もう一人の「東洋のシンドラー」: 2万人のユダヤ人を救い、北海道を守った樋口季一郎陸軍中将
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ルトワック氏ら22人のユダヤ人が銅像建立の発起人に
第二次世界大戦直前、ナチス・ドイツの迫害からユダヤ人難民を救い、ポツダム宣言受諾後、ソ連の北海道侵攻を阻止した樋口季一郎陸軍中将(1888-1970年)の史実に今、新たな光が当てられようとしている。
その功績を顕彰する銅像を建立する募金計画が有志の間で進み、孫の樋口隆一明治学院大学名誉教授を会長理事とする一般社団法人「樋口季一郎中将顕彰会」が設立された。募金活動は日本のみならず、イスラエルや米国のユダヤ人社会にも呼びかけられ、銅像を通じて樋口中将の功績を世界に伝え、国際的な友好の輪を広げようとしている。
2022年秋の完成を目指す銅像について、隆一氏は「(出身地の)淡路島では伊弉諾(いざなぎ)神宮、北海道では北方領土を遠望できる場所が望ましい」と語る。「顕彰会」には、淡路島と北海道の関係者のほか、戦略論研究で世界的権威の米国の歴史学者、エドワード・ルトワック氏や日本のユダヤ人組織のラビ、メンディ・スダケヴィッチ代表ら国内外のユダヤ人計22人が発起人として名を連ね、約3000万円の寄付を募る。
樋口中将は満州国ハルビン特務機関長だった1938年3月、迫害を逃れ、ソ連を通過してソ連・満州国境オトポール(現ザバイカリスク)で立ち往生していたユダヤ人難民に食料や燃料を配給し、満州国の通過を認めさせた。リトアニアのカウナスで杉原千畝領事代理が命のビザを発給し、6000人のユダヤ人を救うのは、この2年後の40年のことである。
ユダヤ人難民は、ドイツ国籍であれば上海へのトランジットが可能だったが、満州国外交部がドイツと日本に忖度(そんたく)して通過させなかった。樋口は「日本はドイツの属国でもなく、満州国もまた日本の属国ではない」と日本政府と軍部を説き伏せ、上海までの脱出ルートを開き、その後、この脱出路を頼る難民が増えた。ユダヤ民族に貢献した人を記した「ゴールデンブック」を永久保存するイスラエルの団体「ユダヤ民族基金」では、救出した総数は2万人としている。
ユダヤ人の境遇に深い理解と憐憫
なぜユダヤ人難民を救ったのだろうか。オトポールでの救済の直前、1937年12月にハルビンで開かれた「第一回極東ユダヤ人大会」で樋口はユダヤ国家建設に賛成するあいさつを行うなど、ユダヤ人の境遇に理解と憐憫の情を示していたことが大きい。
『陸軍中将樋口季一郎回想録(以下、回想録)』(芙蓉書房出版)によると、樋口は1919年に特務機関員として赴任したウラジオストクでロシア系ユダヤ人の家に下宿。ユダヤ人の若者と毎晩語り明かして親交を深め、ユダヤ問題を知った。ワルシャワ駐在陸軍武官として25年から赴任したポーランドでは、弾力性ある国際感覚を身に付けたが、人口の3分の1を占めたユダヤ人が差別と迫害を受けるという流浪の民族の悲哀を垣間見た。
一方、有色人種への差別意識が強い中で、樋口をはじめ1921年からワルシャワに駐在した海軍の米内光政、樋口と同じく25年に暗号解読技術習得のため留学した陸軍の百武晴吉らをユダヤ人が下宿させ助けてくれた。この厚遇を忘れなかった樋口は、隆一氏に、「日本人はユダヤ人に非常に世話になった。彼らが困った時に助けるのは当然だ」と話している。
『回想録』によると、コーカサス地方を視察旅行した1928年、ジョージア(旧グルジア)のチフリス(現在の首都トビリシ)で、玩具店のユダヤ人老主人から、ユダヤ人が世界中で迫害される事実を吐露され、「日本の天皇こそユダヤ人が悲しい目にあった時に救ってくれる救世主。日本人ほど人種的偏見のない民族はない」と訴えられたという。
この体験がユダヤ難民救済の際、影響を及ぼしたであろうことは想像に難くない。さらに37年にドイツに短期駐在して、ナチスの反ユダヤ主義に強い疑念を抱いたこともあった。
人道主義と共にソ連諜報の目的も?
