アイヌの子どもを支えて30年:文化奨励賞を受賞した「とかちエテケカンパの会」物語(前編)
社会 文化- English
- 日本語
- 简体字
- 繁體字
- Français
- Español
- العربية
- Русский
「エテケをやる話が出た時、“マサヱのバカ、なぁにが子ども集めて勉強会だ”って、そこらの連中がみんなして悪口言ったんだ。ところがいざ始めたら、子どもがたくさん集まった。学校に行かんくても、勉強会には来たんだよ」
1990年6月から続くアイヌの子弟のための私塾「とかちエテケカンパの会」の会長の木村マサヱさん(72)は設立のころを振り返り、そう語った。「エテケカンパ」は「手を重ね合わせる」という意味のアイヌ語だ。子どもたちを守り、育んできたこの会にふさわしい名前に感じる。本稿では、関係者やOBが略して語るのに倣い、以下、「エテケ」と記す。
エテケ設立の4年前、1986年の「北海道アイヌ生活実態調査」(※1)によると、アイヌ子弟の大学・短大進学率は8.1%で、地域の進学率27.4%と比べ19.3ポイント低かった。また、同調査で差別について「受けたことがある」と答えた人のうち、「どのような場面で」という質問の答えは、「学校で」「職場で」「結婚のことで」が毎回上位を占める。子どもが安心して学べる場が求められていた。
エテケは毎週木曜日に帯広市生活館(※2)で開かれる。教員や大学生、僧侶らがボランティアとして勉強を教えるほか、キャンプや運動会、遠足、クリスマス会、入学と卒業を祝う会など、親子で参加できるイベントも定期的に開かれている。活動費は寄付で賄われ、無償で学習と遊びの場を提供。これまで300人近くの子どもたちを送り出してきた。
当初は母子家庭と不登校の子どもを対象にしていたが、基本的にアイヌの子であれば誰でも受け入れるようになった。「“お前も勉強会に来い”って子どもが子どもを呼んだの。私はそれでいいと思った」と木村さんは語る。
差別と貧困の中で過ごした木村さん
木村さんは1949年、帯広市の東隣にある中川郡池田町に生まれた。その別保(現・高島西地区)という小さな集落には、アイヌの家とアイヌの養子になった和人の家、約30軒がひっそりと建ち、木村さんが子どものころは、口にシヌイェ(入れ墨)を施した高齢女性の姿も見られたという。58年に母親が33歳の若さで病死。その時、木村さんは9歳で、7歳の妹と4歳の弟がいた。
「母親が結核性の肺がんで病院に入り、付き添いをしていた私も腹膜炎にかかって1年半入院したんだ。卒業式の日も病院にいたんだよ。4年生から6年生までの大事な時期に学校に行けなかったから、分数もローマ字も分からなかった」
木村さんが義務教育を受けた1950〜60年代は、アイヌ差別が今よりも露骨で激しい時代だった。
「中学1年の時、体がちっちゃくて、めんこい顔をした農家の息子がクラスにいた。その子にアイヌってバカにされて頭にきてね、椅子で頭をぶん殴ってやった。もう学校来なくてもいいわと思って、先生にも言わずに帰った。もう情けなくて情けなくて…。帰り道の途中の草むらに座って、泣きながら四つ葉のクローバーを探したんだ」
ほどなくして、次は父親が失踪。3人きょうだいは父方の叔母の家に預けられ、その後に帯広の養護施設に入所することとなった。
「施設に入ったおかげで2年生から毎日中学校に行けるようになったけど、英語は一切分からない。親切な友達がいて、放課後にローマ字から教えてくれた」
家のない木村さんは、卒業式の翌日から住み込みで働く。差別と貧困が木村さんから学びの楽しさを奪っていった。そのくやしさと悲しみが、のちに木村さんがエテケを続ける原動力となった。
エテケは安心して遊び、学べる場
アイヌの子どもたちにとってエテケは、和人のクラスメートにいじめられる学校とは違い、ウタリ(同胞)だけの環境で安心して学び、そして遊べる場所となった。最初期の生徒だった3人に証言してもらう。帯広市在住の主婦、酒井真理さん(39)は、設立の翌年(1991年)からエテケに通った。
