差別と闘う中で社会の変化も実感:アイヌ文化奨励賞を受賞した「とかちエテケカンパの会」物語(後編)

社会 文化

テレビの情報番組でひどい「差別事件」が発生するなど、アイヌの人たちを取り巻く環境はまだまだ厳しい。一方、最前線で差別と闘ってきた同会の芦澤満事務局長は、前向きな「社会の変化」も感じている。

「兄ちゃんが行ってたから俺もエテケに通うようになって、アッシーが車で送り迎えしてくれた」(荒田裕樹さん)

「アッシーのおかげで今の俺があると思ってる。家に泊まりに行って勉強を教えてもらったこともある。学校の先生よりも踏み込んで、俺のことを真剣に考え、一緒に悩んでくれた」(酒井学さん)

「エテケには遊びに行ってる感覚だったから、“勉強しなさい”ってアッシーにメッチャ注意されるのをウザいと思ってた。その時は嫌いになりそうだったけど、大変なことをしてくれていたのが大人になって分かった」(酒井真理さん)

とかちエテケカンパの会の取材をしていると、OBや関係者の口から「アッシー」という言葉が頻繁に出てくる。木村マサヱさんとともにエテケに設立から関わり、現在は事務局長を務めている芦澤満さん(54)のことだ。

芦澤満さん
芦澤満さん

深く刺さったアイヌ女性の言葉

芦澤さんは北海道名寄市で育ち、新潟市の私立高校に進学。在学中に犬養道子の小説『人間の大地』、バンド・エイドの歌「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」やUSAフォー・アフリカの「ウィ・アー・ザ・ワールド」に触発され、飢餓に苦しむ人ためにエチオピアで農業支援に取り組みたいと考えるようになった。そして1年浪人して農業研究開発室のある帯広畜産大学に進学する。

1987年、大学2年生の時に、北海道大学で開かれた農業問題研究会の全道大会に参加。その大会で登壇した年配のアイヌ女性の言葉が、彼の未来を方向づけていく。

「おばあちゃんがいろいろ語ってくれたんですが、最後は“シャモ(和人)は北海道から出ていけ!”と言って話が終わりました。北海道庁爆破事件(※1)を念頭にした、和人に対する批判です。僕は、“なんだ、せっかく聞きにきたのに”と憤慨しました」

しかし、深くは考えなかった。翌年の夏に芦澤さんはカナダに渡り、農家や酪農家、養豚場、キリスト教の研修所を訪れて仕事を手伝いながら放浪する。しかし、米国に入って移動を続けるうちに所持金が底をついてしまう。クリスマスのニューヨークで芦澤さんは、ある思いに囚われていた。

「北海道生まれですから、僕がいなければアイヌの人たちを踏みつけることはなかった。思い詰めて、アメリカで野垂れ死にするつもりでした。知らないうちに、あのおばあちゃんの言葉が深く刺さっていたんです」

1989年冬、なんとか移動を再開した芦澤さんは、ミネソタ州で二人の日本人留学生と知り合った。彼女たちは、アパルトヘイト下の南アフリカを舞台にした映画『遠い夜明け』の話をしていた。

「一人が、“黒人は南アフリカ生まれの白人も受け入れないといけない”と言ったんです。頭をハンマーで打たれたような衝撃を受けました。アイヌの人たちが受け入れてくれるなら、僕は北海道に戻れるかもしれない。それを言った彼女が実はアイヌだったことを、後になって知りました」

差別と闘う「アイヌと和人」のコンビ

帰国後、芦澤さんは帯広市内の私立高校の教員からアイヌの高校生二人の家庭教師を頼まれる。二人と触れ合ううちに、もっと多くの子どもたちが学びたがっているのではないかと察した芦澤さんは、そのころアイヌの一人親世帯の経済支援に取り組んでいた木村マサヱさんと出会い、エテケが始まった。その時、木村さんは41歳。芦澤さんは24歳で、まだ大学4年生だった。

木村マサヱさん
木村マサヱさん

学校で差別の問題が起こるたびに木村さんと芦澤さんは対応に追われた。木村さんは語る。

「いじめに遭った女の子がいたから、担任をうちに呼んだ。“アイヌというだけの理由で学校行けなくなるのはどうかと思いますよ”って言ったっけ、その女の先生が“いや、べつに何も言いませんし、何もしません”って言うんだ。“あのね、何もしませんっていうのは、みんなして構わないってことでしょ? それもいじめだって分かんないのか”って言ったっけ、先生が泣き出してね」

芦澤さんは大学生でありながら、アイヌの子がいる家庭や小学校への訪問を繰り返していた。海外で働く夢も捨てきれず、かといって、アイヌの子どもたちとの関わりを絶ってしまうのは無責任に思え、進路に悩んでいた。そして1991年4月、大学の恩師の勧めで面接を受け、帯広市の私立高校の教員に採用された。しかし、エテケの活動を投げ出すことはできなかった。問題が起きたと勤務時間中に連絡が入ると、“ちょっと抜けます”と言って、あちこちの小学校や中学校に駆け付けた。

「差別された子は下を向いてポツンと立っています。勤務先の高校にもアイヌの子が通っていたのですが、ある日、黒板に“アイヌ死ね”と書かれました。それも一度ではありません。当時住んでいた大空町の家の裏にある公園の滑り台にも同じ言葉を見つけました。ありとあらゆる悲惨な現場に立ち会いました。先生たちは“アイヌのことをどうやって教えたらいいのか分からない”と言うんです。僕も難しいと思いました」

