江戸時代にあった五輪競技の原型 : 『守貞漫稿』(その13)

歴史 文化 スポーツ 東京2020

金メダルラッシュに湧いた東京五輪の熱戦も終わった。普段あまり見ない競技に触れる機会でもあった。そして、ふと考える。日本において、これらの競技はいつ始まったのだろうか? むろん海外に起源のあるスポーツも多いが、江戸時代の遊びには五輪競技と酷似したものがいくつか散見されるのだ。

杖で毬を打つ姿がホッケーに酷似

バナーの絵は、『守貞漫稿』に所収された「毬杖」(守貞は「ぎてう」または「ぎってう」と表記。辞書では「ぎっちょう」)という遊びだ。

左の少年(女子に見えるが衆童=男子)が杖(つえ / スティック)を持っている。杖の先端には、槌(つち / ハンマー)のような物が付いている。見えにくいが右から二人目の少年は頭の上に木製の毬(まり / ボール)を掲げている。転がした毬を、杖で相手陣内へ打ち込む遊びである——つまり、ホッケーだ。

毬杖図。『訓蒙図彙』(寛文6/1666年刊行の百科事典)の挿絵を守貞が模写。寛文の頃は杖が色鮮やかな色糸をまとっていたが、庶民に浸透するにつれて糸は消えていった。
毬杖図。『訓蒙図彙』(きんもうずい / 寛文6 / 1666年刊行の百科事典)の挿絵を守貞が模写。寛文の頃は杖が色鮮やかな色糸をまとっていたが、庶民に浸透するにつれて糸は消えていった。

守貞はこう記す。

「毬杖ハ、打毬(まりうち)の一変ニテ、馬上武ヲ習スノ業ナリ。『万葉集』『続日本後紀』ソノ他数書ヲ引キテ、コレ証スル。マタ打毬ヨリ変ジテ、毬杖ト称フ一種ノ玩物トナル」

もともとは「馬上武ヲ習スノ業」、つまり馬上から杖を駆使して毬を打つ「打毬」という名の競技であり、『万葉集』『続日本後紀』にも記録があるという。現在でいうポロだろう。

馬上で行う打毬は8~9世紀頃に日本に伝わり、奈良・平安時代には端午の節会の際に行われる宮中の年中行事となった。鎌倉時代以降に一度衰微したが、江戸時代になると8代将軍・徳川吉宗が騎戦を練習する武技として推奨したとされる(宮内庁HP『打毬の沿革』より)。

それが、馬に乗ることのなかった民衆によって「変ジテ、毬杖」となった。

バナーの右端の男児は、輪っかのようなものが付いた紐を手に持っている。これは「ぶりぶり」と呼ばれ、杖の代わりにこの紐を振り回して、毬を打ち込む者もいた。

綾瀬はるか主演の映画『本能寺ホテル』(2017年公開、現代の女性が戦国時代にタイムスリップするストーリー)には、当時の子どもたちが紐を振り回してボールを打つ「ぶりぶりぎっちょう」が描かれている。

守貞によると、「昔ハ、ぶりぶり及、毬杖、二物ニテ、各々真ノ弄具ナリシ」
もともとは別々の玩具だったのが、いつのまにか子どもたちが合体させ、杖とぶりぶりの両方を使うようになったらしい。

ホッケーは紀元前2000年頃、古代エジプトに起源があったことが、発掘された壁画で確認できるという。それが19世紀、イギリスにホッケー協会が設立され、スポーツとして広がった。だが、日本にも原型があった。

ちなみに毬杖では、毬は右手で転がすため杖は左手に持つ。これが「左ぎっちょ」の語源とする説もあるが、真偽は不明だ。

正月の遊びに見るスポーツの源流

江戸時代の子どもには遊びが少なかった。遊具を所有していても、使う時期はもっぱら正月に限られていた。

毬杖もそうで、「唯、祝儀ノ物トナリテ」——正月にやる遊びだったと守貞は書く。

そうした正月の遊びのひとつに「羽根つき」もある。現代でいうバドミントンだろう。

文化・文政期(1804〜1831)頃の羽子板と羽。羽子板は江戸のものを両面描いている。羽根は、上が京坂(上方)、下が江戸のもの。京坂は玉から長めの竹串が出て羽根につながっているが、江戸には竹串がない。
文化・文政期(1804〜1831)頃の羽子板と羽。羽子板は江戸のものを両面描いている。羽根は、上が京坂(上方)、下が江戸のもの。京坂は玉から長めの竹串が出て羽根につながっているが、江戸には竹串がない。

「延宝四年ノ書、『日次紀事』(ひなみきじ / 江戸前期の年中行事の解説書)正月ノ条曰、『男児撃毬杖 玩弓矢 女子動羽子木板』。又、十二月買物条ニ『毬及毬杖 羽古義板』ナリ」

12月になると子どもにねだられた親が毬、杖、羽子板を買い求め、正月は男の子が毬杖や弓矢、女の子は羽子板でもっぱら遊んだ。延宝4年(1676)には、年中行事としてこれらが定着していたことを、『日次紀事』は示唆する。

