台湾を変えた日本人シリーズ:教育制度の礎を創った伊沢修二

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古川 勝三 【Profile】

日本人にとってなじみ深い「仰げば尊し」は台湾の学校卒業式でも歌われている。この歌を日本に紹介した明治の教育家・伊沢修二は、台湾の近代教育の普及に貢献した人物だ。伊沢は日本の台湾領有初期に教育の重要性を説き、自ら台湾に渡って学校の設置などに尽力。その教育への熱意は、台湾最初の学校の建立地の地名にちなんで「芝山厳精神」と呼ばれている。

台湾教育の重要性を説く

1895年、下関条約によって台湾を領有した明治政府は初めて手に入れた新領土の経営方法を模索していた。台湾は風土病のまん延、アヘン吸引の悪習、武装勢力の襲撃、先住民族の抵抗と四重苦に見舞われる島であった。当時、44歳になっていた伊沢は初代台湾総督の樺山資紀に会いに行き、現地での教育の重要性について持論を述べたところ、樺山は「それを君がやってくれ」と答え、伊沢を台湾総督府民政局学務部長心得に抜てきした。

同年5月17日、伊沢は志ある教師7人を伴い台北に赴任。6月17日の台湾総督府設置から間もない28日には台北市北部の芝山巌(しざんがん)に学堂を開設、台湾での日本語教育を開始した。

この学校には6人の台湾の若者が教師になるために入学した。伊沢は「自分たちがここに来たのは、戦争をするためではない。日本国の良民とするための教育を行うためだ」と地元の長老を説いて回った成果でもあった。

帰国中に起こった悲劇

開校当時は、日本領有に反対する武装勢力がゲリラ活動を展開していたが、伊沢たちは「身に寸鉄を帯(お)びずして住民の群中に這入(はい)らねば、教育の仕事はできない」との決心でいた。さらに「もし我々が国難に殉ずることがあれば、台湾子弟に日本国民としての精神を具体的に宣示できる」と、死をも覚悟して授業を続けた。生徒の6人は、4カ月もすると日本語が理解できるほど優秀だった。授業が軌道に乗ったのを見届けた伊沢が、教師補充のために一時帰国した最中に悲劇が起こった。

1896年元旦を期して武装勢力が台北を攻撃するとのうわさが立ち、地元住民は学堂に残っていた6人の教師に避難を勧めたが、「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」との覚悟を示した。教師らは総督府に年賀のあいさつに向かう途上、100人近い武装勢力の襲撃を受け、全員が首を切り落とされた。

「芝山巌事件」と呼ばれた凄惨(せいさん)な事件は、台湾島内のみならず日本内地にも大きな衝撃を与えた。教員補充に800人もの応募があったが、事件が報じられると、大量の辞退者が出て残ったのは45人だけだった。伊沢は台湾での教育を止める気持ちはなく、伊沢とともに台湾に渡ることになった教師達も「たとえどのような危険が待ち受けていようと、台湾の教育に命をかけよう」と覚悟を決めていた。

この45人は、1896年6月には台湾に渡り、約2カ月かけて台湾語を習得し、台湾全島14カ所に設置された「国語伝習所」の教諭となって各地に赴任した。15歳以上30歳以下の甲科と、8歳以上15歳以下の乙科があり、前者は日本語のできる官吏を育成し、後者は未来の台湾を担う人材を育てた。

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古川 勝三FURUKAWA Katsumi経歴・執筆一覧を見る

1944年愛媛県宇和島市生まれ。中学校教諭として教職の道をあゆみ、1980年文部省海外派遣教師として、台湾高雄日本人学校で3年間勤務。「台湾の歩んだ道 -歴史と原住民族-」「台湾を愛した日本人 八田與一の生涯」「日本人に知ってほしい『台湾の歴史』」「台湾を愛した日本人Ⅱ」KANO野球部名監督近藤兵太郎の生涯」などの著書がある。現在、日台友好のために全国で講演活動をするかたわら「台湾を愛した日本人Ⅲ」で磯永吉について執筆している。

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