8月7日 新体操団体:「フェアリージャパン」強化本部長、山崎浩子が挑んだ17年越しの改革
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メダル獲得の機は熟した
集大成のときが来た。
新体操日本代表「フェアリージャパン」の強化本部長、山崎浩子にとって、長年の強化の成果を示す本番の舞台が目前に迫った。
世界選手権の団体総合では、2017年大会で42年ぶりのメダルとなる3位。続く19年大会では銀メダルを獲得し、オリンピックでは行われないが、種目別のボールで史上初の金、フープ・クラブでも銀を得た。
今や世界でも有数の実力国となった日本だが、ここに至るまでには、オリンピック出場を逃し、失意の底にあったチームの再建と、17年に及ぶ日本新体操界の強化の歴史があった。そして、その中心にいたのが山崎である。
山崎が強化本部長に就任したのは04年のこと。その職を担うに至った背景には、日本の新体操の行き詰まりがあった。
新体操は1984年ロサンゼルス五輪で個人総合が採用され、96年アトランタ五輪で団体が始まった。
日本は2000年シドニー五輪団体で5位入賞を果たす健闘を見せている。東京女子体育大学の選手が代表の大半を占め、日頃の練習で息の合った演技を披露できたのが入賞の要因だった。
暗転したのはそのあとのこと。04年アテネ五輪の団体出場を逃したのである。
理由の一つは、01年にルールが変わったこと。ある技を披露した際、演技をする5人のうちミスをした選手がいたら、その分を減点する方式から、ただちに0点とされることになった。難しい技を追求しつつも、ミスを犯すわけにはいかなくなったのだ。
日本は、新ルールに対して選手個々の技量が追いつかなくなっていた。選手の育成は大学など個々のクラブに委ねられており、ロシアのように国を挙げて強化する体制はなかった。練習場所などの環境や活動資金も、海外の強豪国に比べて大きく見劣りし、競技の高難度化に対して、十分な育成体制を築けなかった。
そうした状況下で、強化本部長として白羽の矢が立ったのが山崎だった。山崎は1980年代前半、新体操日本代表のエースとして活躍し、引退後はスポーツライターとして活動する一方で、日本体操協会に籍を置いて選手強化にも携わっていた。
就任を打診されたときは「ためらいがあった」と言う。指導者として名を残しているわけでもなく、「どうして自分に」という思いもあった。それでも「自分が打ち込んできた新体操の復活に役立てるなら」と受諾する。
世界と戦えるのは「団体」
山崎はまず、世界との差がこれ以上開かないようにするため、どうすべきかを考えた。結論は、「個々のクラブに選手育成を任せるのではなく、協会がかかわっていく」ことだった。
さらに、個人種目ではなく団体の強化に重点を置くことにした。
「過去の国際大会の結果から見ても、個人でメダルを狙うのは困難。しかし団体は、アテネ五輪には出られなかったとはいえ、99年の大阪世界選手権で4位、00年のシドニーで5位の結果を残したように、メダルを狙える可能性がある」
個人種目の場合、選手個人の技量の違いがストレートに勝負の分かれ目になる。また、日本選手と強豪のヨーロッパ勢を比べると、手足の長さなどプロポーションによって生まれる優美さの違いがはっきりと採点に影響する。
一方で団体は、5人で動きをそろえる「同調性」など、集団としての動きの美しさが加味される。そこは練習でカバーできる。団体ならば勝機を見いだせる、と山崎は考えたのだ。
改革の方向性に合わせて、代表候補の選手選考にも手をつけた。大会での成績にとらわれず、柔軟性やプロポーションを重視し、十代半ばの若い選手を選んだ。潜在能力が高く、手足の長さなどで極力、外国選手に見劣りしない選手を集め、時間をかけて育成しようとしたのだ。
大会で成績を残している選手を選ぶわけではないから、当然、周囲からは批判も出た。
「なぜ(あの選手が)日本代表なのか、という声もありました」
それでもメダルという大きな目標のためには、現在の実力に目をつぶってでも素材を重視し、鍛え上げるしかないと譲らなかった。
