元阪神タイガース林威助が台湾プロ野球で伝えたい日本での学び

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鄭 仲嵐 【Profile】

台湾の野球選手にとって、日本のプロ野球でプレーすることは、野球人生の中でも輝かしいキャリアとなる。この30年間、多くの台湾出身選手の活躍に触発され、日本に「野球留学」をする学生が増えている。かつて阪神タイガースで活躍し、現在は台湾プロ野球・中信兄弟の監督を務める林威助は、野球留学の先駆者だ。

NHKの衛星放送で日本プロ野球を知る

大仁小学校時代の林威助。日本のプロ野球はNHKの衛星放送で知った(林威助提供)
大仁小学校時代の林威助。日本のプロ野球はNHKの衛星放送で知った(林威助提供)

1979年に台湾の台中で生まれた林威助は、子供の頃からNHK衛星放送の野球中継で、「甲子園が熱烈なファンで埋めつくされている」のを見て育った。80年代に 活躍した “二郭一荘”(郭源治、郭泰源、荘勝雄の3投手の総称)が登板する試合をビデオで見てて、王貞治をはじめとする中華民国籍の選手が日本のプロ野球史に残した偉大な記録に憧れを抱いたという。

林は幼い頃から少年野球チームに入っていたが、元々、日本の野球は単なる憧れだった。中学に入学すると、資質を見抜いたコーチが「台北にいる友人が、福岡県の柳川高校の理事長と親しいので、留学を推薦できる」と声を掛けた。

林は「興味はあったのですが、当時は父の身体の具合が良くないため、諦めていました」と振り返る。地元の高校に進学して、夢を先延ばしにしていた1年後、再び日本へ渡る機会が訪れた。父親とじっくり話し合い、最後には「息子の夢だから」と応援してくれた。

「野球はいつまでもできるものではないが、文化や言葉を学ぶことは、留学することでしか体験できない」と、留学の目標を掲げた林は、野球については「甲子園に出る機会があればラッキー」ぐらいに考え、日本行きを決めたという。

父の応援もあって、中学卒業後に九州へ留学。日本野球の薫陶を受ける(林威助提供)
父の応援もあって、中学卒業後に九州へ留学。日本野球の薫陶を受ける(林威助提供)

学生時代の奮闘

1995年、林は単身来日、強豪・柳川高校に入学した。学校があった柳川市は福岡県南部の小さな街で、林は「あまりに田舎すぎて、来る場所を間違えたかと思った」と、来日当初の印象を語った。

筆者が交換留学で福岡大学にいたことを話すと、林は「福岡は大都会ですよ。当時の柳川は本当に田舎でした」とさらに笑っていた。

同期入学のチームメイトは2歳年下で、当初日本語がまったく分からなかった林は、先輩に怒られても、理由が分からず、毎晩、練習後に単語の本を取り出して、必死に暗記した。日本に馴染めず、口では「ホームシックにはなってない」と強がりながら、「実は何度も台湾に帰りたいと思っていた」と林は告白している。

柳川高校時代の林威助。毎日、日本語学習と野球練習に明け暮れていた(林威助提供)
柳川高校時代は、日本語の習得と野球練習に明け暮れた(林威助提供)

しかし、次第に林は田舎で野球をすることの良さに気づいていった。娯楽がないので、野球に集中できるのである。平日は練習に明け暮れ、週末は対外試合。野球部には「休みらしい休みはなかった」が、チームメイトと努めて日本語で会話し、練習に専念したことで、目覚ましい進歩を見せ、特に打撃力で多くのプロ球団から注目される存在となった。

「プロのスカウトが見に来てるぞ!」 高校時代に監督にそう言われたことがあった、と林は振り返る。当時のプロ野球の規定では、外国籍の者が「日本人枠」でプロ野球選手になるには、日本で5年間の教育を受ける必要があった。そのため、林は近畿大学への進学を決めた。

高校在学時にプロ野球球団から注目された林威助だったが、「日本人枠」取得のため、近畿大学に進学した(林威助提供)
打撃力でプロから注目された高校時代(右から3人目)(林威助提供)

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ニッポンドットコム海外発信部スタッフライター・編集者。1985年台湾台北市に生まれ、英ロンドン大学東洋アフリカ研究学院卒。在学中に福岡に留学した。音楽鑑賞(ロックやフェス)とスポーツ観戦が趣味。台湾のテレビ局で働いた経験があり、現在もBBC、DW中国語や鳴人堂などの台湾メディアで記事を執筆。著書に『Au オードリー・タン天才IT相7つの顔』(2020,文藝春秋)。インディーズバンド『The Seven Joy』のギタリストとして作曲と作詞を担当している。

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