日本史探険

廃藩置県150周年:明治維新最大の変革を振り返る

歴史 社会

藩が消え、県が誕生――1871年(明治4年)に「廃藩置県」が発令されて今年で150年となる。260年以上続いた幕藩体制に終止符を打ち、日本に近代的な中央集権国家を確立した新政府の行政改革は、実は薩摩・長州藩の指導者によって急きょ計画されたクーデターだった。歴史上まれにみる大プロジェクトは、いかにして遂行されたのか。

諸藩の軍制改革を警戒した新政府

明治新政府は、戊辰戦争が終結した翌月の1869年(明治2年)6月、版籍奉還を実施する。版とは藩の領地、籍とは藩の領民のことで、これらを朝廷(政府)に返上させたのである。ただ、藩主は知藩事(政府の地方官)に任じられ、そのまま領地の支配を命じられたので、実態は以前とあまり変わらなかった。

当時の新政府は、自前の軍事力をほとんど持っていなかった。戊辰戦争で新政府軍として戦ったのは諸藩の兵であり、戦後、彼らは国元に戻っていた。また、各藩が武力で抵抗に出たときのことを考えると、強引に藩を廃止することはできなかった。

一方、各地では農民一揆や反政府運動が広がっていた。近いうちに大反乱が起こり、第二の戊辰戦争に発展するのではないか、という認識が各藩の為政者たちに生まれ、諸藩は大規模な軍制改革を進めていた。

特筆すべきは紀州(紀伊)藩だった。知藩事の徳川茂承は津田出(いずる)を登用し、大がかりな改革を断行した。

津田は、550石以上の家臣の禄を10分の1、550石未満25石以上を50俵としたうえで、浮いた金の大半を軍事費につぎ込んだ。兵制はプロシア式を採用し、陸軍士官のカール・カッペンを顧問に招き、1870年1月に藩正規軍を解体、成人男子全員を兵とする徴兵制度を実施したのである。これは明治政府より3年も早い。これにより常備軍は7000人に増強され、予備・補欠兵を合わせると1万4000人に膨れ上がった。しかも最新鋭のライフル、ドライゼ銃で武装していた。

さらに新政府が神経をとがらせたのは、薩摩藩の動向であった。薩摩藩には新政府の改革に反発する島津久光(知藩事・忠義の父で、国父と呼ばれた実力者)がおり、西郷隆盛は新政府の呼び出しに応じず、軍制改革に突き進んでいた。

薩長土から献兵を得て常備軍を創設

新政府の大久保利通は1870年2月、引きこもる久光と西郷を東京へ引き出そうと鹿児島へ向かった。だが、久光は大久保を叱りつけて政府をこき下ろし、西郷も上京を拒絶したのだ。

そこで大久保と木戸孝允は、明治天皇に久光と西郷への上洛の勅命を出してもらい、11月末、勅使の岩倉具視を伴って鹿児島へ向かったのである。

久光は病気を理由に、即座の東京行きは断ったが、西郷は「自分に新政府の改革を委ねる」との条件で上京に応じ、翌1871年1月、東京へ向かう。

西郷が新政府に突きつけた改革案には、その一条として薩摩・長州・土佐の3藩から兵を献納させ、常備軍を創設することが入っていた。

歴史学者(日本近代史)の勝田政治氏は、西郷がそうした要求を出したのは、「膨大な常備軍を維持することは、薩摩藩にとって負担となっていた」ためであり、「献兵により、この負担を中央政府に肩代わりさせ、薩摩藩の負担を軽くすることができる」(『廃藩置県  近代国家誕生の舞台裏』角川ソフィア文庫)と考えたからだと解釈する。

いずれにせよ、西郷の提案は受け入れられた。薩・長・土の3藩の献兵(御親兵)が1871年2月に決まり、6月までに8000の兵が東京に集まってきた。そして翌7月、この軍事力を背景に廃藩置県が断行されるのである。

ただ実際には、廃藩の動きは2年前から始まっていた。財政難で藩士に禄を支給できない小藩が次々と廃藩を申し出ていたのだ。

1869年12月、政府は初めて吉井藩(1万石)と狭山藩(1万石)の廃藩願いを許し、その後、十数藩の申請を受け入れた。さらに鳥取藩、尾張藩、熊本藩、徳島藩なども統一国家を作るという観点から廃藩を申し出てきた。

