全米女子オープン史上最年少優勝:笹生優花の強靭な下半身
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父娘二人三脚でつかみとった栄冠
全米女子オープンの表彰式が終わった後、グリーン上でほほ笑ましい光景が見られた。全米から集まった報道カメラマンによる、優勝トロフィーを手にした史上最年少チャンピオンの“撮影会”が始まった時だった。
その場所から少し離れた所にいた父・正和さんに笹生が目で合図を送り、一緒に写ろうと手招きした。涙で少し目を腫らしていた正和さんは、満面に笑みをたたえた娘と2人でトロフィーを抱え、晴れやかに記念の写真に納まった。
優勝後のインタビュー。笹生は「とにかく支えてくれた家族にありがとうと言いたいです。彼らがいなかったら、私はここにいません」と涙で感謝の思いを口にした。その言葉通り、日本女子3人目のメジャー制覇の偉業は、父と娘の“二人三脚”でつかみ取った栄冠だった。
笹生は2001年に母・フリッツイさんの母国・フィリピンで生まれ、4歳の時に正和さんの仕事の関係で日本に引っ越した。当初は日本語もあまり話せず、友達も少なかったため正和さんがゴルフ練習場に行くと、一緒に付いていった。練習場は幼い笹生にとって、父と楽しい時間を過ごせる“遊び場”のような所だったのだろう。
幼稚園に通っていた頃の将来の夢は「先生になること」。それがプロゴルファーに変わったのは8歳のとき。憧れのポーラ・クリーマーが全米女子オープンで活躍する姿を正和さんとテレビで見て、「世界一になりたい。メジャーで勝ちたい」と大きな目標を抱くようになった。
ゴルフの練習環境を求めてフィリピンに
クリッとした目を真っすぐに向けて「プロになりたい」と訴える娘に、本気の思いを感じとった父は、練習環境を整えるために、物価の安いフィリピンに戻ることを決意。
「うちはそれほどお金持ちじゃないですし、日本でずっと練習に通うのは難しかった」と笹生が小学2年の時に移り住んだ。
そこから、世界を見据えた父娘の厳しい練習の日々が始まる。それはトレーニングというよりも、日本風の鍛錬という言葉がふさわしいものだった。柔道や空手などの武道の経験者だった正和さんは、独学でゴルフの上達法を研究。まず下半身の強化が重要だと考え、両足に重りをつけることから始めた。
最初は数100gだったものを2kgまで増やし、練習時には常に身につけさせた。早朝に起床してランニング、ダッシュ、反復跳びなどの基本メニューを欠かさずに消化。それが終わってからはクラブを使った実践練習を行った。トータルの練習時間は12時間に及ぶこともあったという。
中学生以降になるとハードな練習に、さらに拍車がかかった。重りの入ったベストを着て坂道ダッシュを繰り返し、重りをつけての野球のノックやサンドバッグを使ったボクシングトレーニングなどで体幹を鍛えた。
まるで“スポ根漫画”のような練習漬けの毎日。だが、笹生はそれを当然のことのように受け止め、へこたれなかった。
ゴルフに英会話、実を結んだ父の熱血指導
その成果はすぐに現れる。ドライバーショットの飛距離は1年で30ヤードずつ伸び、中学生になってからは毎年50ヤードずつ伸びた。男子のロリー・マキロイにそっくりなスイングで、素早い腰のターンとスイングスピードで飛ばし、今季の1W(ドライバー)の平均飛距離は262ヤードで、国内女子ツアーのトップに立つまでになった。
19年に笹生のショットを初めて見たジャンボ尾崎は、その振りの鋭さに驚き、「女子であそこまで振れる選手はなかなかいない。特に下半身がすごい。どういう練習をして鍛えたの?」と正和さんに尋ねたほどだった。
そんな父の熱血指導で力をつけていった笹生は、12歳でフィリピンのナショナルチームに選出され、年間30試合を超える国際試合に参加するようになる。将来の米ツアー参戦を見据え、同時に語学の勉強にも力を注いだ。練習後には英会話のレッスンを受けるのがルーティーンとなり、タガログ語、英語、日本語に加え韓国語とタイ語も「少し」話せるようになった。
アマチュア時代に笹生が訪れた国は実に16カ国。多様なセッティングのゴルフ場でプレーした経験と、現地で培った語学力が成長を手助けした。
