音楽評論家湯川れい子さんが見たヨーコとジョン
音楽 エンタメ ジェンダー・性- English
- 日本語
- 简体字
- 繁體字
- Français
- Español
- العربية
- Русский
―素顔のオノ・ヨーコさんとはどんな人ですか?
最初にステージで見たのが1974年のプラスティック・オノ・バンドの来日公演でした。長い髪を振り乱し、金切り声で叫ぶように歌っていたのが印象的でした。深く傷つきながらも必死に闘う女性の姿を見た思いがしました。そのコンサート評を書いたことでヨーコさんから連絡があり、親しく話すようになって、ジョンとも来日した際に会っています。
―ヨーコさんは強いイメージの女性です。
常に鎧(よろい)を着ているような感じで、でも心の中に柔らかい部分があって、傷つきやすい。ショーンさんにはそれが分かっていて、1980年12月にジョンが亡くなった後、ヨーコさんを必死に励ましてくれたそうです。ヨーコさんは後に当時のことを『ショーンがいたから何とかできた』と話していました。
―ポールはヨーコさんを理解していたのでしょうか。
決してべたべたした関係ではないけれど、「ジョンの最愛の人」という理解はしていたはずです。そして「ヨーコは頑なまでにヨーコだった」とも。心の中に柔らかい部分があって傷つきやすい女性だとも理解していたと思います。
―ジョンとヨーコさんはいつも一緒でしたね。
お互いを理解したいということだったと思います。「よくそんなに話すことあるわね」というくらい、よく話していました。(2人の住まいである)ダコタハウスのエレベーターを上がる間もです。
ジョンとヨーコは正反対。男と女、陰と陽、西洋と東洋、貴族と労働者階級。そしてヨーコは、ジョンにとって母、恋人、情婦、姉でヨーコにとっても同じ(父、恋人、情夫、兄)。フィジカル(肉体)的にも相性はばっちりだったそうです。鼻を覆うような大きなサングラスも、「ジョンが可愛いって言ってくれたから」といつもつけていましたね。
―共通する部分もあったのではないでしょうか。
共通項は「孤独」「素直さ」「感性」だったと思います。
ジョンはリバプールで、母を亡くし、叔母に育てられますが孤独でした。ヨーコは不自由ない家に生まれますが、大きな屋敷で一人でご飯を食べるような生活。ただ両親には愛された。無条件に愛された人は無条件に人を愛することができるし、常にポジティブでいられる。
だからいつまでたっても「夢を持とう」「War is Over if you want it」なんです。「たまには違うメッセージを書いてよ」といってもいつもこれです。「戦争は人ひとりひとりの心の中で終わらそうと思わない限り終わらない。だからこのメッセージに尽きる」と。
―アートに比べ、ヨーコさんの音楽は分かりにくい、との指摘もあります。
ジョンの遺作となった1980年発表のアルバム「ダブル・ファンタジー」は、ジョンとヨーコさんの曲が交互に入っています。1曲目のジョンの「スターティング・オーバー」の後にヨーコさんの「キスキスキス」が来るのはどうなんだと。
みんなが待ち望んでいたのは、前作から5年ぶりになるジョンの音楽なのですから、ここにヨーコさんが入ってくるのは「つらい」と正直にヨーコさんに聞いてみたんです。せめてA面B面に分けたらよかったのにと。そうしたら「どうして?」って。「あなた嫌な音、たくさん聞いているでしょう。戦闘機や戦車、ダンプカーの音とか。それと比べてみてよ。愛があって耳に馴染む音でしょう?」と。
―ジョンが亡くなったときにかけていた血のりのついたメガネを、そのままヨーコさんがご自身のアルバムのジャケットに使っています。(1981年の「シーズン・オブ・グラス」)
普通であればその日のうちに洗ってしまうでしょうね。なのにダコタハウスの窓際において写真を撮り、ジョンが死んで以降、何人が銃で死んだかとカウントしている。「銃規制」のメッセージを出すところがすごいと思います。
―今なかなかそういう強い女性は見当たりません。
「強い意志を持って人生に挑む」ヨーコさんのような女性がいない、ということではないかしら。結婚して妻の口座に夫の給料が振り込まれ、妻が自由になるお金を持ち、昼から高級レストランでランチをしているのは日本だけ。結婚した方が(金銭的に)自由になるというのはおかしな話ですね。もっと自分の人生にどん欲になることをヨーコさんから学んでほしい気がします。
バナー写真 : 2005年10月に日本武道館で開催された「Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライブ」のために来日した際のオノ・ヨーコさん(時事、東京・有楽町のニッポン放送)