大谷翔平の活躍で脚光当たる「元祖二刀流」の台湾人選手、呉昌征のすごさ
国際・海外 スポーツ 文化- English
- 日本語
- 简体字
- 繁體字
- Français
- Español
- العربية
- Русский
二刀流でノーヒットノーラン達成
あまりの俊足ぶりから「人間機関車」の異名を持っていた呉昌征。映画『KANO』で知られる台湾の嘉義(かぎ)農林学校を卒業して巨人に入団し、左投げ左打ちの俊足巧打で1年目から中堅手のレギュラーになり、1944年に阪神に移籍した。戦後は阪神、そして、毎日オリオンズ(現千葉ロッテ)でもプレーした。プロ野球歴は通算20年に達した。
呉昌征の本職は野手で、生涯成績は1700試合に出場し、安打数1326本、平均打率2割7分2厘、盗塁381回。一方、投手成績は通算15勝7敗。投手として最も輝いたのが、戦後まもない46年のシーズンだった。
呉昌征は、同年6月16日に西宮球場で行われた対セネタース(現日本ハム)戦で、ノーヒットノーランを記録した。30人の打者に無安打5四死球での達成だった。その様子は、阪神の球団史『阪神タイガース 昭和の歩み』に記されている。
「呉は元来物おじしないたちだし、人を食ったところがあって、次第に焦りの加わるセネタース打線を巧みにいなし(中略)呉の投球数は122、外野へとんだ飛球は5本、四番の大下弘を二ゴロとふたつの三振に打ち取り、セネタースのエース白木義一郎に堂々投げ勝った」
この年は勝ち星14勝を挙げ、防御率も3.02。打撃の方も101試合に出場して113本の安打を放ち、打率2割9分1厘の好成績を残した(本塁打は1本)。
二刀流については『週刊ベースボール』(1963年8月11日号)で引退後の呉昌征自身が回想している。
「当時の監督の藤村君が、わしも半分手伝うよなんていってね……ハハハ。それからはセンターやったり、センターから呼ばれて二、三球投げてすぐプレーボールだ。無茶な話だ」
終戦直後の選手不足の中での活躍だったのは確かだが、それでも14勝6敗は容易に達成できる成績ではない。強肩を生かし、鋭い球威と正確なコントロールを見せたようだ。
「裸足の人間機関車」
1916年、日本統治下の台湾・台南の小さな街・橋仔頭で呉昌征は生まれた。父親は台湾製糖工場の社員で、8人きょうだいの次男だった。嘉義農林に入学し、31年の夏の甲子園で準優勝する。他にも夏と春、一度ずつ甲子園に出た。
呉昌征のニックネームがもともと「裸足の人間機関車」だったことを知る人は少ない。甲子園大会に出場した時、足にマメができてスパイクを脱いで練習をしていたので、メディアから「裸足の人間機関車」と呼ばれたのだ。後に巨人のチームメートとなる千葉茂は、35年の甲子園大会で呉昌征を見た時の衝撃を、著書『巨人軍の男たち』でこう述べている。
「この大会ではヒットで一塁に出るとピッチャーが3球投げる間に3回盗塁して本塁へ帰ってしまった。この時の新聞に『甲子園は涼しかった』という呉の談話が載っとって、化け物みたいなヤツやと二度びっくりさせられました」
巨人か早稲田かで悩む
卒業後は早稲田大学への進学に一時は傾いた。嘉義農林の先輩の吳明捷選手が早大で活躍していたからだ。一方、プロ野球の名門、巨人からも強力な勧誘があった。巨人監督の藤本定義は、呉昌征にとって嘉義農林野球部の近藤兵太郎監督を経由してアプローチをかけた。藤本は松山商の指導者時代の近藤の下でプレーした間柄である。
呉昌征は悩んだ末、家族の生活を支えるため、巨人を選ぶ。契約金800円、月給120円の契約を結んだ。当時、台湾製糖での初任給が一般級で月給20円だったから、呉昌征の能力が巨人から高く評価されていたことがうかがえる。
入団した時期の巨人は沢村栄治、スタルヒン、三冠王の中島治康、水原茂、川上哲治などが活躍する黄金時代を迎えようとしていた。その中で俊足巧打の呉昌征はすぐに中堅手のレギュラーとなり、打率でもリーグトップ10の常連となった。
前出の千葉は、セカンドとして呉昌征と共に巨人のセンターラインを担ったが、「味方としては俊足と鉄砲肩でよう助けられた。二塁からの走者を正確にバックホームで刺したのは神技みたいやった」と回想する。
「球界一の中堅手」