芦澤さんはそこまで言うと少し沈黙し、そして続けた。

「エテケを始めてしばらくは、お母さんたちから強く言われていました。“アイヌのことは絶対に教えないで”と。タイミングを待つしかないと思いました。学校でいじめられ、無視される中で、アイヌの子たちが自らの血を受け入れ、自信をもって生きていけるようにするには、基礎学力の習得が必須だと考えました。そうすれば、高校に行ける。頑張れば大学にだって行ける。進路が開けて、もっと幸せな生活ができ、流れている血を受け入れられるようにきっとなる。そんな希望を伝えたかった」

先住民族同士のつながり

その後、芦澤さんの発案でエテケは活動の幅を広げ、1995年、98年、2001年に子どもらがカナダを訪問。2010年には台湾を訪れ、現地の先住民族と交流した。酒井さんは第1回、真理さんは第2回、荒田さんは第3回のカナダ旅行に参加。荒田さんは、カナダで自分は変わったと語る。

「ヘイルツク民族の同年代の男の子と話して、学校で嫌なことがあったとか、同じような境遇にあるのを知った。それから互いの踊りを披露したんだけど、ヘイルツクの子が上半身裸で声を張りあげて踊る姿がカッコよすぎた。俺、何やってんだろうと思ったね。保存会(帯広カムイトウウポポ保存会(※2))に入っていたけど、遊び半分だったから。帰国後は真剣に取り組むようになったよ」

一方、芦澤さんの感想は控えめだ。

「先住民族のつながりを感じたと、みんなが言うんです。そこは和人の僕には分からないですね。分からないままでいいと思います。先住民族同士という意識が芽生えたのは、予想を超えていました」

酒井学さん、真理さん夫妻の双子の息子たちは小学1年からエテケに通い、2020年に高校に入学した。学さんは「息子たちもそのうちカナダに行けば、きっといい経験するんじゃないかな」と言って目を細めた。

変わりつつある地域・社会

エテケの設立から30年が過ぎた。ほかの地域の団地と同様に、大空団地も過疎化が進んでいる。取材したエテケOBの3人も、団地を去っていった。初期には30人ほどいたエテケの生徒は、少子化の影響もあって小学生から高校生まで合わせても3分の1になった。そこに不登校の子はいない。芦澤さんは語る。

 「社会が変わりました。毎年、僕の学校にもアイヌの子が入ってきますが、さらっとカミングアウトします。“私、アイヌなの”って。昔だったらあり得ないです」

エテケカンパに通う子どもたち。毎週木曜日が活動日で、キャンプや運動会、遠足など、親子で参加できるイベントも定期的に開かれている
エテケカンパに通う子どもたち。毎週木曜日が活動日で、キャンプや運動会、遠足など、親子で参加できるイベントも定期的に開かれている

1997年に旧土人保護法に代わり制定されたアイヌ文化振興法が学校教育に果たした役割は大きい、と芦澤さんは指摘する。

「この法律を契機に、北海道内の小学校ではアイヌ文化を授業で取り扱うようになりました。例えば、帯広市の小学4年生の教科書は記述が丁寧になり、ページ数もかなり増えました。アドバイザー制度を用いて、アイヌの人を講師として招くこともできます。学芸会で、子どもたちがアイヌ古式舞踊を披露する小学校もあるんですよ。アイヌのことをどう教えたらいいのか分からなかった先生たちが、その方法を得たんです」

芦澤さんは顔を輝かせて続ける。「お母さんたちも変わりました。今は生活館でアイヌの刺しゅう教室をやってますからね。“アイヌのことは教えないで”と言っていたのがうそのようです」

そして2020年10月、エテケは長年の教育支援活動が評価され、アイヌ民族文化財団主催のアイヌ文化奨励賞を授与された。

「今でも毎週木曜日、子どもたちに会い、感謝と感動で胸が熱くなります。集まることで子どもたちが癒されると同時に私たちも癒されています。この関係はお互いのものです」と述べて芦澤さんは話を結んだ。

多くの人たちの闘いと努力の積み重ねで、社会は少しずつ良くなっているように見える。しかし──。今年3月12日にテレビの朝の情報番組で、アイヌに対する差別発言が全国に流された。それは引用するのもはばかられる陰湿な言葉で、昔から和人がアイヌを侮辱するときに投げつけてきた「定番」のフレーズだった。そして、SNSでの差別や誹謗中傷、デマの投稿もあとを絶たない。夜明けはまだ遠いのか。

「将来はマクドナルドの店員になりたい」「男は体育だよね。バドミントンが好き」「エテケは鬼ごっこだけ楽しい」──休憩時間に話してくれたエテケの子どもたちの笑顔を守るために何ができるのか。差別はされる側ではなく、する側の問題である。傷ついて固く握りしめた手にそっと重ねるのは、あなたの手でもいいはずだ。

(掲載写真は全て2020年2月撮影)

バナー写真:帯広畜産大学の学生に勉強を教わる「とかちエテケカンパの会」の子どもたち

(※1) ^ 1976年3月2日、北海道庁1階エレベーターホールに置かれた時限式消化器爆弾が爆発し、職員2人が死亡、95人が重軽傷を負った事件。地下鉄駅のコインロッカーから「東アジア反日武装戦線」を名乗る犯行声明文が見つかった。その書き出しは〈すべての友人の皆さんへ。私たち日帝本国人は、アイヌ、沖縄人民、チョソン人民、台湾人民、部落民、そしてアジアの人民に対する日帝の支配を打ち砕いていかなければならない〉。となっていた。

(※2) ^ アイヌの歌謡や舞踏、儀式の伝承保存活動をおこなう団体。「十勝アイヌウポポ愛好会」を前身として1964年に結成された。84年に国の重要無形民俗文化財に指定された。

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