線損傷という高校時代で唯一最大のけがに直面した時も、将来を見据えて大谷の体と心に寄り添った。
「大谷のゴールはここではない」。翌年までピッチングを封印した。その流れの中で迎えた2012年7月、高校3年夏の岩手県大会で大谷は自身が追い求めた球速である160キロを出した。それまでの常識が覆った当時のアマチュア最速記録に、誰もが驚きを隠せなかった。
もちろん、そのスピード自体にも大きな価値はあった。ただ、たどり着くまでの過程こそが、大谷にとっての本物の価値だったと言えるだろう。佐々木監督との出会いによって引き上げられた思考や感性。大谷翔平のマインドが磨かれていった高校時代は多くの学びがあり、濃密な空気に包まれていた。メジャーリーガーとして輝き続ける「SHOHEI OHTANI」の礎(いしずえ)が築かれた時間が、そこにはあった。
『道ひらく、海わたる~大谷翔平の素顔』
佐々木亨著
発行:扶桑社
文庫判:317ページ
価格:968円(税込み)
発行日:2020年3月26日
ISBN: 978-4-59-408441-7
バナー写真:大リーグ初対戦となった大谷翔平(右)とマリナーズの菊池雄星(左)=2019年6月8日、エンゼル・スタジアム 共同
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