台湾を変えた日本人シリーズ:台湾に骨を埋めた明石元二郎

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日本政府から台湾に派遣された総督は合計で19人を数えた。歴史に名を残した総督も少なくないが、その中で、自らの墓を台湾に作るほど、台湾への深い思いを抱いた人物は、明石元二郎以外にいないだろう。

水力発電と利水工事の巨大プロジェクトを決断

明石総督の在任期間は極めて短いが、その間に取り組んだ事業は、多岐にわたる。当時の台湾では近代化に必要な発電用ダムと米の増産を目的とする灌漑(かんがい)用ダムの建設が急務であった。そこで総督府は2つの巨大プロジェクトを計画した。日月潭水力発電所建設計画であり、もう一つが15万ヘクタールの不毛の大地を灌漑する嘉南大圳(たいしゅう)新設工事計画である。この2つの巨大プロジェクト計画に決断を下し、実行に移させたのが明石であった。

まず、日月潭水力発電工事に手を付けた。3000万円の資金で台湾電力株式会社を創設し、高木友枝を社長に迎えた。現地調査の結果、設計を十川嘉太郎が、技師長には堀見末子技師がそれぞれ就き、現場での指導・監督を行った。巨大な予算もさることながら、その工事計画も驚くほどの規模であった。台湾最長の河川である濁水渓(だくすいけい)に対して、海抜1300メートルの地点の武界に高さ48.5メートルのコンクリート製重力式の武界ダムを設置し、そこから日月潭まで延長15.1キロの距離を8本のトンネル、3カ所の開渠(かいきょ、地上部に造られた給水・排水を目的とする水路)、4カ所の暗渠(あんきょ、地中に埋設された水路)によって、毎秒約40トンの水を送る計画である。

ダムから送り込まれた水は、北側の太陽(日)の形をした日潭に流れ込む。すると日潭の水位が上昇するため、2カ所に土堰堤(どえんてい、水力発電や治水・利水、治山・砂防、廃棄物処分などを目的として、川や谷を横断もしくはくぼ地を包囲するなどして作られる土木構造物で、特に土を利用したもの)を築き、湖の水位を約18メートル上昇させることにした。このため南の三日月の形をした月潭の水位も上昇し、日潭と月潭が完全につながり一つの人造湖ができることになる。こうして海抜748メートル、水深27メートル、周囲長37キロ、貯水量1億4000万トンの台湾最大の淡水湖が誕生した。

名称も日潭と月潭が一つになったため日月潭を名付けられた。水を約3000メートルの水圧トンネルと約640メートルにおよぶ5本の水圧鉄管により約330メートル下の発電所に送るという壮大な工事計画である。

現在の日月潭(野嶋剛氏撮影)
現在の日月潭(野嶋剛氏撮影)

もう一つの嘉南大圳新設工事は、嘉義と台南にまたがる台湾最大の嘉南平原に1万6000キロの水路を張り巡らし、濁水溪と烏山頭(うざんとう)ダムの水によって15万ヘクタールの不毛の大地を穀倉地帯にするという工事計画で若き八田與一技師によって設計施工されることになっていた。

日月潭水力発電所建設工事が1919(大正8)年8月に開始された。着工から2カ月後の10月26日明石総督が急逝した。しかし、この二つの工事は、引き続き総督府によって推進され、嘉南大圳は1930(昭和5)年に竣工(しゅんこう)し、嘉南の農民60万の生活を一変させ、不毛の大地を台湾最大の穀倉地帯に変貌させた。

日月潭発電所は、資金不足によりいったん中止が決まったが、1931年に松木幹一郎を社長に迎えて再開し、10万キロワットの発電量を誇る東洋一の水力発電所が完成した。その結果、当時の台湾で「人間がいれば、そこには必ず電気がある」とまで言われるようになる。この発電所の完成により、台湾の工業生産は上がり、全土の人々の生活が向上し大きな影響を与え続けている。

この他にも、縦貫鉄道に海岸線を新設し、道路の整備に力を入れたのも明石であったが、業績は土木工事に限らなかった。台北商業学校の創設にも尽力するとともに、日本人と台湾人との教育上の区別を少なくし、望めば台湾人も日本内地の学校に進学できるよう新教育令を施行した。後に総統となる青年時代の李登輝も京都帝大の農学部に入学することができた。明石はさらに司法制度にも手を付け、二級審だった制度を三級審制へと改革した。森林保護の促進や華南銀行の設立など経済界にも寄与し、短期間で台湾の近代化に精力的に取り組み、日本による台湾経営に大きな足跡を残した。

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