台湾に渡ったアジアの製菓王、故郷・佐賀へ帰る
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キャラメルでチャンスをつかむ
台湾と日本には、今も子供時代に新高製菓の商品を食べていたオールドファンが少なからずいる。以前、日本語世代の台湾のお年寄りたちを取材していた時、こう質問されたことがあった。
「日本で缶入りドロップ、まだ売っておりますか? きれいな色のドロップでねえ」
「ありますとも! 佐久間製菓のドロップでしょう?」私がこう即答すると、相手はけげんな顔をした。
「サクマでないよ、ニイタカ製菓よ。日本の最高峰だった新高山にちなんでの社名ですよ」
「新高山」は、台湾最高峰である「玉山」の日本統治時代の名称。富士山を上回る標高3952メートルであることから、当時は “日本の最高峰” と呼ばれた。
台湾でも語り草になっている新高製菓の創業者は、佐賀県出身の森平太郎(1869~1946)という。新しく領土になった台湾で自分を試したいと思ったのか、1902(明治35)年、33歳の時に妻を伴って渡台。『一六軒』を台北市に開き、故郷で習い覚えた饅頭(まんじゅう)を売り始めた。
その後台湾産の砂糖と練乳を原料にしたキャラメルの製法を習得して製品化し、1905(明治38)年に新高製菓を創業。製糖業の発展と呼応するかのように業績を伸ばし、ほどなく繁華街の本町(現在の中正区北西部)に進出。1917(大正6)年には古亭町にキャラメル工場を建設し、台湾特産のバナナを使ったキャラメルや缶入りドロップや風船ガム、芭蕉飴、各種滋養菓子などのヒット商品を次々と世に出した。バナナキャラメルが大ヒットしたおかげで1926(大正15)年には東京工場を新設、お菓子業界で森永製菓や明治製菓、江崎グリコと並ぶ不動の地位を確立した。
台湾で大成功したわけ
平太郎の商売が大きく発展した大正時代、台北市は近代都市としての様相が整い、治安もよくなり、内地(日本本土)からの移住者が増え、地方都市にも活況が出ていた。人々はこぞって西洋式の食べ物やカフェやスポーツやエンターテインメントなどハイカラ文化を取り入れた。そんな風潮の中で、新高製菓のお菓子は西洋文化のプチ体験として子供から大人までを魅了したのである。
その裏には綿密な販売戦略があったことは言うまでもない。当時としては出色の広告キャンペーン、少年少女雑誌とのタイアップ、人気漫画家を起用してのPR誌の発行、おまけ付き菓子の販売、コマーシャルソングやキャラクターを使っての宣伝、さらには旅行やスポーツ観戦が当たる懸賞やキャンペーン、モダンで最先端のデザインパッケージの導入など、現代の広告代理店も顔負けの販促を展開した。
森平太郎の顕彰に尽力してきた、佐賀市立図書館富士館の元館長吉浦明さんは言う。
「ラクダという栄養菓子を宣伝するために、満蒙(戦前の満州と内蒙古)から本物のラクダを連れてきたとも聞いています」
ラクダによるお菓子のキャンペーンとは、なんとまあ奇想天外な・・・。
昭和に入ると新高製菓は台湾ばかりか朝鮮、中国にも販路を広げ、戦争が始まると軍隊の携行食として乾パンやキャラメルの注文を大量にとってさらに業績を伸ばした。そのため平太郎は、“アジアの製菓王“とまで呼ばれるようになった。
しかし、戦況が悪化すると日本各地の工場は空襲で焼かれ、1945(昭和20)年の敗戦で、台湾の資産は中華民国に接収され、ほとんどの財産を失った。創業者の平太郎が1946(昭和21)年に亡くなったことも大きく響き、戦後の会社再建は困難の連続で、資金調達難や人材不足もたたった。1965(昭和40)年、ついに廃業した。ちなみに戦前からライバル関係にあった佐久間製菓のサクマ式ドロップは健在だ。
甘党の聖地、佐賀県
この春、私はJR九州の「特急かもめ」を利用して森平太郎のふるさと・佐賀へ向かった。
佐賀県は新高製菓ばかりか、森永製菓と江崎グリコという日本を代表する製菓会社の創業者を輩出している。彼らはそれぞれバナナキャラメル、ミルクキャラメル、グリコを売り出して、“日本の三大キャラメル王“とも呼ばれている。
