デザイナー・コシノジュンコ、盟友の高田賢三を語る
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深夜に届いた突然の訃報
コシノジュンコと高田賢三が最後に会ったのは、2020年2月だった。新型コロナウイルスの脅威が世界を覆い始める少し前、コシノはパリに出向いていた。
「ケンちゃんとは、毎年2回くらい会っていました。最後に会った店は、パリには珍しい、おいしいイタリアン。会員制の店だけど、彼が紹介してくれて、私も常連になりました。彼は、昔から私がパリに行くと、その時々の話題の店、流行っている店に連れて行ってくれるんです。そういうおもてなしの心を持っている人でした。食事を楽しみながら、最近彼がやっているインテリアデザインの仕事を見せてもらいました。私も最近日本のホテルのインテリアデザインをしているので、今度日本で一緒にやろうよという話で盛り上がりました」
突然の訃報が届いたのは、その楽しい夜から8カ月後。10月5日(日本時間)の深夜だった。
「1時頃、そろそろ寝ようかなという時に知り合いからの電話で彼の死を知りました。9月に電話で話した時、少し体調が悪そうでしたが、まさかそこまでとは思っていなかった。嘘でしょ。そんなはずはない……。コロナ禍でなければ、すぐにでもパリに飛んで行ったと思います」
文化服装学院伝説の「花の9期生」
二人の出会いは、1959年までさかのぼる。18歳のコシノと19歳の高田は、東京の文化服装学院の同級生として出会った。
「ケンちゃんは、高校の時の学生服を着て、太い黒縁の眼鏡をかけていた。とてもファッションを学んでいるとは思えない素朴な雰囲気の学生でした。当時の文化服装学院には、本気でプロを目指している学生は少なかった。そういう点で、本気だった私とケンちゃん、それから松田くん(松田光弘、「NICOLE」デザイナー)、金子くん(金子功、「PINK HOUSE」デザイナー)は、すぐに意気投合しました。学校の内でも外でもいつも一緒。ジャズ喫茶に入り浸ったり、映画や歌舞伎を観に行ったり、お互いの家に行って映画や音楽、文学について朝まで語り合ったり。あの頃ケンちゃんは、線路脇のアパートに住んでいました。電車が通るたびにすごい音と振動に襲われる部屋(笑)。その分家賃は安かったみたいですけどね」
後に彼ら4人は、文化服装学院の“花の9期生”と呼ばれ、日本のファッション界をリードする存在になる。その礎を作ったのは、当時同学院で教壇に立っていた小池千枝(元文化服装学院名誉学院長)だった。パリでイブ・サンローランやカール・ラガーフェルドと机を並べていた彼女は、コシノや高田に“最新かつ本物”のファッションを教えた。
「その頃日本の洋服のデザインは和服と同じように平面でやっていたんです。でも小池先生は、トルソー(頭や手足のない胴体標本)に布を巻きつける立体裁断を教えてくれました。布とはさみとピンだけで服を作ることができるというのは、当時の私たちにとっては画期的なことでした。朝一番にフランスのファッション誌を解説する“モーニングサービス”もすごく楽しかった。私たちがフランスやパリに強い憧れを抱くようになったのも、あの小池先生の授業を受けていたからなんです」
当時の日本は、高度経済成長の真っただ中。それでも学生たちの生活は、質素なものだった。
「みんな音楽が好きで1枚のレコードを買って、顔を寄せ合って聴いたりしていましたね。その頃、ケンちゃんとおそろいのステレオを買ったんですよ。1万3000円の10回払いで。でもあるとき、ケンちゃんの家に遊びに行ったら、ステレオのスピーカーがない。どうしたの? って聞いたら、『お金がなかったから質に入れた』と(笑)。たった1300円が払えない時代もあったんです」
コシノの「後続ランナー」だったKENZO
そんな生活の中にあっても、彼らは、未来を見据えていた。4人はただ一緒に遊んでいただけではない。
「月1回は、みんなでデザイン画を持ち寄って、アパレル会社や有名デザイナーの所を訪ねて、批評してもらうということを続けていました。自分たちで企業を回って資金を集めて、4人で自前のファッションショーを開催したこともあります。怖いものなんて何もなかった。とにかく前に向かって行動、挑戦するのが当たり前だと思っていました」
4人の中で最初に頭角を現したのは、コシノだった。1960年前期に若手デザイナーの登竜門と呼ばれる「装苑賞」を史上最年少で受賞、一躍注目を浴びることになる。このコシノの活躍に強い刺激を受けたのが高田だった。盟友の受賞に奮起した彼は、同年後期に「装苑賞」を受賞することになる。
