松山英樹、マスターズ制覇:史上初の快挙を演出したもの
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偉業の上に大を付けたジャンボ尾崎
この原稿を書くに当たり、松山英樹がマスターズで優勝したことをどう表現すればいいのか、ずっと悩んでいた。偉業、快挙、金字塔、大アッパレ?……頭に浮かぶのは陳腐な言葉ばかり。彼がやってのけたことは、そんなありきたりのフレーズではとても言い表せない。どんな言葉を使っても空疎に感じられるほど大変なことだったのだ。
日本選手が初めてマスターズに出場したのは、1936年の第3回大会のことで、陳清水、戸田藤一郎の2人だった。以来、実に85年。その間の出場人数は松山を含め33人、選手がプレーした回数は今回で延べ133回目だった。筆者は89年にゴルフ担当になってからオーガスタに行くたびに「日本人初のメジャー獲りへ、○○が悲願のマスターズ制覇に挑む」など、勇ましいフレーズを何度も書いてきた。時々、その期待が膨らむような場面もあった。
でも最後は青木功、尾崎将司、中嶋常幸のAONをはじめ、尾崎直道や丸山茂樹ら日本の男子ゴルフの黄金時代を築いた男たちが厚い壁に跳ね返され、うなだれる姿を、これでもかと見せつけられてきた。そういう経験をした古株の記者からすると、本当に筆舌に尽くし難いとしか言いようがない。
だから、ジャンボ尾崎がメディア各社に祝福のコメントを寄せるに当たり、「ゴルフ界の大偉業」と偉業の上に「大」を付けたのも、TBSの実況席で中嶋が感極まって「こんな日が来るとは思わなかった。こういうシーンを見られて幸せだね」とおえつした気持ちも本当によく分かる。分かると書くと、レジェンドの二人に「プロでもないのに、何が分かるんだ」と突っ込まれそうなので、ご同慶の至りですと言い換えたい。
東日本大震災の被災者から受けた激励
ゴルフ界ではマスターズと全米オープン、全英オープン、全米プロの4つをメジャーと呼んでいる。でも、その中でもマスターズは別格だ。中嶋も「マスターズはプロが一番勝ちたい試合なんだ」と言う。もちろんプロというのは、世界中のプロという意味だ。1980年代後半から90年代半ばにかけて最強と呼ばれたグレッグ・ノーマンや、欧州ツアー7年連続賞金王の赤鬼コリン・モンゴメリー、そして南アフリカの天才アーニー・エルスら数多くの名手がそのタイトルを切望しながら、ついにグリーンジャケットに袖を通すことができなかった。ノーマンは3日目を終え2位に6打差をつけていながら、最終日、ニック・ファルドに大逆転されてしまった。それほど、勝つのが至難の大会なのだ。
この優勝にはもう一つ、感慨深いものがあった。今年は東日本大震災から、節目の10年目。忘れもしないあの2011年3月、前年のアジアパシフィックアマチュア選手権で優勝し、マスターズの出場権を得ていた松山は当時、宮城県内にある東北福祉大ゴルフ部の寮で悩んでいた。被災地の惨状を目の当たりにして、とても勇躍、マスターズに挑むという気持ちになれなかった。自分は行ってはいけないのではないか。悩みは深かった。
だがそんな松山を、逆に東北の人たちは温かい言葉で励ましてくれた。電話やメールの激励メッセージが数多く手元に届いた。その中には「松山君、絶対にマスターズに行け、とにかく行け、大丈夫」と書かれたものもあった。そうした心のこもった言葉に背中を押される形で出場を決意。オーガスタではその期待に応えるように、持てる力を出し切って27位に入り、日本人初のローアマに輝いた。そして、帰国するとすぐに被災地でボランティア活動に励んだ。松山の実直な人柄をしのばせる行動だった。
「10年前にここに来させてもらって、自分が変わることができたと思っているので、10年が早いのか、遅いのか分からないですけど、こうやって、その時に背中を押してくれた人たちに、またいい報告ができたのは良かったかなと思います」
グリーンジャケットを着て臨んだインタビューからは、今でも変わらない被災地への深い思いが伝わってきた。マスターズから帰国した直後のリモート会見でも「10年前に大変な時に送り出してもらったという感謝の気持ちは忘れていないです」と東北の人たちへのお礼の言葉を口にした。
けがに悩まされた苦難の日々
