元阪神タイガース林威助が台湾プロ野球で伝えたい日本での学び
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阪神・左のスラッガーの系譜
プロ野球が開幕した。阪神タイガースの新人、近畿大出身の佐藤輝明は、オープン戦からホームランを連発し、「怪物ルーキー」と注目を集める。阪神には、1980年代の掛布雅之やバースに始まり、90年代にはトーマス・オマリー、2000年代に入ると、金本知憲に桧山進次郎と、各年代を通じて左のスラッガーが存在した。
今から19年前の02年、台湾出身の林威助(リン・ウェイツゥ)も、同じく近畿大学からドラフト7位で入団し、タイガースの有望新人と称された。
現役引退後は、18年から台湾プロ野球・中信兄弟の2軍監督を務めていた林は20年12月に1軍監督に昇格し、今季から采配を振る。21年2月中旬、筆者は台湾南部の屏東県にある中信兄弟の春季キャンプを訪れた。熱帯に属する南の地はすでに気温が25度に達しており、選手たちは球場での紅白戦やウエイトトレーニングに汗を流していた。
監督就任後の林は、毎日、現場で選手の状態をチェックしている。日本式の野球の影響を深く受けている彼の言動の一つ一つに、日本のルールや考え方がしみ込んでいる。日本の野球に対する憧れはいつから芽生えたのか?と聞くと、林は少し首を傾(かし)げた後、ゆっくりと「衛星放送を観てからですね」と答えた。
NHKの衛星放送で日本プロ野球を知る
1979年に台湾の台中で生まれた林威助は、子供の頃からNHK衛星放送の野球中継で、「甲子園が熱烈なファンで埋めつくされている」のを見て育った。80年代に 活躍した “二郭一荘”(郭源治、郭泰源、荘勝雄の3投手の総称)が登板する試合をビデオで見てて、王貞治をはじめとする中華民国籍の選手が日本のプロ野球史に残した偉大な記録に憧れを抱いたという。
林は幼い頃から少年野球チームに入っていたが、元々、日本の野球は単なる憧れだった。中学に入学すると、資質を見抜いたコーチが「台北にいる友人が、福岡県の柳川高校の理事長と親しいので、留学を推薦できる」と声を掛けた。
林は「興味はあったのですが、当時は父の身体の具合が良くないため、諦めていました」と振り返る。地元の高校に進学して、夢を先延ばしにしていた1年後、再び日本へ渡る機会が訪れた。父親とじっくり話し合い、最後には「息子の夢だから」と応援してくれた。
「野球はいつまでもできるものではないが、文化や言葉を学ぶことは、留学することでしか体験できない」と、留学の目標を掲げた林は、野球については「甲子園に出る機会があればラッキー」ぐらいに考え、日本行きを決めたという。
学生時代の奮闘
1995年、林は単身来日、強豪・柳川高校に入学した。学校があった柳川市は福岡県南部の小さな街で、林は「あまりに田舎すぎて、来る場所を間違えたかと思った」と、来日当初の印象を語った。
筆者が交換留学で福岡大学にいたことを話すと、林は「福岡は大都会ですよ。当時の柳川は本当に田舎でした」とさらに笑っていた。
同期入学のチームメイトは2歳年下で、当初日本語がまったく分からなかった林は、先輩に怒られても、理由が分からず、毎晩、練習後に単語の本を取り出して、必死に暗記した。日本に馴染めず、口では「ホームシックにはなってない」と強がりながら、「実は何度も台湾に帰りたいと思っていた」と林は告白している。
しかし、次第に林は田舎で野球をすることの良さに気づいていった。娯楽がないので、野球に集中できるのである。平日は練習に明け暮れ、週末は対外試合。野球部には「休みらしい休みはなかった」が、チームメイトと努めて日本語で会話し、練習に専念したことで、目覚ましい進歩を見せ、特に打撃力で多くのプロ球団から注目される存在となった。
「プロのスカウトが見に来てるぞ!」 高校時代に監督にそう言われたことがあった、と林は振り返る。当時のプロ野球の規定では、外国籍の者が「日本人枠」でプロ野球選手になるには、日本で5年間の教育を受ける必要があった。そのため、林は近畿大学への進学を決めた。
近畿大学で得た新たな成長の機会
大学進学で、大都会の大阪に来たことは、野球人生の中で、新たな刺激となった。「近大野球部に入部したとき、先輩の練習を見て、本当に大人の集団だなと思いました」と振り返る。精度の高いプレーには、「思わず身震いがした」という。