14歳でフィリピンのプロツアーで優勝すると、フィリピン代表として出場した18年アジア大会で個人・団体の金メダルに輝く。19年のオーガスタ女子アマでは3位に入る活躍を見せ、海外のゴルフ関係者の間でも知られる存在になった。
プロ入り後、ジャンボ尾崎の門下生に
その後は日本に拠点を移し、19年に日本女子プロゴルフ協会のプロテストに合格。同年のツアー出場予選会で上位に入り、20年の国内女子ツアーの出場資格を獲得した。そして同年8月のNEC軽井沢72で国内女子ツアー初優勝を飾り、2週後のニトリレディースで史上3人目となる初優勝からの2戦連続Vを果たして、次世代の新星として大きな注目を集めるようになった。
そうした日本での飛躍の礎となったのが、男子ゴルフ界のレジェンド、ジャンボ尾崎との出会いだった。プロテストのときに、同い年の西郷真央の付き添いでコースを訪れていたジャンボ尾崎の長男・智春氏と知り合い、ジャンボの門下生となった。
智春氏はその時のことをこう振り返る。
「笹生選手のお父さんから『尾崎さんのところは練習施設が充実していて、いい選手も育っていますよね。一度遊びに行ってもいいですか』と言われたのがきっかけでした」
父娘はすぐに千葉県内にあるジャンボの私設練習場を訪れ、定期的に指導を受けるようになる。その頃の笹生を見て、智春氏が感心したのは、真摯(し)に練習に取り組む姿勢と強靱(じん)な下半身だったという。
「野球のノックで下半身を鍛えていたと聞いていたから、実際にノックをやってみたら、本当に普通にできていましたからね。やる気というか、まじめに練習する姿がすごく印象的でした。それに彼女はゴルフIQがとても高い。ちょっとしたオヤジ(ジャンボ)のヒントを理解して、自分に当てはめることができました。すごいと思いましたよ」
門下生になってからは週に3、4回練習場に通って技術に磨きをかけた。智春氏によれば、その熱心さはジャンボ尾崎ゴルフアカデミーの生徒のお手本になるものだったという。同門の西郷も「ストイックな性格で尊敬しています」と語っている。
メダル候補の東京五輪はフィリピン代表で出場
ただ、国内ツアーでは順調に結果を出していた笹生も、海外の大きな試合では3日目に伸び悩むことが多かった。しかし、今回の全米女子オープンでは鬼門の3日目をパープレーで耐え、一皮むけた姿を見せた。
テレビ解説を務めた東京五輪女子日本代表の服部道子コーチは「4月のロッテ選手権で元世界ランク1位のリディア・コ選手と3日目に最終組で一緒に回り、その時に優勝したコ選手から、ピンチでの対処法やメンタルコントロール、プレー以外の時間の使い方など、多くの事を見て学ぶことができたのが大きかったと思います」と優勝の要因にメンタル面の成長を挙げた。
女子選手の誰もがそのタイトルを望む世界最高峰の大会を制し、世界ランクは40位から9位まで躍進。東京五輪にはフィリピン代表として出場する予定だが、有力なメダル候補にも浮上した。
幼い頃は「日本に来るな」と言われたり、逆にフィリピンでは「ハーフの日本人」と距離を置かれたりしたこともあったようだが、今は国籍を持つどちらの国にも強い愛情を持っている。
所属企業のICTSIはフィリピン最大手の港湾運営会社。同国のゴルフ界をサポートする有力スポンサーで、その縁でプロ転向後に契約を交わした。ジュニア時代は同国のナショナルチームで活動し、成長を後押ししてもらった恩義も感じている。全米女子オープンで優勝した直後には、ボクシング6階級制覇王者の“英雄”マニー・パッキャオからインスタグラムで祝福のメッセージも送られた。
フィリピン代表として東京五輪に挑む決意をしたのは、そうした経緯からだった。笹生は今後22歳までに、日本とフィリピンのいずれかの国籍を選ばなければならないが、NEC軽井沢72の優勝会見では「将来的には日本の国籍を取得したい。そして米ツアーに挑戦し、世界一になりたい」と話していた。
19歳の前途には、国の枠を超えた、輝く未来が広がっている。
バナー写真:全米女子オープン優勝でトロフィーを手にして撮影に応じる笹生優花(左)と父・正和さん(2021年6月6日)時事