江戸時代にあった五輪競技の原型 : 『守貞漫稿』(その13)
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杖で毬を打つ姿がホッケーに酷似
バナーの絵は、『守貞漫稿』に所収された「毬杖」(守貞は「ぎてう」または「ぎってう」と表記。辞書では「ぎっちょう」)という遊びだ。
左の少年(女子に見えるが衆童=男子)が杖(つえ / スティック)を持っている。杖の先端には、槌(つち / ハンマー)のような物が付いている。見えにくいが右から二人目の少年は頭の上に木製の毬(まり / ボール)を掲げている。転がした毬を、杖で相手陣内へ打ち込む遊びである——つまり、ホッケーだ。
守貞はこう記す。
「毬杖ハ、打毬(まりうち)の一変ニテ、馬上武ヲ習スノ業ナリ。『万葉集』『続日本後紀』ソノ他数書ヲ引キテ、コレ証スル。マタ打毬ヨリ変ジテ、毬杖ト称フ一種ノ玩物トナル」
もともとは「馬上武ヲ習スノ業」、つまり馬上から杖を駆使して毬を打つ「打毬」という名の競技であり、『万葉集』『続日本後紀』にも記録があるという。現在でいうポロだろう。
馬上で行う打毬は8~9世紀頃に日本に伝わり、奈良・平安時代には端午の節会の際に行われる宮中の年中行事となった。鎌倉時代以降に一度衰微したが、江戸時代になると8代将軍・徳川吉宗が騎戦を練習する武技として推奨したとされる(宮内庁HP『打毬の沿革』より)。
それが、馬に乗ることのなかった民衆によって「変ジテ、毬杖」となった。
バナーの右端の男児は、輪っかのようなものが付いた紐を手に持っている。これは「ぶりぶり」と呼ばれ、杖の代わりにこの紐を振り回して、毬を打ち込む者もいた。
綾瀬はるか主演の映画『本能寺ホテル』(2017年公開、現代の女性が戦国時代にタイムスリップするストーリー)には、当時の子どもたちが紐を振り回してボールを打つ「ぶりぶりぎっちょう」が描かれている。
守貞によると、「昔ハ、ぶりぶり及、毬杖、二物ニテ、各々真ノ弄具ナリシ」
もともとは別々の玩具だったのが、いつのまにか子どもたちが合体させ、杖とぶりぶりの両方を使うようになったらしい。
ホッケーは紀元前2000年頃、古代エジプトに起源があったことが、発掘された壁画で確認できるという。それが19世紀、イギリスにホッケー協会が設立され、スポーツとして広がった。だが、日本にも原型があった。
ちなみに毬杖では、毬は右手で転がすため杖は左手に持つ。これが「左ぎっちょ」の語源とする説もあるが、真偽は不明だ。
正月の遊びに見るスポーツの源流
江戸時代の子どもには遊びが少なかった。遊具を所有していても、使う時期はもっぱら正月に限られていた。
毬杖もそうで、「唯、祝儀ノ物トナリテ」——正月にやる遊びだったと守貞は書く。
そうした正月の遊びのひとつに「羽根つき」もある。現代でいうバドミントンだろう。
「延宝四年ノ書、『日次紀事』(ひなみきじ / 江戸前期の年中行事の解説書)正月ノ条曰、『男児撃毬杖 玩弓矢 女子動羽子木板』。又、十二月買物条ニ『毬及毬杖 羽古義板』ナリ」
12月になると子どもにねだられた親が毬、杖、羽子板を買い求め、正月は男の子が毬杖や弓矢、女の子は羽子板でもっぱら遊んだ。延宝4年(1676)には、年中行事としてこれらが定着していたことを、『日次紀事』は示唆する。
「手鞠」(てまり)も正月の年中行事だった。これは今でいうバレーボールに近い。
手鞠はラリーを競うものだった。鞠を地に落とさないように、「ひふみよ云々(しかじか)ト云ヘルハ、古キ世ヨリノコトナルベシ」と、1、2、3、4と打つ数をかぞえ、できるだけ回数を伸ばす古来からの遊びだと守貞は記す。
守貞はまた、『吾妻鏡』の貞応2(1223)年正月の条に、鎌倉幕府で手鞠会が開かれた記述があることを指摘し、その頃から流行し始めたのではないかと分析している。ただし、民衆にそれが伝播したのは「詳(つまび)ラカナラズ」、つまりわからないともいう。
ただ、正月に庶民の子どもが鞠で遊ぶ姿は、正保期(1645〜1648)にはあたりまえの光景になっていたのではないか…と。
羽根つきと手鞠は、昭和生まれの方なら遊んだ、または見たという記憶があるだろう。
羽根つきは正月の遊びとして存続していたし、小学校では、休み時間に円になってバレーボールのラリーを楽しむ子どももいた。
オトナの男の遊戯「弓矢」
もう1点紹介したいのが「弓矢」、つまりアーチェリーだ。
日本の場合は「弓道」というべきだが、弓道は武家の嗜み(たしなみ)であって、庶民が利用したのは「揚弓場」(ようきゅうば)という遊戯場だった。
揚弓場は、江戸の浅草奥山、日本橋四日市町、両国橋西、神田明神などにあった。盛り場や参道に立つ露店のようなものである。下の写真は『職人尽絵詞』(しょくにんづくしえことば / 江戸時代の職業・風俗を絵で解説した巻物)にある浅草奥山の揚弓場である。お坊さんが弓を射って遊んでいる。
隣りの女性は揚弓場の店番で、「矢場女」という。この女性は、客を相手に秘かに売春もしていたらしい。揚弓自体も賭け事だった。
浅草奥山は浅草寺の裏にある江戸を代表する盛り場だったし、日本橋四日市は「市」で賑わう。両国橋西は茶屋や見世物小屋が軒を連ね、神田明神の参道には岡場所(非公認の売春宿)があった。
揚弓場もオトナの男の遊び場だったのである。
弓の長さは2尺8寸(約85cm)、矢は9寸2分(約27.8cm)。的までの距離は7間半(約13.6m)、的は直径3寸(約9cm)だった。13.6m離れた所にある9cmの的を射抜くのだから、けっこう難しかった。
射幸心を煽(あお)られて、揚弓場に入り浸る男もいたようで、元禄の頃は五郎・未碩(読み方はひでひろ?)という二人が「無双ノ名手」として江戸で名を馳せたと守貞。現代であれば、アーチェリーでメダリストになっていたかもしれない。
筑波大学の体育学者だった故岸野雄三氏は、江戸時代の町人たちが、後にスポーツへと発展する遊びの一翼を担ったことを指摘している。大衆に根付いた遊びが、明治維新によって導入された近代スポーツと融合し、現代の五輪競技として息づいていることを感じる。
参考資料 : 『近世における江戸庶民のスポーツに関する一試論』(東洋法学)
バナー画像 : 守貞が描いた少年3人による毬杖の絵。万治期(1658〜1661)の書物『世諺問答(せげんもんどう)』に所載された絵を守貞が模写したもの。写真は『守貞漫稿』国立国会図書館所蔵