またシベリア出兵以来、優秀な情報士官だったことも無縁ではない。杉原千畝研究家である外務省外交史料館の白石仁章氏は、「ソ連から逃れたユダヤ人からソ連国内の機密情報を得る狙いもあったのでは」と推測する。白石氏がユダヤ人に詳しい外国人にオトポールで救出されたユダヤ人の写真を見せたところ、(彼らは)ロシア系ユダヤ人との意見が多かったためだ。
ソ連でも帝政ロシア時代から、ナチス・ドイツに勝るとも劣らず、反ユダヤ思想が強かった。ハルビンでは、ユダヤ人と白系ロシア人が互いに反目し合い、頻繁に抗争が起こっていた。白石氏はこうした事情を熟知していた杉原は、カウナスでは「狭義にはむしろ『スターリンの脅威から守った』」(『諜報の天才 杉原千畝』)と評価。ポーランド陸軍の情報士官を使った杉原はインテリジェンスの天才だったと主張する。樋口中将も、人道主義とソ連諜報目的からユダヤ人を救済したとすれば、対露情報士官としての面目躍如だろう。
日独防共協定を結んでいたドイツはユダヤ人救済に抗議したが、上司だった関東軍の東条英機参謀長は、「当然なる人道上の配慮によって行った」と一蹴した。東条は「ヒトラーのお先棒を担いで弱いものいじめすることは正しいと思われますか」と主張した樋口を不問に付し、日本政府は、軍事同盟を結んだナチスの人種思想に同調しなかった。
樋口は「ユダヤ民族基金」の「ゴールデンブック」に掲載されたが、杉原のようにホロコースト(大虐殺)の犠牲者を追悼するためのイスラエルの国立記念館「ヤド・ヴァシェム」から『諸国民の中の正義の人』(英雄)には列せられていない。
米国の戦略論研究家のルトワック氏は、「ヒグチ・ルートで生き延びた2万人の中には、その後、米国やイスラエルの大使や科学者になった人もいる。混乱して予測不能の困難な時代に、欧州ではチャーチル英首相も含め政治家、官僚、軍人がユダヤ人保護の行動を起こせず、ホロコーストで600万人のユダヤ人が犠牲となった。そんな中で樋口中将は、率先して勇気ある大胆な行動を取った。このことは英雄として広く顕彰されるべきだ。人道主義を持った良い日本人軍人もいたのだ」と顕彰活動を支援する。
スターリンの北海道侵攻の野望を阻止
また樋口中将は、北海道、南樺太と千島列島の「北の守り」を担当する札幌の第5方面軍司令官だった1945年8月、千島列島北端の占守島(しゅむしゅとう)に侵攻したソ連軍に対して自衛戦争を指揮した。それはポツダム宣言の受諾を決め、終戦の詔書が出された後の18日、大本営の停戦命令を無視して独断で行ったものだ。陸軍随一の対露情報士官としてソ連の野望を見抜いていたからにほかならない。
ソ連のスターリン首相は、日本が降伏文書に署名する前にヤルタで密約した樺太と千島列島、さらに北海道まで占領し、既成事実にするつもりだった。実際、同16日、トルーマン米大統領に留萌―釧路以北の北海道占領を要求。拒否されるが、南樺太の第八十七歩兵軍団に北海道上陸の船舶の準備を指示している。
しかし、樋口の指示による抗戦で、占守島攻防は同日まで続き、ソ連は千島列島占領が遅れ、北海道侵攻に及ばなかった。北海道占領を断念したスターリンは同28日、北海道上陸予定だった南樺太の部隊を択捉島に向かわせ、国後島、色丹島、歯舞諸島を無血占領し、北方四島の不法占拠は現在に至る。樋口の反撃の決断がなければ、ソ連が北海道に侵攻し、日本が分断国家となっていた可能性が高い。
「戦犯」反対はワルシャワ武官仲間の英参謀総長の圧力?
野望をくじかれたスターリン首相は、樋口中将を極東国際軍事裁判に「戦犯」として身柄を引き渡すよう申し入れたが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)のマッカーサー最高司令官は拒否した。
世界ユダヤ協会が反対したためとされるが、『回想録』では、「終戦後に取り調べを受けた連合国軍の某中佐(キャッスル中佐)から『イギリスが大変あなたをご贔屓(ひいき)にしており、イギリスはソ連の貴殿逮捕要求を拒絶した』と聞いた」と記している。
樋口隆一氏は「ポーランド武官時代に同僚だった英国のアイアンサイド少将(当時)が第二次大戦時、元帥として英国の陸軍参謀総長まで上りつめており、マッカーサーに圧力をかけたのではないか」と推測する。ワルシャワ駐在時代に演習視察や対ソ情報共有などを通じた交流が奏功した形だ。
樋口中将の赴任を契機に始まったポーランドとの暗号協力で日本の「暗号力」は格段と向上し、ポーランドと日本の諜報協力は、初期は杉原、第2次大戦末期にはストックホルムの陸軍武官、小野寺信少将にソ連が対日参戦を約束した「ヤルタ密約」を提供するなど深い絆に発展した。樋口がその嚆矢(こうし)となったことを考えれば、樋口には対露インテリジェンスオフィサーとして天賦の才があったのだろう。
外交官だった杉原千畝と違い、樋口季一郎は軍人ということもあってか、顕彰すべき対象としては扱われてこなかった。しかし、2021年7月9日には、憲政記念館で「樋口季一郎中将顕彰会」設立を記念したシンポジウムも行われるなど、ここにきて樋口中将のグローバルな再評価の動きが加速していることは、日本人として好ましいことではないだろうか。
バナー写真:樋口季一郎陸軍中将(樋口隆一氏提供)