守貞が見た江戸の遊女たち : 『守貞漫稿』(その9)
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花魁と太夫の違い
三都(京都・大坂・吉原)には、それぞれ幕府が公認した遊郭があった。京都は島原、大坂は新町、そして江戸は吉原である。上方育ちの守貞は島原・新町には馴染みがあったかもしれないが、吉原は未知の世界だった。そして、江戸に来て、京坂とは違う吉原の独特な世界を垣間見ることになる。
守貞はまず、京坂と吉原の最高級の遊女の違いに注目し、絵を描き、解説文を記した。
右が「今世京師ノ島原及ビ大坂新町太夫職游女之扮」(京坂)。
左が「今世江戸吉原游女之図」(江戸)。
いずれも絢爛豪華であることは変わりないが、帯の結び方、髪の結い方や櫛(くし)や簪(かんざし)は東西で流行が違っていたのだろう。守貞はその違いを詳細に絵と文字で詳細に記している。
島原と新町は「太夫」(たゆう)、吉原は「花魁」(おいらん)と、呼び方が異なる。太夫と花魁は混同されることが多いが、どちらも遊郭最高位の女性を指すもので、そもそもは三都とも「太夫」と呼んでいた。だが、吉原では太夫の数が次第に減り、宝暦年間(1751〜1764)に実質的に消滅する。
その後、下級の遊女たちが、姉貴分の遊女を「おいらの所の姉さん」と呼んだことから、いつのまにか「おいらん」=最高位の遊女「花魁」を指すようになったという説がある。
真相ははっきりしないが、いずれにしても吉原では太夫に代わって花魁が現れ、一方、京坂では太夫が存続し続けたため、呼称も変わらなかった。
守貞もその辺は熟知していたらしく、「(江戸でも)昔ハ太夫ト称ス。今ハ花魁ト書キ、オヒラント訓ス」とある。
供(とも)の者も違う。太夫と花魁が外を歩く時(といっても、遊郭の中のみ)は、京坂は「引舟(ひきふね)」と呼ばれる若い遊女が供をした。対して江戸では、「禿(かむろ)」と呼ばれる少女が花魁に付き添っている。
引舟が10代半ばの「新造」(詳細は後述)であるのに対し、禿はもっと幼少時から、遊郭に売られてきた子などから売れっ子の遊女となりそうな者を抜擢し、花魁の間近で立ち居振る舞いや行儀作法、読み書きなどを学ばせた。
さらに、帯の結び方が違う。どちらも前で結んでいるのは同じで、これは「一夜妻」の意味だとされるが、太夫の帯は横に広がっており、「心」の文字を表している。「心は簡単には解けませんよ」という意図だったという。対して花魁は、帯を前にだらりと垂らす。そのほうが見栄えするからだったという説が一般的だ。
最高級の花魁は一晩13万円
遊女にはランクがあった。吉原でいえば、花魁と呼ばれるのは上級遊女だけであり、その下に下級(新造)、禿と続く。厳密な階級社会だったのである。
江戸の遊女の階級
上級 | 昼三 | 客は豪商や留守居役など。揚げ代は最低でも13万円 |
---|---|---|
座敷持 | 客は商家等。個室と客を迎える座敷を持つ。揚げ代は5万円~ | |
部屋持 | 客は幕臣や藩士など。個室はあるが質素。揚げ代は2万5000円~ | |
下級 | 振袖新造 | 個室はなく、大部屋で寝起き。座敷は共用の「廻し部屋」使用 |
留袖新造 | 待遇は振袖新造と同じだが、上級へのランクアップはない | |
番頭新造 | 年季(通常は27歳前後)を過ぎても吉原に留まる新造。客は取らず、花魁の身の回りの世話などをした | |
禿 | 遊女見習いの10代前半までの少女。15~17歳で新造となる |
各種資料を基に筆者作成
花魁は高嶺の花であり、中でも最高位の「昼三」(ちゅうさん)と一晩を過ごすには、最低で約一両一分(約13万円)を必要としたと、江戸文化評論家の永井義男氏は指摘している(一両を約10万円、一分を約2万5000円として計算)。
しかも、通常は3回通って、ようやく馴染み客として認められる。馴染みとなると、今度は「床花」(とこはな)という祝儀を渡し、帯や簪をおねだりされたら、もちろんプレゼントする。その間には店の従業員たちにチップもはずむ。現代でいえば、恐らく、100万円単位の金をつぎ込んでやっと床入りである。とても庶民には手が出なかった。
もっとも、3回通って認められるというのは洒落本などを通じて広まった一種の都市伝説であり、花魁も高額な金さえ払えば初会の客と床入りしていたようだ。江戸庶民には一晩で10万円を超える豪遊をできる男などめったにいなかったため、こうした伝説が生まれたのかもしれない。
禿から新造へと出世するものの…
庶民の相手は、下級遊女の新造だった。詳細なデータはないが、上級遊女の最低ランクが約一分(約2万5000円)だから、それ以下だったろう。
新造は、見習いを経た禿が10代半ばに成長した姿である。15歳で遊女としてデビューする者を「留袖(とめそで)新造」、17歳デビューを「振袖(ふりそで)新造」と呼んだ。振袖新造は、将来、上級へとランクアップできるものもいる花魁候補で、同じ新造でも格上だった。「吉原振袖新造之扮」には、花魁と比べると、着物も髪を飾る簪や笄(こうがい)もシンプルなまだ初々しい姿が描かれている。
新造は、妓楼(遊女がいる店をこう呼んだ)の1階にある格子越しの張見世(はりみせ / 客が遊女たちを品定めするショーウインドウ)に座り、客からの指名を待つ。吉原のメインストリートの仲の町には、張見世がずらりと並んでいた。
客は張見世で遊女を選ぶと、2階に通される。これを登楼(とうろう)といった。
2階は遊女と客、仲居などでごった返している。まずは遊女と酒を酌(く)み交わすのが一般的だが、酒宴も抜きに床入りに向かう者もいた。こうした客を「床急ぎの客」と呼んだそうだ。花魁は店の奥に別格の座敷を与えられていたので、ここに描かれているのは新造や禿で、部屋は共用の「廻し部屋」だろう。
守貞は、吉原でどのように遊んだのだろう。推測の域を出ないが、江戸へ単身赴任していただけに、馴染みの遊女はいたかもしれない。遊女を描いた守貞の絵は熱意に満ち、彼女たちへの愛着を感じさせる。
バナー写真 : 『今世官許遊女 褻之扮』(「守貞漫稿」)。「官許」は、幕府公認の意。「褻之扮」は外出用ではなく、室内で過ごす際の姿を指す