たいわんほそ道~基隆、かつての砂浜をゆく:中正路、正義路から中正公園へ
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日本と繋がってきた港町「きいるん」
基隆を初めて訪れた時には何とも懐かしい感じがした。小学生のころ、長い休みのたびに福岡県北九州は門司の祖父母の家に滞在していたからではないかと思う。長年の風雨に耐えてすがれた、バロック風の美しい建物。かつての栄華をところどころ残す商店街。崖に沿ってぎっしりと建つ家々。外国との往来の主役の座は飛行機に譲ったとはいえ、海の玄関としていつも様々な国からの船が旗をはためかせる港町の懐は深い。祖父母の家の窓からは、海を挟んで右手には下関、左手には小倉の製鉄所が夕景のなかに浮かんでいた。そのころは知る由もなかった。かつて日本時代には、門司と基隆が内台航路(台湾航路)と呼ばれる連絡フェリーで結ばれていたことを。
日本時代は「きいるん」と呼ばれ、多くの人々がこの港から船で旅立った。戦前の台湾をよく知る日本人には思い入れの深い港で、終戦後に台湾から日本へと引き揚げた人々の話には必ずといっていいほど登場する。画家の立石鉄臣は、多くの台湾人が『蛍の光』を歌いながら基隆港を離れるフェリーに手を振ってくれた引き揚げ時の記憶を、絶叫のような「吾愛台湾!」という言葉と共に描き残している。
「真砂町226番地」から出発する
1895年の日清講和条約で、台湾が日本の領土となってから近代的な港として発展した基隆だが、元は名を「鶏籠」(ケーラン)といった。この地に暮らしていた台湾原住民平埔族のケタガラン族の名前からきたらしく、今でも台湾語(ホーロー語)ではそう呼ばれる。スペイン・オランダ人の到来によって17世紀には世界史に登場した基隆だが、英国ロンドンの地図専門印刷会社「MALBY & SONS」による1858年製の「Keelung Harbor」の地図を見てみれば、今とは海岸線が随分ちがう。そこで、この地図と現代のグーグル地図を重ね合わせることのできる「臺灣百年歴史地圖」(中央研究院人社中心「地圖與遙測數位典藏計畫」)を手掛かりに、基隆のかつての海岸線を歩いてみることにした(参考サイト:http://gissrv4.sinica.edu.tw/gis/keelung.aspx)。
出発地点は、2006年基隆の指定古跡に登録され、2013年に修復された「基隆市長官邸(基隆關税務司官舍)」(中正路261號)である。日本時代にあった建築会社「台灣土地建物株式會社」の基隆支店長宿舎として、1932(昭和7)年に建設された。当時の支店長の名を松浦新平といったので「松浦社宅」とも呼ばれている。フランク・ロイド・ライトによって設計された旧帝国ホテル本館に使われ、人気の建材となったスダレ煉瓦(スクラッチタイル)に中華風飾り窓、屋根瓦など和・洋・中が折衷された瀟洒な屋敷だが、何と言ってもかつての住人が楽しんだのは、眼下に広がる白い砂浜だったろう。
大沙灣海水浴場と呼ばれた砂浜は、1903年に開かれた、台湾で初めての海水浴場だった。戦後もしばらく基隆の人々の夏を彩った砂浜は、1960年代の経済発展と共に埋め立てられ港湾の一部となる。松浦社宅の当時の住所は「真砂町226番地」。目の前に広がる砂浜を想いながら歩く、この散歩の起点にふさわしい。
度重なる戦争の舞台
山側上方には清朝末期に砲台が置かれ、早い時期から基隆が軍港として重要な要素を持っていたことを示している。1896年には「基隆要塞指揮所」が、1903年には「基隆要塞司令部」が正式に設立された。現在は正濱中学や三軍総医院基隆院区がある場所からの眺望は、日本時代には「基隆旭丘」といって「台湾八景」のひとつに数えられた。
中正路を南にいくと、きれいに修復された日本時代の日式建築が次々と現れる。右手に見えるのは、中華民国政府の「要塞司令部校官眷舍」。左手の高台の「基隆要塞司令官邸」は日本時代に交通事業で成功した流水伊助の住まいとして建てられた。また、祥豐街にある「基隆要塞司令部」は、1947年には中華民国陸軍がここを拠点として指令を出し、二二八事件で基隆の街を血で染めた。
それからまた少しゆけば、鬱蒼と茂る植物の影にぽつぽつと洋風の墓地がある。1884年にベトナムの領有をめぐって起きた清仏戦争で、基隆を攻略しようとしたフランス軍の戦没者のための墓地である。提督の名前をクールベといったので、この浜辺は日本時代にクールベ浜と呼ばれるようになり、慰霊の碑が作られた。清とフランスの戦闘は8カ月にも及んだが、多くのフランス人が命を落とした理由はマラリアなどの風土病と言われ、クールベもその病死者のひとりであった。金子常光の描いた基隆の鳥瞰圖『基隆市大観』にも、「クルベー墓地」の名称で描かれている。
頭上には高架道路が重なり、自動車がびゅんびゅんと行きかう。埋葬されたフランス人らが土の中で長年聴いていた砂浜を打つ波の音も、今はもう想像のなかにだけ響く。