政府内でも佐賀出身の大隈重信が、中央政府から諸藩に官吏を派遣し、統一的な政治を行うべきだと主張。同じく佐賀出身の江藤新平も1871年3月、廃藩を求める「御下問案」を提出した。その内容は、4カ月後に断行される廃藩置県とほぼ同様のものであった。

廃藩クーデター計画

このように当時、国内には廃藩を容認する空気が醸し出されていたのだ。しかし、実際に廃藩を実現させたのは薩長閥であった。しかも、ごく少数の薩長の高官による急なクーデターという形をとったのである。

廃藩を言い出したのは、野村靖と鳥尾小弥太。ともに長州出身で、軍制に詳しい中堅官僚であった。1871年7月初め、二人は山県有朋に廃藩クーデター計画を告げ、味方に引き込んだ。さらに7月5日、井上馨のもとに押しかけ「話を聞いてもらえなければ、刺し違えるか、首を頂戴する」と迫った。

察しの良い井上は、廃藩に関する話だと悟った。政府の財政を担う井上も、経済的見地から廃藩の必要性を検討していたので、二人の話を聞いたあと、長州藩のリーダーである木戸孝允の説得役を率先して引き受けた。

翌6日、井上が木戸に廃藩の件を打診すると、木戸は即座に承諾した。実は、木戸も3年前から「大勢を察し七百年封建の体を一破し、郡県の名を与え、往々天下の力を一にし、天下の人材を養育せん」(『木戸孝允日記』)と考えていたのだ。

封建領有体制の限界を悟っていた西郷隆盛

最大の難関は、薩摩士族を統轄する西郷隆盛が廃藩に同意するかどうかであった。

西郷の説得には、山県有朋があたることになった。山県が廃藩の件を切り出すと、西郷は、「それは宜しかろう」と述べ、「木戸の意見はどうか」と聞いたのだ。

あまりに簡単に同意したので山県は、「まずはあなたの意見を聞かせていただきたい」と言うと、再び西郷は「それは宜しい」と言う。

面食らった山県は、「廃藩は血をみる騒ぎになるだろうが、その覚悟がおありか」と尋ねた。しかし、西郷はまたも「私のほうは宜しい」と告げただけであったという。いずれにせよ、この瞬間、「廃藩は成った」—–そう山県は認識した。

それにしても、なぜ西郷は、薩摩藩を消滅させることに同意したのだろうか。

歴史学者(日本近代史)の松尾正人氏は、「西郷自身が封建領有体制の限界を悟っていた点にあると思われる。鹿児島藩の力だけでは、もういかなる改革においても、とうてい膨大な数の士卒を扶助することには限度があった。西郷にしたがう鹿児島藩兵を親兵として政府の直轄下に置いたとき、その負担は新たに政府に転化されている。その維持のためには、領有制そのものに対する思い切った変革も避けられなかった」(『廃藩置県』中公新書)と分析する。

木戸は、西郷の同意を知ると、7月7日の日記に「西郷断然同意の返答を聴き、大いに国家のために賀し、かつ、前途の進歩もまた此において一層するを楽めり」(『木戸孝允日記』)と記している。

翌8日、西郷と木戸は直接会って、廃藩置県という「大改革の事件数条を議定」(『木戸孝允日記』)した。すでに西郷は、山県から廃藩の相談を受けた6日に大久保利通の屋敷を訪ね、その同意を取り付けていた。

明治天皇の勅が下る

こうして9日には、大久保、木戸、西郷の“維新三傑”に加え、薩摩側から大山巌、西郷従道、長州側から井上馨、山県有朋らが加わり、入念な打ち合わせが行われた。7月10日の木戸日記に「このたびの事件(廃藩)、極秘なり」とあるように、計画は極秘に進められた。

政府の実力者である三条実美と岩倉具視に計画が知らされたのは、なんと決行2日前の12日のことであった。

木戸の日記には、「元来岩卿(岩倉)には前に告げずの論あり。しかるに卿(岩倉)もまた御一新(明治維新)来、関係大事ゆえに」(『木戸孝允日記』)、事前に廃藩のクーデターを知らせることにした、とある。同じ日、三条実美にもこの計画を告げた。

二人はうろたえたものの、もはや同意するしかなかった。こうして14日朝、薩長土肥の知藩事とその代表者を朝廷に呼び出し、明治天皇の勅語として廃藩が告げられた。次いで、鳥取藩、尾張藩、熊本藩、徳島藩の県知事に同様の勅語が下された。前述の通り、4藩はすでに政府に廃藩を申請していた。そして午後2時、在京中の知藩事56名が呼び出され、天皇から廃藩置県の詔が下される。この瞬間、地上から藩が消滅し、およそ700年にわたり続いてきた武家政権は終焉したのである。