野球の名門大学の3、4年生ともなると、身体的にも技術的にも充実し、プロ野球では「即戦力」に近い存在として扱われる。近畿大学は大学のリーグ戦で優勝したばかりで、優秀な選手が集まっており、当初、「自分はレギュラーになれるだろうか」と不安だったそうだ。
しかし、林は適応力と練習熱心さではだれにも負けなかった。1年生から先発レギュラーの座を獲得し、関西学生野球リーグではベストナインに選出された。「高校時代の(野球の)成績も良かったですが、近畿大学での4年間で、本当に大きく変わりました」と振り返る。4年間の大学生活で野球の「レベル」が、台湾のアマチュア野球とは違うことを肌で感じたという。
しかし、膝の故障でプレーに支障をきたすようになり、3年生の時にはレギュラーから外れ、代打での出場にとどまった。4年生になった2002年、プロ野球への志望届を提出した。「高校時代から、プロ入りを目標としていた」という林は、2002年11月20日、品川新高輪プリンスホテルで行われたドラフト会議で、阪神から7位指名を受けた。
「信じられなかった」阪神入団
膝に故障を抱え、指名されるか自信がなかっただけに、名前を呼ばれた瞬間、雷に打たれたように全身に電気が走った。「考えてみれば、今でも信じられないことです」と林は筆者に語った。
林を指名したのは、名将・星野仙一監督だった。「星野さんは鉄拳制裁で有名ですが、本当に選手のことを考えてくれました」と、林は今も感謝の言葉を惜しまない。当時、星野監督やコーチングスタッフは、「まず、けがを治してからプレーしろ」と林を激励したという。
ルーキーイヤーは、けがからの復帰を目指したが、「チームに貢献できないことで、とても不安になった」と心が折れかけた時期もあったという。だが、そんな時、チームトレーナーは林に、目標を立ててこれを達成し、出場の機会を得られるようにと、常に励まし続けた。
2006年、林はついに一軍に定着して活躍するようになる。07年にはシーズン15本のホームランを放ち、阪神の先発レギュラーの一角を占めるようになった。
当時林は外野のレギュラーだったが、 「アニキ」の愛称で親しまれた金本知憲も在籍しており、林は金本を手本として学んだという。「金本先輩は『広島に入団した当初は痩せていて、バッティングのセンスも悪かったが、不断の努力によって自らを鍛えていった』という自分自身の経験を若い選手たちと共有し、激励してくれた」
その後、林は多くのフィジカルトレーニング方法を学んだ。金本の「フィジカルトレーニングによって、故障しづらい身体を作ることができる」という考え方が、金本を「世界の鉄人」にしたのだ、と林は考えている。
林の阪神時代の通算成績は、454試合出場、270安打、31本塁打、通算打率は2割6分4厘であった。
阪神タイガースOBとの交流
阪神に10年間在籍した後、林威助はその野球人生の後期に台湾に戻り、兄弟エレファンツ(当時)に加入した。キャリア後期には指導者となり、2018年に中信兄弟の2軍監督に就任した。
「当時、2軍の練習量は不十分で、施設も良くないと感じていた」と林は言う。しかし、この1、2年で中信兄弟は春季キャンプの施設を大きく進化させた。林は今後、練習量を増やして「プレッシャーをかける2軍」を作り、常に1軍を脅かす存在にしていくと語っている。
林は「根気強さ」が習慣化されると、それが少しずつ未来を変えていくことになり、「毎日少しずつ頑張れば、結果は必ずついてくる」と信じている。
1軍監督の責任はさらに重く、毎試合の勝敗が全て心理的な重圧となる。林は「プレーの細部と戦術についてしっかりと鍛える」という日本流の緻密さを徹底的に実践したいと考えている。
中信兄弟監督に就任した今も、タイガースOBとの交流は続いている。林は「藪(恵壹)さんや安藤(優也)さんに投手の投球フォームの写真を送って、意見をもらったりしています。うちの黄恩賜はいいピッチャーだと言っていました」と笑顔で語る。野手の守備についても、藤本敦士から、意見を求めているという。
振り返ってみると、日本での18年間は、林の人生を大きく変えた。中学時代の林武郎顧問、柳川高校の末次秀樹監督、大学やプロ野球の監督や先輩など、感謝すべき人はたくさんいると言い、「どのステージでも良い先輩に恵まれ、本当に幸運でした」と林は語る。
浮き沈みはあったものの、いずれも適切な時期に適切な人と出会った。「水を飲む時、その源を想う」だけでなく、林威助は日本で学んだ野球の精神を活かし続けて、台湾と日本のスポーツの懸け橋になろうとしている。
バナー写真=鋭い眼光で試合に臨む林威助。2021年、中信兄弟の監督に就任した(中信兄弟提供)