マスターズのローアマで自信を付けた松山のその後の活躍は、改めて書くまでもないので省かせてもらう。ただ、ここまでの道のりが平たんだったかというと、決してそんなことはない。
特に、2017年にブリヂストン招待で勝って以降は苦しい時期が続いた。2018年には左手親指付け根のけがに襲われ、誰よりも練習をすることで自らのゴルフを作り上げてきた男が、思う存分ボールを打てなくなった。同箇所の痛みに悩まされ、第一線から退いていった選手が少なくなかったこともあり、「一生ゴルフができない怖さ」さえ覚えたこともあった。
飯田光輝トレーナーら周囲のスタッフの懸命のサポートでけがは癒えたが、スイングの悩みは続いた。頭の中のイメージと実際に出るボールの軌道がマッチせず、「どこを直していいか分からない」とアマチュア時代の映像を見直すことすらあったと聞く。それでも、過去の日本選手の成績と比較すれば、十分な結果をキープし続けていた。だが、常に高いレベルを見据え、妥協を許さない男にとって、それは満足のできるものではなかった。
不振から脱却できた「チーム松山」の存在
そんな生真面目でひたむきな松山の大きな支えになっていたのが、飯田トレーナーや早藤将太キャディーら「チーム松山」の存在だった。
マスターズ前週のバレロ・テキサスオープンのこと。初日に好スタートを切りながら、その後失速した松山はプレー中にイライラを募らせた。
「早藤キャディーに当たったり、チームのみんなに迷惑を掛けたりした」
だが、その時に「なんでこんなに怒ってるんだろう、なんか自分にあきれたっていうか、ハッと気付くことがあった」。
それが転機になった。オーガスタ入りしてからは、自身の調子が上がっていく手応えを感じていたこともあり、「今週は怒らず、ミスは受け入れていこうという気持ちでやっていました。やっぱりチームのみんながいるからこそ、そういう時でもわれに返ることができた。マスターズの前で良かったなっていうのはありました」と頼りになる仲間たちに感謝した。
今年はそこにもう1人、心強いメンバーが加わったのも大きかった。女子プロの河本結や有村智恵らを指導している目澤秀憲コーチだ。それまでは技術面の課題は、松山が1人で背負い込んでいたが、2人で話し合って解決する時間が持てるようになった。
当初はなかなか結果が出なかったものの、データや映像を確認しながら一つずつ修正。
「自分ひとりでやってきて、自分が正しいと思い込み過ぎていた。(目澤コーチに)客観的な目を持ってもらい、正しい方向に進んでいる」
目指す道筋が明確になり、メンタル面も安定したことで、世界中のゴルフファンが注目する優勝争いの最中に、ミスをしても笑顔を見せるゆとりがあった。
米国スポーツ界を象徴する大会で優勝した意義
松山の勝利は米国の主要メディアでも大きく報道された。「この先10年、15年にわたって世界で活躍するプレーヤーの競技人生の始まりを我々は見ているのだと思う」。AP通信はメジャー優勝18回を誇るゴルフ界の帝王ジャック・ニクラウスが、ホストを務める米ツアーのメモリアルトーナメントで、14年に松山が優勝した際に語ったコメントを引用し、「その瞬間が日曜日にやってきた」と報じた。
そのニクラウスはツイッターで「英樹は日本で永遠にヒーローになるだろう」「彼にとって、日本にとって、そして世界のゴルフ界にとって最高の日になった」とたたえた。
米国の保守的な南部のジョージア州にあるオーガスタで、アジア人が米スポーツ界のシンボルの一つでもある大会で初めて勝ったことは、とても意義があることだ。
だが、改めて言うまでもないが、ここが松山のゴールではない。日本選手の前に、長い間立ちはだかっていた岩盤を突き破ったことで、彼が一段上のステージに上がったことは誰もが認めるところだろう。中嶋も「今までとは違う自信を持って、メジャーに臨めるようになった。他の選手が彼を恐れる要因が増え、格が違う選手になった」と話す。
まだ29歳の松山には、ニクラウスやタイガー・ウッズらわずか5人しかやったことがない4大メジャー全制覇のグランドスラムの夢さえ膨らむ。これから彼がどんな伝説をつくっていくのか、楽しみでならならない。
バナー写真:早藤将太キャディー(左)と共にマスターズの優勝トロフィーを持つ松山英樹 2021年4月11日、オーガスタ・ナショナルゴルフクラブ(ジョージア州オーガスタ) AFP=時事