更に進むと、前方に大きな碑が見える。碑の上には「民族英雄墓」とあった。墓誌によれば、「フランス艦隊の基隆侵略は、清国の巡府・劉銘伝の働きによって退けることができたが、その際に犠牲となった清国の兵たちの骨を郷土の名士が拾い集めて塚を造ったところ、日本によってその骨塚が暴かれ、あろうことか敵のクールベを慰霊して同胞の気持ちを踏みにじった。ここに民族正義にのっとって、民族英雄の碑を建てる」という内容のことが書かれていた。碑の隣には、四川料理や牛肉麺を出す巨大な中国風のレストランが建っている。中国からの団体観光客がこの碑を見てから隣で昼食をとる想定なのだろう。コロナ禍のためか今はレストランも閉じられ、閑散としている。
流転する「きいるん」の歴史
幹線道路から中船路に入っていく入り口にあるのは、北白川宮能久親王の記念碑である。北白川宮親王は1985年、日本が台湾を領有してすぐに近衛師団を率いて台湾に出征したが、マラリアのため台南で病死した。1933(昭和8)年に建てられたこの碑の場所には、親王が滞在した宿舎があったらしい。碑の奥の崖は、波に削られたようにみえる。とすれば、宿舎はこの崖の上にあったのかもしれない。
台湾神社や台南神社の主祭神として神格化された北白川宮能久親王だが、親王家の庶子として生まれ、幼い頃を寺で過ごし、新政府軍と相対するなどして流転の人生を送った。最後は皇族として初めて外地で亡くなったため、「悲劇の宮家」と形容されることもある。北白川宮能久親王の死から30年以上経って建てられたこの碑の文字は、それから更に70年ほどのあいだに、国民党政権下で故意に削られて見えなくなった。「死人に口なし」。そんな言葉が思い浮かんだ。クールベ提督に、清朝の兵士たち、そして北白川宮能久親王。死して人は語らずとも、その時々の都合に合わせて死者を語ろうとする人はいつの時代にもいる。雄弁に。饒舌に。
崖沿いに沿って残る水の記憶
物語は流転し、歴史は塗り替えられる。しかし、どれほど時を経ても、道は砂浜の記憶を残している。
1858年、地図の海岸線と重なる中船路をゆく。入ってすぐに、道路にゆったりとした凹凸をかんじたので地図を確認すると、ちょうど150年前の崖のでっぱりと重なった。崖の下には山に降った水の支流の集まる谷もあったはずだから、この凹凸も谷川の流れが影響しているのかもしれない。左手の崖側には、急な坂道へと続いていく路地や歴史ある寺廟が次々と現れ、海岸線を歩いている気分が深まる。
かつてここに流れ着いた死者たちを祀る祠(ほこら)から大きくなって、今に至る廟も少なくないのではないか。崖沿いにカーブした正義路の小さな路地に現れた「哨船頭覺修宮」は、1875(清光緒元)年に創建された歴史ある廟だ。主神は「池府王爺」。台湾で広く信仰を集める「王爺」には複雑なルーツや系統があるものの、基本的には疫病や不幸な出来事で亡くなった人を祀ることにより平安を願うものだ。日本時代に一度撤去されて、日蓮宗の布教師によって「蓮光寺」という寺となり、戦後に再び「覺修宮」に改められた。しかし、今も二階には蓮光寺の記憶を留めた釈迦牟尼像が安置されている。
路地の入り口の立て看板によれば、廟の左手前にはかつて湧き水の井戸があったらしいが、水質が悪く、事故を恐れて塞がれてしまった。風水では「龍泉水井」と呼ばれ、この井戸を塞ぐと地域の没落を招いてしまうという。気になって、廟のおじさんに井戸の事を尋ねてみたが、そんな事聞いたこともないよと言われた。井戸は跡かたもないようであった。
基隆市街のかつての「銀座」
正義路から出た「義二路」は、碁盤目のように整然とした石畳の道路だ。日本時代、ここは基隆の一番の繁華街だったらしい。
「基隆のね、“銀座”よ、この通りは」
「百年老店」の看板をかかげる、落ち着いた趣の宝石屋さんで出会った「林ママ」が、そう教えてくれた。娘さんで現・オーナーの林秋瑾さんに聞けば、基隆の区長も務めた名士だったひいおじいさんの代から続く「林商店」の4代目にあたり、130年になるという。亡くなったお父さんの名は林忠之さん、日本語教育世代として戦前の台湾生まれの日本人をテーマにした長編ドキュメンタリー映画『湾生いきものがたり』(林雅之・監督/2018)にも出演したらしい。「神戸桜口町三丁目」で中国風の家具を売る店を開いていたこともあった。
義二路の左手に入っている小さな路地の裏に、基隆のこのあたりの歴史について詳しく記した展示があった。路地の入口の両脇には、日本時代にここにあったお店「松元蒲鉾店」「徳利信洋服」の暖簾(のれん)も再現されている。基隆は今、要塞司令部を中心にどこも大がかりな整備を行っていて、文化と歴史と観光を組み合わせた新しい「旅」を提案しようとしている。それを後押しするのは、基隆の経てきた歴史文化を見直し、大切に育もうとしている、こうした地元の方々なのだろう。
散歩のゴールは、中正公園だ。日本時代には基隆神社があった場所で、今は忠烈祠となっている。階段を上ったところには狛犬さんがいて神社の面影が残っていた。150年前にはこの丘から、浅瀬の砂浜が広がる入江を見渡せたことだろう。
さきほど宝石店を出た時に急いで追いかけてきた秋瑾さんが、「お腹がすいたら食べて」とくださったお菓子をひとつ口に入れた。日も暮れて、霧雨が空気を濡らし始めた。基隆は雨の多い街として名高く、「雨都」の異名をもつ。砂浜はもう見えず、波の音も聞こえずとも、雨都に漂う水の気配はやさしい。
バナー写真=金子常光画・『基隆市大觀』(「聚珍臺灣」提供)