「行ってる子から“真理たちも来ればいいのに”と言われて、小学4年から通った。それまで私もきょうだいも外で友達と遊んでなかったから、週1回そんな集まりがあるなら参加させようと親も考えて行かせてくれた」
2020年に開館した「ウポポイ(民族共生象徴空間)」の職員に採用され、今は白老町に住んでいる荒田裕樹さん(35)は、小学校1年だった1992年から通った。
「エテケに行けば同年代のアイヌの友達と会えて、一緒に遊べるのが大きかった。週1回の楽しみだった。でも、勉強したのは小学校まで。中学生になったら行くには行ったけど、友達と裏の公園でたばこを吸ったりしてた。それも楽しかったよ。俺はちょっとやさぐれて足が遠のいた時期があったけど、高校卒業まで顔は出していた」
酒井真理さんの夫で自動車整備士の学さん(44)は、高校1年の93年から。
「小学生のころから遊んでばかりで勉強しなかったからさ、割り算は分からんし掛け算も危うかった。“せっかく高校に入っても留年するからエテケに行け”とオカンに言われて、そっからお世話になった」
3人は当時、帯広市大空町にある大空団地に住んでいた。
内風呂がなかった帯広の「アイヌ団地」
大空団地は帯広市の人口増加に伴い建設された、人口1万人規模の集合住宅群だ。市中心部から南西に約8キロ離れたエリアで1967年に造成が始まり、70年に完成。市内と周辺に住んでいたアイヌの人たちの多くが移り住んだ。
71年から2018年まで北海道アイヌ協会の帯広支部長を務めた笹村二朗さん(87)は、帯広アイヌの生き字引だ。3人のひ孫も現在エテケに通っている。大空団地とアイヌの関係について、笹村さんはこう話す。
「伏古、音更、幕別、芽室、池田、利別──あちこちのコタン(集落)のアイヌが大空団地に入れられた。だから、あそこは昔“アイヌ団地”と言われとった。アイヌをそこに追いやるのはまだいいとしてよ、いちばん酷かったのはアイヌが入れられた住宅に風呂がなかったことだ。和人の住宅は木造二階建てで、下にちゃんと風呂があった。もちろん差別だ。銭湯があったんだが、アイヌは裸を見られるのが嫌なんだ」
木村マサヱさんも、かつて大空団地に暮らしていた。中学を卒業してすぐに家政婦として働き、結婚後は道内各地の建築現場の宿泊施設で炊事の仕事をした。団地の完成時は出産・子育てに追われている時期で、一家で移住した。
「大空に向かう日、バスに乗っても遠くて遠くて、どうしてこんなところに住むんだろうと思った。でも、いざ着いてみると、新築できれいだし、トイレも水洗だった。ただし、お風呂がなかったのよ。当時は団地の中に銭湯があったけど、アイヌを小バカにする人が多かったから、行くと嫌な思いするんだ」
1985年生まれで、今回取材したOBの中で最年少の荒田さんは、団地での暮らしを次のように回想する。
「俺が子どものころ、大空団地にはアイヌとワルしかいなかった。というか、アイヌも和人も悪かった。帯広市内で下水道が整備されたのは大空が最初だったと聞いている。それで、団地のまわりにモダンな一軒家が建っていった。そんなところに小学校と中学校があるからさ、俺らアイヌは和人の子からずいぶんいじめられたよ。その後はいじめられたままの人、立ち向かっていく人、同じアイヌでも生き方が2通りに分かれていった」
今回の取材では、木村さん宅を訪ねる前に酒井さん夫妻と荒田さんに会っている。「マサヱさんには会ったほうがいい、うそがない人だから。ちょっと話を盛るけどね。きかねえ(やんちゃな)猫がいるから気をつけて」と言って荒田さんは笑った。3人に会ったことを伝えると木村さんは言った。
「昔の子どもらは行儀の悪い、どうもならん奴しかいなかった。裕樹たちに会うといつも言うんだ。“お前らと違うぞ、いまの子は”ってね。だからって昔の子らが憎たらしかったわけでない。みんなめんこいんだ」
(後編に続きます。掲載写真は全て2020年2月撮影)
バナー写真:活動日に集まった小学生と、勉強を教える帯広畜産大学の学生ら。子どもたちは学校の話を楽しそうに語ってくれた