沖縄のパイナップルは、注目集める台湾産に勝てるか?
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甘さと酸味のバランス
石垣島にある沖縄最高峰のおもと岳(標高526メートル)の山裾に広がる嵩田(たけだ)地区は県内有数のパイン産地だ。5月下旬のある朝、東金三さん(69)のパイン畑を訪ねた。
東さんが栽培するのは、桃のような香りがするためにその愛称が付いたピーチパインと、主力品種のひとつ、ジュワリーパイン(ハワイ種)。今夏は約1ヘクタールで収穫を予定する。ハワイ種が最盛期となる6、7月には、「一斉にパインが熟れるから、取っても、取っても、追いつかなくなるよ」と東さん。
東さんはうねの間を歩き、日よけのネットをめくりながら、手際よく収穫していく。パインの実は表面が緑がかっていて、下の方が2~3割黄色く色づいただけだが、中はすでに全体が熟れた状態だ。
取材中、東さんに「ひとつ食べていって」と勧められ、収穫したての実を畑でむいてもらった。収穫用のナタで皮をはぐと、金色に熟した実が現れた。指で一切れつまむと、搾ったかのように果汁が手から腕へとしたたりそうになる。あわてて頬張った。甘さと酸味のバランスが石垣島産の特徴だが、今年は例年以上の日照と高温で、酸味は控えめで、ずいぶんと甘い。
東さんはパインを石垣市内にあるJAおきなわの農産物販売所「ゆらてぃく市場」や、県道沿いの直売所で販売している。昨年から新型コロナウイルスの感染拡大はパイン販売にも影響が及び、「観光客が減った分、売り上げにも響いている」と話す。
ただ、東さんは複数の販路を持つことで、新型コロナのあおりを抑えることができているようだ。本土の消費者への直販は、全国一律で送料込みで1箱4800円。大人の手のひら大のMサイズなら6個入りが標準。収穫したバインはひとつずつ新聞紙でくるむ。パインは根元のほうに果汁が溜まりやすいため、甘みが全体に行き渡るようにと、根元側が上になるようにひっくりかえして箱詰めする。
台湾出身者がリードしたパイン栽培
産業としてのパイナップル栽培が沖縄でスタートしたのは石垣島からである。石垣市は、1958年に発行した「市制十周年記念誌」で、パイン産業で功績のあった台湾出身者林発と廖見福の2人の名前を挙げている。林発は、台中出身の実業家で、1938年に沖縄初となるパインの缶詰を石垣島で生産した大同拓殖株式会社の経営陣に名を連ねた。
廖見福は現在の彰化県北斗鎮出身で、戦後の石垣島でパイン栽培を再興させるうえで中心的な役割を果たした人物だ。息子で、石垣島を代表する果樹農家のひとり、島田長政氏(76)によると、戦後は沖縄本島や宮古地方から開拓のために石垣島へやってきた人たちに苗を供給し、栽培面積の拡大を図るとともに、移民の生活安定をサポートした。
ふたりのリードで地歩を固めていく石垣島のパイン産業。その生産者の中には東さんの両親も含まれている。台湾・台中の出身の父、東宏発氏も1960年ごろに台湾から移民し?パインの栽培を始めた。それを今は金三さんが継ぎ、数人のアルバイトの手を借りながら、台北出身の妻、昌代さん(65)とともに経営している。
一方、八重山地方と並ぶ県内のパイン産地となっている沖縄本島北部では、石垣島とは異なる形でパイン産業がスタートしている。
現在は名護市の一部となっている旧羽地(はねじ)村の嵐山で、同村出身の玉井亀次郎が1952年、ハワイ帰りのいとこと組んでパインの生産を成功させた。玉井は、沖縄県立農林学校を卒業した後、同校校長の紹介で1913年に塩水港製糖(本社・台南新営)に入社すると、花蓮港でサトウキビ農場の場長を務めるなどした。その後、中途退職して農地開発に取り組み、1935年には台湾澱粉(でんぷん)株式会社を設立した。
四女の安富久子さんは、「父は台湾ではね、キャッサバ(イモの一種)からでんぷんを取って粉にして、大阪や神戸のお菓子屋さんやお薬屋さんに送りよったんです。それが大きな仕事でした」と振り返った。
終戦で沖縄へ引き揚げた玉井は、地元でパイン栽培を開始するのである。