練習のあり方も変えた。05年末、オーディションを実施して選手を選考。各地から選ばれた選手たちは千葉県内の高校に転校し、共同生活を送りながら日々、練習を重ねた。1日の練習時間は7時間にも及び、その様子は「長期合宿」と言ってよかった。
その結果、08年北京五輪の出場権を取り戻したが、成績は10位。まだ、メダルには遠かった。
因習を破りロシア人コーチを招聘
山崎は次の手として、屈指の強豪国であるロシアからインナ・ビストロバをヘッドコーチに迎えた。さらにロシアのサンクトペテルブルクにも拠点を設け、当地で長期的に練習に取り組む環境を整えた。
日本の多くのオリンピック競技組織はアマチュアが運営している。「狭い世間」で生きていると言ってもいい。国内で功ある人物が日本代表の指導にあたり、国内で練習に励むのが「常識」であるかのような思考が根付き、新たな発想がなかなか生まれない。
強くなるには強豪国から指導者を得て、その地で学べばよいという考え方は、はたから見ればありきたりでも、因習にとらわれた世界においては起爆剤となりうる。スポーツライターとしての経験から、世間一般により広い視野を持つ山崎だからこそ起こせた変革だった。
スポンサーから資金面のバックアップも得て、サンクトペテルブルクに選手を送り込んだ。選手たちは厳しいトレーニングを重ねる一方、当地ならではのアートやカルチャーに触れ、表現の糧となる経験も積んでいった。
12年のロンドン五輪は、大会前に主力選手がけがで離脱する苦境に立たされながら、7位入賞。
16年のリオデジャネイロ五輪ではメダルを目標に挑み、予選で5位と好位置につける。だが決勝では、最初の種目のリボンでミスが出て、大きく得点を落とし最下位と出遅れ、入賞はしたものの8位にとどまった。
「ミスは残念でしたが、選手はあきらめずによく頑張りました」とたたえた山崎は、すでに先へと意識を向けていた。
「メダルは遠いですが、狙えるところまでは来ました。ここから勝負です」
その言葉通り、17年からは国際大会で表彰台に上がるケースが増えていった。象徴的なのは、同年の世界選手権団体総合で獲得した銅メダルだ。
ルール変更も追い風に
大きく飛躍を遂げた理由は、メンタル面の強化にあった。リオでも予選で5位になったように、地力がついてきているのは明らかだった。それを決勝で発揮できなかった理由を、山崎は「決勝という舞台での気負い」にあったと分析し、さっそくメンタルコーチをつけた。選手たちが練習でミスをしても、お互いを励ます言葉を掛け合うようにしたのをはじめ、メンタルトレーニングを実践。それらの取り組みの成果が、世界選手権の銅メダルだった。
18年には、日本にとって追い風となるルール改正も行われた。新体操は、演技の難度に対する得点である「Dスコア」と、技の出来栄えを示す「Eスコア」の合計点で競われるが、改正によりDスコアの上限が廃止されたのである。つまり、より高い難度の技をいくつも入れる構成と、それを実行できるチームが有利になった。
常に同じメンバーで長時間の練習を積むことで、日本は高難度の技をこなせるチームにレベルアップしていたから、この改正は追い風となった。19年の世界選手権で獲得した銀メダルは、山崎が長年取り組んできた改革の成果がはっきり表れた結果であった。
山崎が一大目標と見据えてきた、東京五輪の団体予選は8月7日、決勝は大会最終日の8日に行われれる。
強敵は5大会連続金メダルのロシアだけにとどまらない。過去3度メダルを獲得しているベラルーシ、2度獲得したブルガリアとイタリアなど、実績と実力を併せ持つ国との紙一重の勝負が予想される。
山崎もその厳しさは熟知している。
「どの国もメダルが狙える状況であると同時に、予選落ちもありえます。それは日本も同様です」
17年にも及ぶ強化策の集大成を披露する決戦のとき。「フェアリー(妖精)」たちの可憐な演技には、山崎の執念にも似た情熱が潜んでいる。
バナー写真:2021年6月19・20日に行われた新体操日本代表選考会(個人)において、フープの演技を披露する「フェアリージャパン」の選手たち 提供:日本体操協会