サラ金の歴史が物語る日本経済の裏面史
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素人高利貸がサラ金のルーツ
日本の消費者金融は、俗に「サラ金」と呼ばれる。「サラリーマン金融」の略である。しばしば貯蓄好きの国民と言われた日本人は、消費者金融も大きく発展させた。「サラリーマン金融」という呼び名は、日本の消費者金融の誕生と成長の経緯をよく物語っている。
日本で企業や官公庁に勤めるサラリーマンが一定の数を占めるようになったのは、20世紀に入ってからのことである。戦前のサラリーマンは、相対的に高い教育水準を持ち、毎月決められた収入を保障された少数のエリートだった。しかし、雇用は必ずしも安定しておらず、いつ首を切られるかわからない不安定な立場でもあった。そのため、サラリーマンに金を貸す金融機関はまれだった。
そこで重要な意味を持ったのが、会社の同僚間の金の貸し借りだった。貸し手が借り手と同じ会社に勤めていれば、借り手の経済状態や人柄、給料の支払い日などを正確に把握できる。貸し手と借り手との間の情報の非対称性が小さく、資産運用のオプションも限られていたために、有利子の金の貸し借りが知人や友人の間で盛んに行われていた。いわゆる「素人高利貸」である。サラ金は、人と人とのつながりの中で金を貸す素人高利貸から生まれることになる。
素人高利貸からサラ金を生んだのが、1922年生まれの田辺信夫だった。田辺は、勤務先の貿易会社で素人高利貸に取り組んで資金を貯え、1960年に脱サラして日本クレジットセンターを創設した。同社は、1960年代から70年代初頭にかけて、日本を代表する消費者金融企業に成長する。
団地金融の誕生
ただし、最初に田辺が目をつけたのは、サラリーマンではなく、公団住宅(団地)に住むサラリーマンの妻だった。後に団地金融と呼ばれ、高度経済成長期に一世を風靡(ふうび)することになる。
当時の団地は、風呂やシリンダー錠といった最新の設備を備えたモダンな住まいだった。子育て世代を中心に人気を集め、入居するには厳しい審査をパスせねばならなかった。田辺は、団地に住む既婚女性なら原則として誰にでも金を貸した。顔見知りでなくとも、入居審査をクリアした団地の居住者なら、一定以上の所得を確実に持っていると判断できたからである。
加えて、団地の主婦の多くは、夫から給料を全額受け取って家計を管理する責任を委ねられていた。万一やりくりに失敗して赤字を出しても、できれば夫にはそれを知られたくない。田辺は、夫に内緒の借金に限定して団地の主婦に金を貸した。団地金融で金を借りれば、夫にバレないうちに返済しようと必死になる。家計管理者としての主婦の責任意識が、回収する上で有用だった。団地の入居審査で信用審査を代替し、この時代に特有な性別役割分業意識を巧みに利用して、事業を軌道に乗せた。顔見知りの範囲の外に融資対象を広げた点で、団地金融は日本の消費者金融に画期的な技術革新をもたらしたと言える。
サラリーマンの交際費が生んだ借金需要
創業の翌年に当たる1961 年、田辺は団地金融の手法を応用して、サラリーマン金融に進出した。当時のサラリーマンは、妻に家計と生活を全面的に委ね、「モーレツ」に働きながら熱心に社内外の仕事仲間との交際に明け暮れていた。取引先の接待や、社員同士の飲み会やゴルフなどへの付き合いが良いほど、人格円満で仕事熱心だと評価され、昇進にも有利だったからである。
とはいえ、交際には金がかかる。サラリーマンの夫たちは、妻から与えられる小遣いの中から、交際費をひねり出さねばならなかった。その不足を埋めるために歓迎されたのが、サラリーマン金融だった。あるサラ金の社員は、67年に次のように述べている。
「サラリーマンにとって酒、マージャン、デートなどに使うお金は健全資金なんです。借金して遊ぶくらいのサラリーマンでなけりゃ、出世しませんよ。だから、うちの会社は正々堂々と遊ぶお金を、誰にでも、どうぞお使いくださいといって貸すんです」
浪費的な使途でも問題はなかった。融資対象は一流企業の社員に限っていたし、借金の存在が会社に露呈すれば出世の道を断たれかねない。だから、必死に返済した。田辺信夫をはじめとするサラ金業者たちは、居住形態や勤務先などの外形的な基準に特化して審査コストを節約することで、消費者金融ビジネスを大きく成長させたのだった。
銀行が後押ししたサラ金の規模拡大
1970年代に入ると、高度経済成長の終焉(しゅうえん)を尻目に、サラ金はさらに大きく成長する。その最大の要因は、日本経済全体の貯蓄超過だった。
高度経済成長期の前半までは、日本経済はマクロレベルで見て貯蓄が不足していた。金融機関が家計に働き掛けて必死で集めた預貯金は、重化学工業を中心とする基幹産業へと優先的に配分され、投資が投資を呼ぶ好循環を支えた。そこに、消費者金融が入り込む余地はなく、サラ金が銀行から金を借りるのはほとんど不可能だった。
