台湾を変えた日本人シリーズ:検疫の手腕で台湾を「健康体」へ導いた後藤新平

歴史

日本が台湾を領有したとき、4つの難問を抱え込んだ。マラリアやアメーバ赤痢などの風土病、台湾領有を認めない武装勢力の横行、先住民族の反抗と漢族による阿片吸引の悪習である。第4代台湾総督となった児玉源太郎が、右腕となる人物として民政長官に指名したのが後藤新平だった。日清戦争に勝利した後、中国大陸から引き揚げてくる23万もの帰還兵の検疫を、短期間かつ完璧に遂行した後藤の手腕を高く評価していたからである。

医師から医官へ

後藤新平は1857年仙台藩水沢(現岩手県奥州市)で生まれた。17歳の時、医学校に入学し、成績優秀で卒業後は愛知県医学校の医者となる。とんとん拍子に出世し24歳で学校長兼病院長となる。医師として高い評価を受けた後藤は、内務省衛生局長の長与専斎に認められて1883年内務省衛生局に入る。医官となったあと、日本政府が招へいした衛生工学の技師ウイリアム・バルトンの知遇を得て、1890年ドイツに留学。帰国後、1892年には衛生局長に昇進した。後藤は、統治下に入った台湾の衛生環境を改善するため、上下水道建設をバルトンに依頼した。バルトンはその熱意に圧倒され、教え子の土木学者浜野弥四郎を伴って渡台した。浜野はバルトン亡き後も台湾に残り、台南上水道を完成させたことで今日まで「台南上水道の父」と尊敬を集めている。

後藤新平(国立国会図書館)
後藤新平(国立国会図書館)

「生物学の原則」による統治を目指す

1898年児玉源太郎が台湾総督となると、自らの補佐役である民政長官に後藤を抜てきした。その際、児玉が後藤に台湾統治の基本理念を聞いたところ、「ヒラメの目が格好悪いからと言って、タイの目に変えることはできない。ヒラメにとって、最も良いからそうなっている」と答え、「台湾の習慣や制度は、生物と同様でそれ相応の理由と必要性があるから習慣化している、無理に変更すれば当然大きな反発を招くだろう。従って台湾の現状をよく調査し、調査結果に合った統治をするのが良いと考える」と語ったという。児玉は、この言葉で全服の信頼を後藤に置いた。

児玉源太郎(国立国会図書館)
児玉源太郎(国立国会図書館)

児玉は、日露戦争の苦戦を受けて、兼務していた内務大臣は辞任したが、台湾総督は辞任せず「後藤が居れば大丈夫」とばかり、台湾を離れ陸軍参謀本部次長に就任している。後藤も総督の信頼に応える行政手腕を発揮した。まず台湾における調査事業として「臨時台湾旧慣調査会」を発足させ、会長に就任し徹底した調査を実施するとともに、学者を集め清朝の法制度の研究もさせた。現場の状況を熟知した上で、経済改革とインフラ建設を持論の「生物学の原則」に基づいて強力に推し進めた。

第一に風土病撲滅が急務だった。第3代乃木希典総督の母親は、渡台して間もなくマラリアで亡くなっていた。後藤は、まず台北の街から風土病を駆逐することを急いだ。きれいな飲料水を独占していた財閥の井戸を一般民衆に開放するとともに、再びバルトンとその弟子浜野を頼った。バルトンは台北の街を視察した後「この街は建設より、まず破壊することが必要である」と後藤に話すほど衛生状況は深刻であった。後藤は感染症を防ぐには上下水道のインフラ整備が急務と考えた。浜野は基隆、台北、そして台南へと駒を進め、上下水道が台湾全土に完備されていった。

抵抗運動には「アメとムチ」

次に取り組まなくてはいけないのが武装勢力や先住民族による抵抗運動対策である。警察や兵士が守ってくれないと、武装勢力に襲われ一人では街を歩けない日常があった。先住民族は猟場に足を踏み入れる人間に対しては「首狩り」を行なったからだ。後藤は「アメとムチ」を使い分け、抵抗を続ける頭目は武力で鎮圧したが、恭順を示せば報奨金と土地を与え、農業で生計を立てられるようにした。この方法は一定の効果を上げたが、花蓮地域にいたタロコ族だけは最後まで抵抗し、解決は次の佐久間左馬太総督時代を待つことになる。

