歌舞伎の祖となった前衛ダンサー「出雲の阿国」 : 『守貞漫稿』(その12)

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出雲の阿国(いずものおくに)——この人物の名前を聞いたことがある歌舞伎ファンもいるだろう。歌舞伎の起源をさかのぼると、この謎めいた女性に行き着く。『守貞漫稿』の筆者・喜田川守貞も、阿国に大いに好奇心を刺激されていた。

奔放かつ独創的な「舞」を創作した巫女

「歌舞伎ト云フハ、古ク神事ニヨル名目ニテ、今世、歌舞伎ノ中古ノ祖トモ云フベキ出雲ノ於国(おくに)モ、ソノ初メハ大社ノ巫女ナルガ故ニ、神楽ヲ一変シテ、カブキト号セリ」

『守貞漫稿』の出雲の阿国(守貞は「於国」と表記)に関する一節だ。

四条大橋のたもとに立つ出雲の阿国像。京都南座の西側にある。この地は、阿国が巡業で訪れて興行を催した地という伝承がある。重要文化財『阿国歌舞伎図屏風』の姿をモチーフとしている(PIXTA)
四条大橋のたもとに立つ出雲の阿国像。京都南座の西側にある。この地は、阿国が巡業で訪れて興行を催した地という伝承がある。重要文化財『阿国歌舞伎図屏風』の姿をモチーフとしている(PIXTA)

「神事」とは、日本の神話にある逸話を指す。天の岩戸に隠れてしまったアマテラス(天照大神)の気を引くため、アメノウズメ(天鈿女命)という女神が踊りを舞った。興味をそそられたアマテラスが顔を出したところを、力自慢の別の神が岩戸から引きずり出した——。

アメノウズメは、神を降臨させる力を持って現れた最初の巫女(みこ)とされている。
この時、ウズメが舞った踊りは胸や陰部まで露出したエロティックなもので、日本初の職業的ダンサーという人もいる。

阿国も出雲大社の巫女だったという。ややこ(幼女)踊りの踊り子であり、そこから独自の舞と劇を創作して、文禄年間(1592〜1596)の頃に出雲大社の勧進のため諸国を巡業した。阿国の踊りは評判となった。

守貞の興味を引いたのは、『羅山文集』(江戸時代初期の儒学者・林羅山が著した書。羅山は徳川家康・秀忠・家光の3代に仕えた)に掲載された歌舞伎に関する叙述だった。

「男、女服ヲ服シ、女、男服を服シ(中略)男女相供ニ、歌イカツハ踊ル、コレ歌舞伎ナリ。出雲淫婦九二(くに)ナル者、始メテコレヲナシ、列国ノ都鄙(とひ / ここでは国の到る所という意味)コレニ習フ」

阿国の踊りは、阿国が男装し、茶屋の娘に女装した男性と濃密に絡み合うというものだった。

寛永年間(1624〜1644)頃に成立した史書『当代記』の慶長8(1603)年の条は 、「カブキ踊ト云事アリ、出雲國神子女名ハ國、京都ヘ上ル。異風ナル男ノマネヲシテ男茶屋ノ女ト戲ル」と記しているので、史実と見ていい。

かなりキワモノ的な創作劇だったが、同時に前衛的かつ奔放なパフォーマンスでもあった。自由主義者の守貞は、阿国の独創性に引かれたのである。

女性の演者が消え若衆歌舞伎が台頭

阿国が評判となると、同じような一座が多く出現し、慶長の頃には座が江戸にまで巡業するようになる。

『当代記』はさらにこう記す。

「カブキノ座イクラモ有テ、諸國エ下ル、江戸右大將秀忠公ハ不見給」

右大将秀忠とは江戸幕府2代将軍・徳川秀忠のことである。秀忠は乱立した「カブキノ座」を「不見給」(見たまわず)——つまり、一切見なかったとされる。

肝心なのは、このことが幕府が阿国歌舞伎を不見識と見なしていたことを、暗に伝えている点である。こうした出し物は風紀の乱れにつながると、警戒されていたのだ。

風紀の乱れとは、阿国歌舞伎の演者に遊女が多くいたからだった。『羅山文集』が出雲の阿国を「淫婦」と記したように、そもそも阿国自身が遊女だったという説もあり、京都では「遊女歌舞伎」ともいわれていた。

