台湾を変えた日本人シリーズ:教育制度の礎を創った伊沢修二

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日本人にとってなじみ深い「仰げば尊し」は台湾の学校卒業式でも歌われている。この歌を日本に紹介した明治の教育家・伊沢修二は、台湾の近代教育の普及に貢献した人物だ。伊沢は日本の台湾領有初期に教育の重要性を説き、自ら台湾に渡って学校の設置などに尽力。その教育への熱意は、台湾最初の学校の建立地の地名にちなんで「芝山厳精神」と呼ばれている。

広がる「芝山巌精神」

台湾に戻った伊沢は精力的に事業に取り組むが、総督府の上司と予算面等で意見が合わなくなり、2年余りで後ろ髪を引かれる思いで台湾を去った。その後、伊沢がまいた種は徐々に実を結び、日本人教師の教育に対する情熱は「芝山巌精神」として語り継がれるようになった。

1930年には芝山巌神社が創建され、1933年までに台湾人教育者24人を含む、台湾教育に殉じた330人が祭られた。また芝山巌事件で殉職した6人の教師を「六氏先生」と呼び、「六氏先生の歌」がつくられ、尊崇の念を持つようになっていった。時の首相・伊藤博文の揮毫(きごう)による「学務官僚遭難之碑」も建てられるなど、その精神は台湾の学校教育の原点となっていった。

伊沢が台湾で始めた教育は急速に発展し、国語伝習所は「師範学校」へと改称され、やがて台湾人のための小学校である「公学校」が設置されていく。さらには中学校、高等学校、台北帝国大学までもが完備され、台湾の近代化に大きく寄与した。まさに伊沢は「台湾教育の礎を創った教育者」といっても過言ではない。

内地に帰った伊沢は1897年には貴族院勅選議員になり、晩年には高等教育会議議員を務めたほか、吃音矯正事業にも力を入れた。1917年、脳出血のため67歳で死去した。

破壊された「遭難之碑」が復活

六氏先生に関しては後日談がある。戦後、台湾に来た蒋介石率いる国民党は、日本時代の神社や銅像、それに記念碑や日本人墓地までも破壊し、日本の痕跡を消し去ろうとした。当然「学務官僚遭難之碑」も倒され、そのまま放置されていた。

しかし、李登輝が総統になり台北市長には次代の総統になる陳水扁が就任、台湾の民主化が進む中で、六氏先生の精神を復権する動きも高まった。芝山巌学堂が開学して100周年に当たる1995年、祝賀式典が盛大に執り行われ、日本からも卒業生や遺族らが参加した。「学務官僚遭難之碑」が修復され、「六氏先生之墓」も建て直された。

新しい墓は日本式の簡素な墓である。墓石には「六氏先生之墓」とだけ書かれ、氏名も業績を示す墓誌もない。しかし、伊沢の導きで台湾に渡った「六氏先生」の精神は、今日の台湾教育の中でしっかりと実を結んでいる。

バナー写真=伊沢修二の生家(伊那市教育委員会提供)

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