佐賀県は、江戸時代にバタビア(オランダの植民地時代のジャカルタの名称)から台南を経由して輸入した砂糖を、長崎の出島から小倉まで運んだ長崎街道(通称シュガーロード)の通過点にあたる。佐賀藩が警護職を担当していたため、砂糖が藩内に豊富に流通していた。職人気質の県民性は、陶磁器同様、菓子作りにも活かされ、創意工夫を凝らした菓子を次々に生み出し、製菓業の発展につながったと言われている。
おなじみの『佐賀ボーロ』や『小城羊羹(ようかん)』、『松露饅頭』だけでなく、県内各地にはキラ星のごとく銘菓が存在し、それらを集めた観光ポスターが、道の駅や街道沿いの和菓子店に貼ってある。県民の羊羹消費量が全国一という統計からも、佐賀県が甘党の聖地であることは間違いない。
目的地の富士町はJR佐賀駅から車で30分ほど。山林原野が7割を占める富士町には、映画『男はつらいよ』42作目にも登場した風情のある古湯温泉もあり、駐車場となっている空き地には「森平太郎が晩年を過ごした別荘の跡地」という案内板が立っていた。
温泉街をあとにして森平太郎が渡台前に饅頭屋を商っていたという北山(ほくざん)地区を歩いた。新緑が川面に映る渓谷に沿って、瓦葺きの民家と手入れの行き届いた田畑が続く。コロナ渦を忘れ去るようなのどかな風景だ。道沿いの和菓子店で話を聞くと、ほとんどの店の先代が新高製菓に勤めた経験を持っていることがわかった。
「うちのおじいちゃんも大阪の工場で働きよったらしかよ。新高さんにはどかんでん世話になったと言いよらしたよ」
昭和初期に創業した「北山饅頭」の藤田さんも話すように、森平太郎が故郷にもたらした恩恵ははかりしれない。なかでも1924(大正13)年の大火で消失した学校の講堂建設費をぽんと出した逸話は今も地元に語り継がれている。
故郷の偉人と望郷の道
町の中心に戻り、私は佐賀市立図書館富士館で森平太郎に関する展示コーナーを見学した。木材をふんだんに使った居心地のよい図書館は2008年に開館。その一画に、新高製菓の台湾時代の写真がずらっと並んでいる。コレクター垂涎(すいぜん)のパッケージ類やおまけグッズ、漫画のPR誌『うまいもん太郎』のほか、台湾のお年寄りが懐かしがっていた缶入りドロップもケースの中に収まっていた。どれもこれもインスタ映えするお宝ばかりだ。
「ネットオークションで買い集めたものもありますが、昔の従業員を1人1人訪ねて寄付していただいたものがほとんどです。「香梅」(註・熊本県を代表する銘菓『陣太鼓』などで知られる老舗)の社長さんも新高の関係者なのでお目にかかってきました」
こう話すのは元図書館長の吉浦明さん。
それにしてもなぜ、平太郎顕彰の機運が急に盛り上がったのか?
「きっかけはこの小説なんです」
吉浦さんは展示コーナーに置いてある単行本を指した。佐賀県出身のハードボイルド作家の北方謙三氏は、曽祖父の破天荒な生き様をモデルにした小説『望郷の道』を2009年に上梓した。そのことを知った吉浦さんが町役場に働きかけ、顕彰運動につながった。2011年には北方氏を招いて講演会も行い、『森平太郎物語』と題した小学生用の副読本も制作した。森平太郎は、まさに望郷の道をたどって故郷の偉人として迎えられたのである。そればかりではない、町ではバナナキャラメルの “復刻” にも挑戦した。
「で、うまくいきましたか?」と私。
「いや、それがなかなか難しくて。結局試作しただけに終わってしまったね」
うーん、それは残念。台湾産のバナナを使った新高製菓伝統のバナナキャラメルが登場したら、ベトナムのジャックフルーツキャラメルやタイのドリアンキャラメル、沖縄のマンゴーキャラメルと並んで、“アジア四大キャラメル”となり、話題をさらったかもしれない。
山間の小さな町で、手作りで素朴な味の北山饅頭を味わいながら、戦前の台湾との深い関係に思いをはせた。コロナ渦が収束したら、ぬる湯で知られる古湯温泉も訪れるつもりだ。台湾からの観光客にも、新高製菓の故郷でもある富士町へぜひ立ち寄ってもらいたい。
取材協力 佐賀市立富士公民館(フォレスタふじ)
バナー写真:バナー・缶入り新高ドロップ(複製)と佐賀県が生んだ3大キャラメル(筆者撮影)