今、沖縄本島北部では、東村が「パインの里」と銘打って地場産のパインをPRし、名護市内にはパインのテーマパークもある。その端緒に、日本統治期の台湾で開拓のキャリアを積んだ玉井の存在があることは特に記しておく必要があるだろう。
人手融通で摩擦も
1945年から1972年までの米軍統治期に入ると、沖縄のパイン産業は、労働力の確保という点でも台湾と密接に絡みながら発展していく。沖縄のパイン工場は夏場の繁忙期の人手不足に対応するため、労働者を台湾から招いていたのである。その人数は、本土復帰の前年までに八重山だけで延べ約2000人に達した。日本統治期にパインを扱ったことのある人も含まれ、加工技術の高さでも沖縄のパイン産業に救いの手を差し伸べていた。
ただ、台湾では労働者の流出は必ずしも歓迎されておらず、1967年6月には、台湾のパイン缶詰産業団体が沖縄への労働者派遣に反対する動きを見せている。日本市場をめぐるライバルの沖縄に塩は送れないというわけである。優秀な台湾人労働者は、沖縄の中にあった台湾人への偏見を弱めるなどの副次効果ももたらしていたが、それとは別の緊張関係を沖縄と台湾の間に引き起こしていた。
コロナでパイン産業に打撃
沖縄県のまとめによると、2020年度に沖縄を訪れた観光客は前年度を72.7%下回り、258万3600人まで落ち込み、土産物の需要が消えたことで、パイン販売に深刻な影響を及ぼした。2020年8月には名護市の道の駅・許田が、「4トンのパインが廃棄の恐れ」とクラウドファンディングによる支援を呼び掛けた。
新型コロナの影響は2021年度も続いている。そこへ今度は台湾産パインが日本市場に入ってきたのである。財務省の貿易統計によると、2021年1~4月に輸入された台湾産パインは6970トン。前年同期より5000トン以上多く、中国向けの販売ができなくなった3月以降、急増している。軌を一にして沖縄県内では3月以降、台湾産パインに対する警戒感と支援の動きがともに報じられている。
2018年に出荷された沖縄産の生食用パインは4780トン。同年の輸入パインは15万8993トンと桁違いだが、沖縄県農林水産部は「“国産” としての希少性がある」(園芸振興課)と説明する。台湾産の輸入が急増するなか、国内の消費者が沖縄産をどのように受け止めるかは夏場のピーク期を見守るほかないのが実情だ。県も「(台湾産パインの影響を)注視している」(同)と話す。
「味をいかに上げるか」
石垣島でもスーパーで台湾産パインが販売されている。青果物卸を営む台湾出身の王滝志隆さん(67)は「観光で訪れて県産のパインを買っていく人は減っている。台湾産とバッティングするかもしれない」と先行きに注意を払う。
島本哲男さん(69)は台湾出身の父親の急逝に伴い、中学卒業と同時に家業の農業を継いだ。パイン栽培のキャリアは半世紀を超える。台湾産のパインを味見したところ、「やはり輸入ものなので、自分たちがつくっている完熟のパインとは比較にならない」と自信を見せる。島本さんはパインとマンゴー合わせて110アールを栽培し、注文のあった消費者への直販がメインだ。完熟間近に収穫し、発送する。ただ、台湾産は、輸入物とはいえ酸味を抑えて甘みを感じさせ、「やばいな」とも思ったという。完熟間近に刈り取っていたら、ライバルになりうるというのである。
国境というバリアはあるが、島本さんは「要は国産の味をいかに上げるか」と気を引き締める。
沖縄は、西隣にある台湾という巨大なパインメーカーと時に競合し、時に手を取り合ってきた。日本市場をめぐって競り合うことに沖縄のパイン関係者が不安を覚えるのも無理はないが、足元を点検する機会ととらえることも必要であろう。
バナー写真:店頭に並ぶ台湾産のパイナップル(左)と石垣島のバイン農家の東金三さん(右)=いずれも著者撮影
参考文献
- 菅野敦志「やんばると台湾 パインと人形劇にみるつながり」名桜大学、2018年
- 沖縄県農林水産行政史編集委員会編「沖縄県農林水産行政史第4巻(作物編)」農林統計協会、1987年
- 玉井亀次郎「玉井亀次郎回顧録」私家版、1966年
- 国永美智子ら編著「石垣島で台湾を歩く」沖縄タイムス社、2012年
- 松田良孝「八重山の台湾人」南山舎、2004