その結果、歌舞伎は幕府の規制対象となり、寛永6(1629)年には女性が舞台に立つことを禁止されてしまう。

その後の歌舞伎を、守貞はこう記す。

「女ヲ交エテ狂言スルコト、御禁制アリシヨリ、京都、都万太夫ト云フ美少年ヲ女ニ仕立て、専ラ芝居興行ス。是則、京都芝居ノ元祖ニテ、今云フ女形ノ原始也」

阿国が創設した芸能から女性の姿が消え、代わりに美少年に女性の扮装(ふんそう)をさせる「女形」の原型が登場するのである。これを「若衆歌舞伎」といった。

若衆の「衆」は「衆道」、男色を指す。つまり、若衆歌舞伎の演者は男娼を兼ねる者もいた。しかも、年齢は元服(おおむね15歳前後)前で、ヘアスタイルは前髪を垂らした若衆髷(まげ)だった。これを幕府が見逃すはずがない。若衆歌舞伎も承応元(1652)年に禁止されることになる。

松斎雪堤が描いた若衆歌舞伎を守貞が模写した。京都六条で上演されたもの。確かに演者が少年のように見える。『守貞漫稿』国立国会図書館所蔵
松斎雪堤が描いた若衆歌舞伎を守貞が模写した。京都六条で上演されたもの。確かに演者が少年のように見える。『守貞漫稿』国立国会図書館所蔵

歌舞伎役者たちのへこたれない姿勢に共感

役者たちはそれでも懲りなかった。それなら「野郎頭ならいいんだろ?」とばかりに、演者は成人男性のヘアスタイルに変わる。

野郎頭とは、両鬢(びん / 左右両側)と後頭部にだけ残した髪を、剃った頭頂で束ねて結ったもの。江戸時代の成人男性のスタンダートな髪形であり、つまりオトナが演じるのだからいいだろ、と開き直ったわけだ。もちろん女扮して鬘(かつら)を被り、女形も演じる。これが「野郎歌舞伎」である。

野郎歌舞伎は承応2年からスタートした。幕府も根負けしたのか上演を許し、17世紀後半に全盛期を迎える。折しも江戸では、二丁町の芝居町が人気となっていた。野郎歌舞伎はその波に乗り、女形の基礎を築き、演目もキワモノから個性的な役を配した「芝居」へと進化していく。

野郎歌舞伎から発展した芝居は人気を博していく。これは「近世京芝居」と題された絵で、19世紀の京都芝居小屋を守貞が描いた。京都には「北川の芝居」(北座)、「南側の芝居」(南座)の二つがあったから、そのどちらかだろう
野郎歌舞伎から発展した芝居は人気を博していく。これは「近世京芝居」と題された絵で、19世紀の京都芝居小屋を守貞が描いた。京都には「北川の芝居」(北座)、「南側の芝居」(南座)の二つがあったから、そのどちらかだろう

守貞が歌舞伎の大ファンだったことは前回(その11)にも書いた。なぜ、引かれたのかという理由を思うに、度重なる規制・弾圧を跳ね返し、しぶとく生きる道を模索した演者たちへのシンパシーがあったからだろう。

歌舞伎には大衆を熱狂させるエネルギーがあった。幕府が止めようにも止められなかった熱を、常に大衆の中に身を置いて類書(百科事典)を編さんする守貞は、じかに感じ取っていた。

一方で、出雲の阿国に対しては特別かつ複雑な想いがあった。守貞は記す。

「出雲ノ於国ハ専ラ巫女ト云フ、タマタマ遊女トモ云ヒ、ソノ説一定ナラズトイヘドモ、歌舞伎ノ祖ナルコトハ勿論ナリ。ケダシ永禄末年以降トシテモ、江戸ニテ興行ノ時ハスデニ五十余、六十ニ近カリケン」

阿国は遊女ともいわれ、仮に永禄末年(1560~70年)以降の生まれだとしたら、江戸で阿国歌舞伎が上演され始めた頃(慶長の頃)には、すでに50代だったろう——と。

慶長の頃に、阿国の消息は途絶えている。

老いた阿国はどこへ消えたのか?——守貞は想いを馳せた。
やがて自分も、そのように消えていくのではないか? そして、守貞自身も慶応3(1867)年、『守貞漫稿』を脱稿すると消息を絶つことになる。

守貞は阿国に自らを重ね合わせていたのかもしれない。

バナー写真 : 『洛中洛外図屏風』を元に守貞が描いた京都四条河原で上演されている芝居の様子。この絵は「遊女歌舞伎」のもの。出雲の阿国の阿国歌舞伎は、遊女たちを中心とした一座も四条河原で上演し始め、全国に広がる。『守貞漫稿』国立国会図書館所蔵

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