廃藩置県の詔(国立公文書館蔵)
廃藩置県の詔(国立公文書館蔵)

知藩事は免官となって東京居住が命じられ、新たに設置された県には、中央政府から役人(県令)を派遣して統治することになった。

なぜ反乱は起きなかったのか

当時、廃藩を容認する空気が醸成されていたとはいえ、中には主家をつぶされ、激怒して挙兵する士族があるだろうと、クーデターを計画した者たちは覚悟していた。だから西郷は、「異議を唱える藩があれば、軍勢を差し向けてつぶす」と政府高官たちに宣言したのである。

ところが、反乱は起こらなかった。

その理由の一つには、突然の廃藩に気勢を削がれ、立ち上がるきっかけを失った、ということもあるだろう。ただ、最大の理由は、廃藩にあたり藩の借財を新政府が請け負い、士族の禄も政府が支払うと確約したことが大きいと思われる。

こうして新政府の政治的統一が達成されたわけだが、薩長中心のクーデターであったため、新政府における薩長閥の力は圧倒的なものとなった。そういう意味では、廃藩置県は薩長による権力奪取ともいえるのだ。

さて、いきなり廃藩が宣言されたわけだが、すぐに中央政府による県政が機能したわけではない。

まず、廃止された261藩はすべて県となり、それまでの府県とあわせて3府(東京・大阪・京都)302県となった。

藩から県への事務作業を担当することになったのは、大久保利通を卿(長官)とする大蔵省であった。大蔵省は、あまりに規模がバラバラな県を30~40万石を基準に統合し、地方行政に耐えうる財政規模にしようと計画した。

具体的には大藩を中心に小藩を統合したり、あまりに大きな藩を分割しようとした。当初は、長州藩を豊浦県と三田尻県などに分割する案もあった。いずれにせよ、同年10月末までに「1使3府72県」案が固まった。1使とは北海道を統轄する開拓使のことである。

なお、藩名が当初そのまま踏襲されたのは、わずか13県(秋田・山形・静岡・宇都宮・和歌山・鳥取・岡山・広島・山口・高知・福岡・佐賀・鹿児島)で、残りはすべて一新された。

勝田政治氏によれば、「政府の基本方針は、旧藩との関係を断ち切る意図から旧藩名の使用を極力避け、郡名(町村名・山川名)を採用」(『廃藩置県』)したのだという。

同様の理由で、ほとんどの県では県令(後の県知事)には、他藩出身者が派遣された。ただ、鹿児島、高知、佐賀など戊辰戦争で活躍した雄藩の多くは、同じ地域の出身者が県令に任命された。やはり、政府の高官が多くおり、地元の要望を配慮したのだろう。

その後、1879年に沖縄県が設置されたり、1882年に開拓使が廃止されて北海道に札幌・函館・根室3県が設置されたりしたが、その後も統廃合をくり返し、1888年に1道3府43県で定着することになった。

いずれにせよ、1871年の廃藩置県で唯一の政治権力となった新政府は、以後、税制改革(地租改正)、軍制改革(徴兵令)、教育改革(学制)など全国一律の大改革を進め、殖産興業、富国強兵にまい進できるようになったのである。

【廃藩置県 略年表】

1869年 1月 薩長土肥4藩主、版籍奉還を建白
3月 諸藩主(大名)も版籍奉還を建
5月 戊辰戦争が終結
6月 版籍奉還を許可、藩主を知藩事に任命
7月 開拓使を設置
8月 蝦夷地を北海道に改称
12月 各藩で廃藩の建議が始まる
1870年 5月 集議院で藩制の審議始まる
12月 岩倉勅使一行、鹿児島入り
西郷隆盛、政府改革案を提出
1871年 2月 薩長土3藩から御親兵を徴集
7月 廃藩置県を発令(261藩→3府302県)
11月 府県を統廃合(3府72県)

注:本文中の日付はすべて旧暦(廃藩置県の発令日は、太陽暦換算で1871年8月29日)

バナー写真:「廃藩置県」をはじめ明治維新の諸改革をけん引した“維新の三傑”、左から西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允 (国立国会図書館デジタルコレクション)

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