「手鞠」(てまり)も正月の年中行事だった。これは今でいうバレーボールに近い。

手鞠はラリーを競うものだった。鞠を地に落とさないように、「ひふみよ云々(しかじか)ト云ヘルハ、古キ世ヨリノコトナルベシ」と、1、2、3、4と打つ数をかぞえ、できるだけ回数を伸ばす古来からの遊びだと守貞は記す。

手鞠の様子を描いた守貞の絵。「正保比(ころ)之古図」と記されていることから、やはり何かの書物からの模写と思われる。
手鞠の様子を描いた守貞の絵。「正保比(ころ)之古図」と記されていることから、やはり何かの書物からの模写と思われる。

守貞はまた、『吾妻鏡』の貞応2(1223)年正月の条に、鎌倉幕府で手鞠会が開かれた記述があることを指摘し、その頃から流行し始めたのではないかと分析している。ただし、民衆にそれが伝播したのは「詳(つまび)ラカナラズ」、つまりわからないともいう。

ただ、正月に庶民の子どもが鞠で遊ぶ姿は、正保期(1645〜1648)にはあたりまえの光景になっていたのではないか…と。

羽根つきと手鞠は、昭和生まれの方なら遊んだ、または見たという記憶があるだろう。
羽根つきは正月の遊びとして存続していたし、小学校では、休み時間に円になってバレーボールのラリーを楽しむ子どももいた。

オトナの男の遊戯「弓矢」

もう1点紹介したいのが「弓矢」、つまりアーチェリーだ。

日本の場合は「弓道」というべきだが、弓道は武家の嗜み(たしなみ)であって、庶民が利用したのは「揚弓場」(ようきゅうば)という遊戯場だった。

揚弓場は、江戸の浅草奥山、日本橋四日市町、両国橋西、神田明神などにあった。盛り場や参道に立つ露店のようなものである。下の写真は『職人尽絵詞』(しょくにんづくしえことば / 江戸時代の職業・風俗を絵で解説した巻物)にある浅草奥山の揚弓場である。お坊さんが弓を射って遊んでいる。

隣りの女性は揚弓場の店番で、「矢場女」という。この女性は、客を相手に秘かに売春もしていたらしい。揚弓自体も賭け事だった。

浅草奥山の揚弓場が中央上部にある。揚弓場の絵は『揚弓場図』(神戸市立博物館)、『絵本吾妻の絵』(立命館大学)などにも登場し、広く知られた風俗だったことがわかる。掲載した絵は『職人尽絵詞』(模本)国立国会図書館所蔵
浅草奥山の揚弓場が中央上部にある。揚弓場の絵は『揚弓場図』(神戸市立博物館)、『絵本吾妻の絵』(立命館大学)などにも登場し、広く知られた風俗だったことがわかる。掲載した絵は『職人尽絵詞』(模本)国立国会図書館所蔵

浅草奥山は浅草寺の裏にある江戸を代表する盛り場だったし、日本橋四日市は「市」で賑わう。両国橋西は茶屋や見世物小屋が軒を連ね、神田明神の参道には岡場所(非公認の売春宿)があった。

揚弓場もオトナの男の遊び場だったのである。

弓の長さは2尺8寸(約85cm)、矢は9寸2分(約27.8cm)。的までの距離は7間半(約13.6m)、的は直径3寸(約9cm)だった。13.6m離れた所にある9cmの的を射抜くのだから、けっこう難しかった。

揚弓場の見取り図(右)と的の絵(左)。的は上が江戸で、四角の板に的が大中小の3つある。下は京坂の的で、的はひとつ。当たるとぶら下がった鈴が鳴った。
揚弓場の見取り図(右)と的の絵(左)。的は上が江戸で、四角の板に的が大中小の3つある。下は京坂の的で、的はひとつ。当たるとぶら下がった鈴が鳴った。

射幸心を煽(あお)られて、揚弓場に入り浸る男もいたようで、元禄の頃は五郎・未碩(読み方はひでひろ?)という二人が「無双ノ名手」として江戸で名を馳せたと守貞。現代であれば、アーチェリーでメダリストになっていたかもしれない。

筑波大学の体育学者だった故岸野雄三氏は、江戸時代の町人たちが、後にスポーツへと発展する遊びの一翼を担ったことを指摘している。大衆に根付いた遊びが、明治維新によって導入された近代スポーツと融合し、現代の五輪競技として息づいていることを感じる。

参考資料 : 『近世における江戸庶民のスポーツに関する一試論』(東洋法学)

バナー画像 : 守貞が描いた少年3人による毬杖の絵。万治期(1658〜1661)の書物『世諺問答(せげんもんどう)』に所載された絵を守貞が模写したもの。写真は『守貞漫稿』国立国会図書館所蔵

東京五輪・パラリンピック 江戸時代 江戸 五輪 オリンピック 上方 守貞漫稿 京坂 国会図書館