呉昌征は、100メートル11秒台の快足で盗塁王になり、遠投100メートルの強肩、首位打者を二度獲得したシュアな打撃、さらに投手としての「投」が加わって「四拍子」そろった選手だった。実際、体格はそれほど恵まれていたわけではなく、身長は167センチだったが、がっしりと鍛え上げられた体格をしていた。
1942年の雑誌『野球界』は、「現在の日本球界随一の三名中堅手」を挙げており、その中でも「なんといっても呉が第一人者」と書いている。
呉昌征は、首位打者と最優秀選手賞を獲得した43年、台湾への帰郷を決意して巨人を退団する。ところが日台航路が米潜水艦の攻撃で危険になり、日本にとどまって阪神に入団する。プロ野球が中止になった45年は、嘉義農林で農業を学んだ経験を生かし、甲子園球場の外野グラウンドを芋畑に作り変える現場監督を務めた。
性格も謙虚で親しみやすく、チームメートから好かれていて、46年に復活したプロ野球で東西対抗戦が行われた時、東軍の巨人の元同僚と、西軍の阪神の同僚との間で、呉昌征がどっちのチームに入るかで取り合いが起きたと、当時の新聞に報じられている。
三つの名前
呉昌征の生来の名前は呉波で、1944年に呉昌征に変更している。戦後、日本人女性と結婚して、帰化して石井姓になった。呉波から呉昌征への変更理由については、東京在住の呉昌征の長男、石井昌博さんは「母も知らなかったようでした。台湾のことはほとんど家では話さなかったですね」と語る。
引退後、呉昌征はスカウトを経て、自ら事業を手がけたが、人の良さからだまされて失敗することも多かった。転んで負傷してから体が弱くなり、70歳で亡くなった。
父親としての呉昌征について、石井さんはこう語る。
「小学校の時はよくキャッチボールをやってもらいました。子煩悩(ぼんのう)で料理が得意で、いろいろなものを作ってくれ、孫たちの面倒もよくみてくれました。右足の甲に大きなタコがあり、戦争中に子供を助けた際に銃弾が当たった跡だと言ったことを今でも覚えています」
石井さんは、2013年、生まれて初めて台湾を訪れた。驚いたのは父の知名度の高さだった。
「日本では野球がよっぽど好きな人以外は父のことを知らないと思いますが、台湾ではかなりの人が覚えていて、すごいことだと思いました。一部の地域では王貞治さんより父のほうが有名なぐらいだと言われました。日本では感じていなかった父の偉大さを台湾に行って初めて感じました」
日台で「殿堂」入り、伝記も出版
2010年には、在野の歴史研究家、岡本博史さんが小説版伝記『人間機関車・呉昌征』を、電子書籍のかたちで自費出版した。岡本さんは執筆の動機について、こう語る。
「終戦後に小学校でメンコ遊びをしていたとき、呉昌征の写真がプリントされたメンコがありました。当時の阪神は呉昌征、金田正泰、別当薫、藤村富美男、土井垣武というダイナマイト打線。私は阪神ファンで呉昌征という変わった名前が記憶に強く残っていたのです」
そんな岡本さんがある時、台湾の嘉義を訪れると、繁華街のロータリーに野球選手の銅像があった。てっきり呉昌征の銅像かと思ったら、同じ嘉義農林で活躍した吳明捷の銅像だった。同じ呉姓でも、甲子園で準優勝投手になった吳明捷ほどには呉昌征のことが広く知られていないことに衝撃を受け、本を書くことにしたという。
呉昌征は1987年に亡くなり、95年にようやく日本の野球殿堂入りを果たす。野球殿堂入りが遅れた理由について、岡本さんは「台湾出身であることの差別というより、野球関係者から運悪く忘れられていたのではないか」と指摘する。
18年には故郷・台湾の野球殿堂にあたる「台湾棒球名人堂」の一員にも選ばれた。巨人、阪神、毎日で、背番号23を常に背負い続けた呉昌征は「二刀流」にとどまらず、多くの記録を野球史に刻んでいる。
1942年、1943年 史上初の2年連続首位打者を獲得
1943年 当時のプロ野球記録の29連続盗塁成功、MVPに選ばれる
1946年 戦後初のノーヒットノーラン
1957年 現役引退、実働20年超えを初めてプロ野球選手として達成
呉昌征に対する関心は、大谷の二刀流の成功もあって今後さらに高まるかもしれない。呉昌征のすごさと日本野球への貢献はもっと世に広く知られるべき話である。
バナー及び本文中の呉昌征氏の写真は、全て長男の石井昌博さん提供