佐久間左馬太(国立国会図書館)
佐久間左馬太(国立国会図書館)

もう一つの課題は阿片吸引の悪習である。中国大陸より阿片患者が多い台湾であったが、あえて漸禁政策を採った。1897年に台湾阿片令を公布。阿片患者を登録し、登録者や20歳以上の阿片購入・吸引は禁止せず、阿片の専売制を導入した。阿片は全て輸入し3倍の高値で販売したため大きな利益を上げた。この専売制度は総督府で阿片の他にも食塩、樟脳(しょうのう)、たばこ、酒、マッチ、度量衡儀器、石油にも適用したため莫大な利益を生み、日本の国庫に頼っていた予算を台湾だけの収入で賄う独立会計を、領台からわずか15年で達成するようになる。

専売システムの導入により、1900年には17万人もいた阿片患者は、1930年には2万7000人に減少。終戦の年には阿片吸引者をほぼゼロにしている。阿片政策は、結果的に成功したと言っても良いであろう。

壮大な青写真

後藤長官は台湾近代化のために、壮大な青写真を描いた。その計画が一般人から見るとあまりにも現実離れしているため、いつしか「後藤の大風呂敷」と陰口をたたく者もいた。後藤は実現のために、優秀な人材を内地から集めた。その一人が後藤と同郷で、後に「台湾製糖の父」と称される新渡戸稲造農業経済博士である。

新渡戸稲造(国立国会図書館)
新渡戸稲造(国立国会図書館)

台湾を領有した頃の日本は、砂糖消費量の98%を輸入に頼っていた。そこで後藤は、台湾政策の中心を産業振興に置き、多額の補助金を出し資本金100万円の「台湾製糖株式会社」を設立。「体が弱い」と言って渋る新渡戸を2年がかりで口説いて、台湾に招へいした。

赴任した新渡戸は全島をくまなく調査して砂糖キビの品種改良、栽培法、製造法などについての意見書「糖業改良意見書」を提出した。1902年には5万5000トンだった製糖の生産量は、1925年には約8倍の48万トンに達し、1936年の最盛期には年産100万トンを超えた。台湾における製糖は日本内地の需要を満たして余りあり、台湾の花形輸出産業になる。

都市改造でも手腕を発揮

ほかにも後藤の功績には都市改造がある。手始めが台北市の三線道路だ。清朝時代に造られた台北城の城壁を撤去した跡地に作られた。道路の設計は中央に車道を、その両側に歩道をそれぞれ造り、その間に街路樹を植え、あたかも三本の道路が並行して走る姿になったことから三線道路と呼ばれた。道路幅は広いところで80メートル前後、狭いところでも40メートルあまりあった。中央を車が、左右の道路を人や荷車が行き交い、街路樹の地下には上下水道を敷設した。建設工事は1910年に開始され、1913年に完成している。工事は浜野が指揮した。三線道路は中山南路(東線)、中華路(西線)、愛国西路(南線)、忠孝西路(北線)と名前を変えながら今日も使用されている。

後藤は民政長官として8年あまり務めた後、1906年南満州鉄道初代総裁に就任し、大連を拠点に満洲経営でも実績を残した。後藤は台湾時代の人材を多く起用するとともに若手の優秀な人材を招へいし、満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市建設に当たった。その後は内地に帰り東京市長を務めるが、1923年9月1日の関東大震災では、世界最大級の帝都復興計画を短期間で完成させる才覚を見せた。後藤の都市計画の原点は、台湾経験が大きく影響している。

後藤は、医官としてのノウハウから台湾を「健康体」に変えようとした。その後の台湾の近代化は、後藤が描いた青写真によるところが大きい。八田與一技師による嘉南大圳(たいしゅう)しかり、松木幹一郎が社長を務めた日月潭水力発電所の建設しかり、鉄道施設に尽くした長谷川謹介しかりである。

バナー写真=日本統治時代に建てられた専売局。現在は国定史跡に指定されている(Richie Chan / PIXTA)

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