本場欧州勢を撃破しての金メダル! フェンシング男子エペ団体を世界の頂点に押し上げた原動力とは
スポーツ 東京2020- English
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日本の競技人口は約6000人
東京五輪では、「快挙」と呼ぶにふさわしい成績がいくつも生まれた。その一つに、フェンシング男子エペ団体で日本が獲得した金メダルがある。
過去の五輪において、エペ、サーブル、フルーレと三つあるフェンシング種目のうち、フルーレ個人では太田雄貴が2008年北京五輪で、フルーレ団体では12年ロンドン五輪で、ともに銀メダルを獲得している。エペとして初メダルなのはもちろん、金メダルは種目を問わず日本勢としては初めてだ。
フェンシング大国とは言えない日本が、快挙を成し遂げた理由は何なのか。それを理解するためには、まず日本におけるフェンシングの歴史と現状を知る必要がある。
フェンシングは二人の選手が向かい合い、片手に持った剣で相手の体を突いて勝敗を決める競技だ。中世ヨーロッパの騎士たちの剣術に由来するといわれる。特に上流階級では、「騎士道精神」習得のためたしなむべきものとして取り組まれた。
ルールが設けられ、競技化されたのは20世紀初頭のこと。1913年にはフランス・パリで国際フェンシング連盟が設立された。ヨーロッパで始まり、アメリカやオーストラリアなどに普及していったフェンシングは、今もヨーロッパをはじめ、各国で高い人気を誇る。
日本でも1936年に「大日本フェンシング協会」(現・日本フェンシング協会)が発足。40年の東京五輪(開催中止)へ向けて強化が始まったが、フェンシングが広く普及することはなかった。日本には「剣道」が定着していたからだ。小学校や中学校、高校の授業やクラブ活動で多くの生徒がこの武道に取り組んでいるのに対し、フェンシングの競技人口は現在6000人ほどにとどまる。これは強豪国であるフランスに比べると10分の1程度でしかない。
「ないない尽くし」だからこその快挙
人気も高くないから、協会にしても選手個々にしても、スポンサーなどから手厚い支援を受けられない。強化費用も少なく競技活動の継続も容易ではない時代が続いてきた。
新型コロナウイルスの影響でアスリートの活動がままならなかった昨春、ロンドン五輪団体銀メダリストである三宅諒(りょう)が「コロナ禍で試合がないとはいえ、結果で恩返しできないのは申し訳ない」という理由でスポンサー契約を自ら解消。「ウーバーイーツ」でアルバイトを始めるなどして競技生活の続行を図ったという出来事が話題になった(三宅はその後、代表入りを逃した)。
万事誠実な三宅ならではの決断だったが、そもそも強化費用が潤沢なら起こり得なかったこと。少なくとも、フランスやイタリアなどヨーロッパの強豪国では考えられないエピソードだ。
競技人口、強化費用をはじめとした競技環境で、日本はヨーロッパなどの強豪国に大きく劣る。そんな状況下で獲得した金メダルだからこその「快挙」なのだ。
さらに特筆すべきは、金メダルを獲得したのが「エペ」であることだ。突くだけではなく「斬る」動作も得点になるサーブル、上半身のみの突きが得点となるフルーレに対し、全身を攻撃することができるエペは、世界的にはフェンシングの中で最も人気が高く、競技人口も多い。
だが、それゆえに、日本では長年「エペで世界の強豪国と勝負するのは難しい」と考えられてきた。エペを選択する選手は少なく、なおさらエペで好結果を残せない悪循環が続いてきた。そうした状況をも覆した金メダルは、確実に日本のフェンシングの歴史を変えるだろう。
きっかけはウクライナ人コーチの招聘
では、快挙はどのように成し遂げられたのか。
最大の要因は、ヨーロッパの有力国であるウクライナから指導者を招いたことだ。フルーレでは03年にオレグ・マツェイチュク氏が指導を開始し、五輪で二つのメダルを獲得する成果を挙げた。エペでは遅れて10年に、オレクサンドル・ゴルバチュク氏がコーチに就任している。
強豪国の指導者を招いたことで、ヨーロッパの技術や練習方法が選手に伝えられ、徐々に効果をもたらした。金メダルメンバーの一人である加納虹輝(こうき)はこう語っている。
「技術が(世界に)追いついたと思います」
ゴルバチュク氏の手配により、海外合宿も増えていった。当地の選手と一緒に練習することで、日本の選手は足りないものを肌で感じ、それを埋めようと努力するようになった。日常的に海外選手とプレーすることで、勝つための武器に磨きをかけていったのだ。
また、ゴルバチュク氏は「これは」という選手を見出すと、エペに勧誘した。加納とともに金メダルメンバーだった山田優(まさる)は、中学生の頃に誘われてフルーレからエペに転向している。
かつては資金が不足しがちだったが、東京五輪開催が決まったことで、国あるいは日本オリンピック委員会から受ける支援は大きくなった。恵まれているとまではいかないが、以前からすれば強化費用も増えたという。
これらの取り組みが時間をかけて競技成績に表れていった。山田は2014年の世界ジュニア選手権で日本選手として初めて優勝。18-19シーズンには、代表の一人で、イタリアでの修行経験もある見延和靖(みのべ・かずやす)が、日本勢初の世界ランキング1位になった。
東京五輪開幕時には、世界ランキング4位の山田を筆頭に、もう一人の代表である宇山賢(さとる)を含め、国際大会で予選を免除される16位までに3人がランクイン。エペ団体チームには表彰台を狙えるメンバーがそろっていたのである。
「これからはエペの時代に」——意地がもたらした快進撃
では表彰台どころか、一気に頂点にまでたどり着けた理由はどこにあったのか。
それは準々決勝のフランス戦だ。世界ランキング1位でオリンピック3連覇中の強豪を相手に、日本は途中までリードされながら逆転勝利を収めた。トーナメントの山の中途であったからか、どこか動きに精彩を欠くフランスに対し、日本は全力でぶつかり、地力をフルに発揮した。強豪国にありがちな、先に目を向けすぎての油断。フランスはそんな陥穽にはまったのかもしれない。
日本は勢いに乗り、準決勝で韓国に、決勝ではROC(ロシアオリンピック委員会)に完勝。栄冠を手にしたのである。
番狂わせを演じ、優勝した原動力は、今大会に懸けたエペの選手たちの意気込みにあった。
「エペは世界で通じにくい」という理由から、強化対象はフルーレが先行した。日本ではエペの競技人口がフルーレの半分にも満たないと言われる。さらに、オリンピックでメダルを2回獲っている太田雄貴という強い個性の存在も手伝って、フェンシングといえばフルーレを思い浮かべる人が多い。
「これからはエペの時代にしたい」
大会を前に山田は言っていた。自分たちが打ち込んできたエペの認知度を高めたい、普及させたいという使命感もまた、金メダルへと導いた力であったように思える。
バナー写真:フェンシング男子エペ団体で優勝し、喜ぶ日本チーム。(左から)オレクサンドル・ゴルバチュクコーチ、見延和靖、山田優、宇山賢、加納虹輝(2021年7月30日、千葉県・幕張メッセ)時事