台湾を変えた日本人シリーズ:台湾に骨を埋めた明石元二郎

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古川 勝三 【Profile】

日本政府から台湾に派遣された総督は合計で19人を数えた。歴史に名を残した総督も少なくないが、その中で、自らの墓を台湾に作るほど、台湾への深い思いを抱いた人物は、明石元二郎以外にいないだろう。

歴代最多の現地視察6回

1918(大正7)年7月に第7代台湾総督を拝命する。明石総督が誕生すると、総督府の人事がどう変わるか周囲が注目した。安東貞美前総督は民政長官に下村宏を起用していた。総督が代わると、ナンバー2の民政長官にお気に入りの人物を連れてくるのが通例になっていたからである。明石は人事を変えず、下村をそのまま任用したのである。

下村宏(国立国会図書館)
下村宏(国立国会図書館)

「台湾のことを、よく理解している者を変える必要はない」というのが明石の考えであった。このことは、台湾の近代化にとってはありがたいことであった。当時、台湾総督府では2つの大きな土木工事計画が持ち上がっていたからである。その事情をよく知っているのは下村民政長官だった。

明石は台湾へ赴任すると各地を視察し、民情の把握に努めた。1年4カ月という短い在任期間にもかかわらず6回も現地を視察したのは歴代総督の中で最多であった。台北刑務所を訪問した際には、25歳前後の受刑者が最多であることを聞くと「まことに、相済まぬ」と言ったという。

日本による台湾統治から23年を経過していたため、受刑者の多くは日本統治が始まった頃に生まれたことになる。「日本統治にまだまだ至らぬところあり、故に有望な青年が犯罪をおかさざるを得なかった」と考え、いかにすれば台湾人のために善政を行えるか決意を新たにしている。

明石には絵葉書を収集する趣味があった。その絵葉書を執務室の壁に貼り付けるため、まるで総督の部屋は子供部屋のようだったと部下達は面白がるが、明石は一向に気にしなかったという。

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古川 勝三FURUKAWA Katsumi経歴・執筆一覧を見る

1944年愛媛県宇和島市生まれ。中学校教諭として教職の道をあゆみ、1980年文部省海外派遣教師として、台湾高雄日本人学校で3年間勤務。「台湾の歩んだ道 -歴史と原住民族-」「台湾を愛した日本人 八田與一の生涯」「日本人に知ってほしい『台湾の歴史』」「台湾を愛した日本人Ⅱ」KANO野球部名監督近藤兵太郎の生涯」などの著書がある。現在、日台友好のために全国で講演活動をするかたわら「台湾を愛した日本人Ⅲ」で磯永吉について執筆している。

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