「ケンちゃんは、いつも私の後を追い掛けてくる(笑)。装苑賞の時もそうだったし、パリに行ったのもそう。64年に私が初めてパリに行って、帰ったらその話ばかりしていたものだから、彼も行きたいと言い出した。でも当時、パリに行くには30万円くらいかかった。私はそれなりに稼いでいたけど、サラリーマンだったケンちゃんの月給は2万円くらいではなかったかな。そうしたら、彼が住んでいたアパートが建て替えることになって、立ち退き料をもらえた。そのお金を使って、彼も年末にパリに行くことになったんです。帰りの渡航費はなかったように思います。本当に片道切符。まさかそのままフランスに骨を埋めることになるとは、思ってもみませんでした」
わがことのようにうれしかったパリでの成功
彼らの絆は、高田がパリで暮らすようになってからも変わることはなかった。
「パリに行った最初の頃は、デザイン画を売っていたようですね。学生の時と同じように批評してもらうつもりで、ブティックや雑誌の編集部に持ち込んだら、そのまま買い取ってもらえたと。よく『学生時代の経験が役に立った』と語っていました。そうやって持ち込んでいたデザイン画が評判となって、彼も店を出すことになった。私も懸命に応援しました。自分のスタッフをパリに送り、開店資金も出しました。店がうまくいかなくても、しばらくは応援しようと思っていたんです。でも最初のコレクションが評判になり、そんな必要もなくなった。あの時は、私も自分のことのようにうれしかったですね」
1970年、パリのギャルリ・ヴィヴィエンヌにオープンしたその店、“ジャングル・ジャップ”の初コレクションは大成功を収め、高田賢三の名はファッション界に広く知れ渡ることになる。彼の成功の理由をコシノはこう分析する。
「日本にいた頃の彼は、周りのみんなと同じように西洋のファッションに憧れていました。でも日本を離れたことで、日本の良さに気付いたんだと思います。日本の織物に用いられる花柄などを大胆に使ったファッションを提案。あえて立体裁断ではなく、日本らしい平面裁断でデザインをしていました。そうやって作られた服がパリの人にはエキゾチックに見えたんでしょう」
もう一つ彼の強みは、“仕立て屋”の出身じゃなかったことだという。
「それまでのファッション界はオートクチュール(デザイナーが顧客のために完全オリジナル衣装をデザインするもの)がメインの世界。イブ・サンローランにしてもカール・ラガーフェルドにしても、メゾンクチュールの仕立て屋の発想でした。そんな時代に彼は、自由で着やすい、庶民のファッションを提案した。プレタポルテ(高級既製服)のトップランナーだったんです。彼の新しい服作りは、それまでファッションと縁がなかった人たちも巻き込むことになっていったのだと思います」
家族ぐるみの付き合い
二人の交流は、その後もずっと続いた。コシノがパリに行った時は高田の家に泊まり、高田が日本に帰ってくると、コシノは家族ぐるみでもてなした。
「どんなに成功しても、有名になっても、ケンちゃんは謙虚で威張らない。そんな彼だからみんなに愛されていたし、彼もそんな友人たちを大切にした。経営面で苦労していたし、失敗もした。それでも彼はいつも笑顔で自由に生きていました。まるで映画の主人公みたいだなと思います」
高田は、80歳を超えても「チャーミングだった」とコシノは語る。
「彼は歳を重ねるほどハンサムになっていった。私たちはきっと一緒に老けるから、お互い美しさをキープしようって話していたんです。そんな彼がいなくなってしまった。ケンちゃんは私にとって、きょうだい以上にきょうだい。家族以上に家族。同業者やライバルという感覚もない。一緒に学び、遊び、成長してきた。一緒に旅もしたし、ばかもやった。彼が大切な人を亡くした時、一晩黙って一緒にいたこともあります」
この60年間の思い出を数え上げればきりがないという。
「でもコロナのせいで、さようならを伝えることもできなかった。だから彼がいないことを、まだどこかで受け入れられずにいるんです。でも一つ救いになったのは、マクロン仏大統領夫妻が『ケンゾーは、陽気で、鮮やかで、華あるエレガンスそのもの』と追悼の意を表明したり、パリのイタルゴ市長も『パリは今日、私たちの息子の死を悼む』と声明を出してくれたこと。ケンちゃん、すごいなあ、憧れだったフランスやパリにこんなに愛されていたんだなあって。それが彼にとっては何よりの勲章になると思いました」
現在のプレタポルテの隆盛を思えば、高田賢三の功績の大きさが分かる。彼がいたからこそ、現代を生きる私たちはファッションを思い思いに、自由に楽しむことができるのだ。彼の名は、永遠にファッション史に刻まれることになるに違いない。(敬称略)
バナー写真:セブン&アイのプライベートブランド「セットプルミエ」の販売記念記者会見で乾杯するデザイナーの高田賢三さん(右)とコシノジュンコさん 共同