しかし、1970年代に入ると、多くの企業は蓄積した内部資金を設備投資に当てるようになり、石油危機に伴う資金需要の減退とあいまって銀行融資への依存度を低下させた。同時に、戦後のベビーブーマーが20代後半から30代前半の働き盛りに入り、老後に備えて熱心に貯蓄に努めた。貸出先は減っているのに、預貯金は増える。金余りに直面した金融機関は、融資先を獲得するのに躍起になった。そこで見いだされたのが、急成長するサラ金だった。
消費者金融の世界では、業界トップに立つことが何よりも重要である。一般に、サラ金の顧客は、知名度の高い最大手からまずは金を借り、借金がかさむにつれてランクを落として借り換えていく。つまり、業界トップに立てば、クリーンな優良客を獲得できる可能性が高まる。各社は、最大手になることを目指して、激しい規模拡大競争を展開した。後押ししたのが、銀行をはじめとする金融機関だった。資金需要が低迷する中で、大口の貸付先としてサラ金が注目されたのである。
規模を拡大すれば、スケールメリットが発揮され、より利益を上げやすくなる。だが、一流企業のサラリーマンだけを相手にしていては、融資規模は限られてしまう。銀行からの融資を獲得した1970年代のサラ金は、より所得の低いサラリーマンや自営業者、主婦などにも金を貸すため、審査基準を大幅に緩和した。その際に第一の武器となったのが、ブラック・リストをはじめとする顧客の信用情報の共有だった。1972年には、現在のJICC(日本信用情報機構)の前身に当たる信用情報会社が設立されている。
第二の武器が団体信用生命保険の導入だった。顧客が死亡・疾病(しっぺい)などで債務不履行に陥っても、保険金で損失をカバーできるようになったのである。規模を拡大したがために、サイコロを何回も振れば各目が出る確率は6分の1に収斂(しゅうれん)するという大数の法則が働いてリスクを定量化できるようになり、貸し倒れの損失を保険で補いながら大規模に金を貸せるようになったのが1970年代だった。
自殺者・失踪者の増加が社会問題に
貸し倒れをも恐れぬ規模拡大によって、サラ金は当時の銀行には持ち得なかった膨大な個人信用情報を蓄積した。1970年代後半の資本自由化に伴って、外資系消費者金融企業が次々と日本に上陸した際、サラ金が競争に打ち勝てた要因も、各社が収集した信用情報を日系企業間で共有したことで、審査を的確に実施できたからだった。
しかし、大数の法則に基づくリスク管理は、大きな副作用を伴った。サラ金の評判を著しく落としたのである。貸し倒れ損失を確率論的に経営戦略に織り込むことはできても、返済不能に陥った顧客一人ひとりにとっては、人生を破滅させかねない深刻な事態である。1970年代後半から返済に苦しんで家出・自殺を図る顧客が増えつつあったが、それでもサラ金はあえて過酷な回収を続け、従業員の間には顧客の自殺を歓迎する雰囲気さえ存在した。仮に顧客が自殺しても、団信によって保険金を受け取ることができれば、結果的に回収ノルマが軽減されるからである。
こうした野放図な融資規模の拡大と強引な債権回収は、当然ながら社会的に問題視され、大蔵省をはじめとする行政も規制に重い腰を上げた。1983年に貸金業規制法が制定されると、銀行も融資を絞り、一時は業界第2位のプロミスさえ破綻寸前にまで追い込まれるほどの「冬の時代」が続いた。
時代に合わせ、生き続けるサラ金
だが、長期的に見れば、1980年代半ばに「冬の時代」に突入したのは、業界にとって幸運だった。バブルの熱狂から距離を取らざるをえなかったことで、銀行のように不良債権処理に苦しまずに済んだのである。バブル崩壊後のサラ金は、アコムの「むじんくん」を皮切りに次々と自動契約機を開発し、若者向けに融資を伸ばしていった。不況下でも好調な業績に支えられて次々に株式上場を果たし、経団連への加盟も実現している。この頃、各種の長者番付でサラ金創業者やその一族は上位層の常連となり、その繁栄は絶頂を迎えていた。
バブル崩壊直後の顧客たちは、早期の景気回復に対する楽観的な見通しを持っており、借金によって当座をしのごうとしていた。自動契約機の登場と店舗の増設によって借りやすくなったこともあり、21世紀初頭までサラ金の融資残高は伸び続けた。しかし、日本経済は「失われた20年(30年)」とも言われる長期不況に直面し、待ち望んでいた景気回復はなかなかやってこなかった。自殺者数・自己破産件数は毎年のように戦後最悪を更新し、その元凶、サラ金は世評の悪化に再び直面しなければならなかった。
こうして2006年に制定されたのが、改正貸金業法である。栄華を極めたサラ金の経営は、規制強化で悪化し、2010年代を通して業績は低迷する。現在、最大手クラスも含めて大多数のサラ金は銀行の傘下に入ることで命脈を保っている。
だが、サラ金は、強靭(きょうじん)な生命力を持つ。コロナ禍の下で、アイフルは配当を復活させるなど、経営改善の兆しも見えはじめた。1960年代の猛烈サラリーマンとともに生まれたサラ金の歴史は、そう簡単に終焉を迎えることはなく、コロナ後の社会でも時代に合わせて続いていくことだろう。(敬称略)
バナー写真:時事
『サラ金の歴史 消費者金融と日本社会 』
小島庸平(著)
中公新書
発行日:2021年2月24日
新書判:344ページ
価格:1,078円(税込み)
ISBN:978-4-12-102634-7