「半日遅れで福島第1原発と同じことが進行していた」 : 第2の危機を救ったリーダーの決断と9kmのケーブル

社会 防災

福島県楢葉町と富岡町にまたがる東京電力福島第2原子力発電所は、人類史上最悪の原子力災害となった福島第1原発から南にわずか12キロの位置にある。同じように津波の直撃を受け、海に面した原子炉の冷却施設に深刻なダメージを受けた。それでも、無事に冷温停止にこぎ着けたのは、なぜなのか。震災から10年の節目に、当時の福島第2原発所長で、現在、日本原燃(本社青森県上北郡六ヶ所村)の社長を務める増田尚宏氏と、増田氏の下で必死の対応に当たった2人に話を聞いた。

あの日まで、津波の具体的なイメージはなかった

地震発生の瞬間、福島第2原子力発電所では出力110万キロワットの沸騰水型軽水炉4基が運転中だった。所長の増田尚宏(当時)は駆け付けた緊急対策室で、運転管理部長の三嶋隆樹(当時)から「4基とも自動停止確認」の報告を受けてほっと胸をなでおろした。原子力の事故対応の基本は、「止める / 冷やす / 閉じ込める」の3つのステップに集約される。その第1段階は無事にクリアできた。

対策室には津波警報の情報ももたらされるが、その時点ではまだ危機感はなかったという。増田は「スマトラ津波の映像は何度も見たことがあったけれど、どれほどの勢いで波が押し寄せて建物を壊すのか、あの日まで具体的なイメージを持っていなかった」と率直に認める。

増田尚宏日本原燃社長(震災当時の福島第2原子力発電所長)
増田尚宏日本原燃社長(震災当時の福島第2原子力発電所長)

三嶋も「あとは、水を入れて100度以下に冷やす通常の手順で進めれば大丈夫だと思っていた。むしろ、440万キロワットの発電所がいっぺんに停止して、首都圏の電気は大丈夫だろうかと気になった」と振り返る。

三嶋隆樹福島第2原子力発電所長(震災当時の運転管理部長)
三嶋隆樹福島第2原子力発電所長(震災当時の運転管理部長)

午後3時30分頃、津波は防潮堤を軽々と越えて発電所を襲った。福島第2原発では、原子炉が緊急停止した際に、熱を海に逃がすための「熱交換機建屋」が、原子炉建屋の海側に各2棟ずつ計8棟設置されている。津波は鉄扉を破壊して建屋内に流れ込み、設備は水浸しになった。原子力事故対応の基本である「止める / 冷やす/ 閉じ込める」の2番目に支障が生じたのだ。

津波は、最も南側にある1号機脇の構内道路を標高16~17メートルまで遡上(そじょう)。緊急対策室がある免震重要棟の周囲も水浸しになっていた。窓がない対策室からは外の様子をうかがい知ることはできなかったが、突然、対策室が停電したことで、増田と三嶋は「これは大変なことが起きているかもしれない」と気付いたという。

原子炉建屋の横の坂道を遡上する津波(東京電力HD提供 / 画像の一部が加工されている)
原子炉建屋の横の坂道を遡上する津波(東京電力HD提供 / 画像の一部が加工されている)

冷却機能を取り戻せ

福島第2は通常、外部から4回線で受電している。そのうち1回線は定期検査中で、2回線が地震の影響で停止したが、1回線が生き残った。これが、命綱となった。対策室の電気は停電を免れた隣の建物からケーブルを引いて復旧。中央制御室でも、各種の計器で原子炉の状態を的確に把握することができた。

プラントの運転管理を任された三嶋は「所長の増田も、私も設計屋。設備をいじめる試験をさんざんやってきている。だから、どんな状況で、どこまで設備に耐力があるか、何かが使えなくなっても、その機能をどう代替すればいいのか判断には自信があった。あとは、運転員の経験と知識をフル活用して、あの手この手を駆使して原子炉を冷やし続けた」

三嶋が時間稼ぎをしている間に、所長の増田は津波で破壊された冷却系復旧に集中できた。復旧には、何はともあれ現状の把握が不可欠だ。余震は断続的に続き、そのたびに緊急対策室では悲鳴が上がった。再び、津波に襲われるのではないかという恐怖の中で、所員を現場の確認に行かせるべきなのか――。

福島第2原発の緊急対策室で指揮を執る当時の増田所長(東京電力HD提供 / 画像の一部が加工されている)
福島第2原発の緊急対策室で指揮を執る当時の増田所長(東京電力HD提供 / 画像の一部が加工されている)

増田はふと思い立って緊急対策室の隅に置かれているホワイトボードに、余震が発生した時間や震度を書き込んでいった。

「所長はいったい、何を書いているのか?」

通りすがるスタッフが立ち止まってホワイトボードをのぞき込んでいく。夜が深まるにつれ、徐々に余震と余震の間隔が長くなっていることが可視化され、自然と皆に伝わっていった。

津波警報は解除されていなかった。それでも、「今、行ってもらわなければ、明日の朝から復旧作業に取り掛かれない。タイミングを間違えれば、原子炉は危険な状態になる」―― 午後10時、増田は10人編成の4班を熱交換器建屋の現状確認に向かわせた。覚悟の決断だった。

増田尚宏日本原燃社長(当時の福島第2原子力発電所長)
増田尚宏日本原燃社長(当時の福島第2原子力発電所長)

その時、現場に赴いた復旧班の1人、井上孝司は想像を絶する光景を目にする。

「扉は津波で壊れ、建屋内は水に浸かり、魚がいる。点検やメンテナンスで見慣れた場所とは思えなかった。設備を確認するまでもなく、これはダメだと判断がついた」という。

井上孝司福島第2原発保全担当、震災当時は復旧班を率いて現場をまとめた
井上孝司福島第2原発保全担当、震災当時は復旧班を率いて現場をまとめた

最後はベントするしかない

現場からの報告を受けて、増田は即座に資機材の調達を指示。モーターは東芝の三重工場や新潟の柏崎・刈羽原発から調達し、ケーブルや電源車もあちこちからかき集めた。東電の支店や協力企業に応援派遣も要請した。

8棟の熱交換器建屋の中で、3号機南側だけは奇跡的に津波の難を免れ、冷却機能が維持できていた。現場では、その電源を分岐して、一列に並ぶ1号、2号、4号にケーブルでつなげば、比較的短時間で冷却機能を復旧できると考えた。

ところが増田は、「せっかく生き残った3号機の冷却系は絶対に守らなければならない。余計な負荷は掛けるな」と現場の提案を却下。直線距離で800メートル離れた廃棄物処理建屋からケーブルを敷設するよう命じる。

ケーブルの太さは約5センチ。1メートルで5キロの重さがある。がれきなどの障害物を避け、建物を迂回しながら敷設したケーブルの総延長は9キロに及んだ。通常であれば重機を使って20人で1カ月を要する作業量だ。東電と協力会社のスタッフを合わせて、総勢200人が13日の深夜までに30時間で成し遂げた。

福島第1の状況が悪化していることは、報道や社内のテレビ会議などを通じて伝わってきていた。「同じことが起こったらという怖さよりも、同じことを起こしてはいけないという思いに突き動かされた」と井上は振り返る。

冷却機能を回復するため、200人がかりで敷設したケーブル(2020年9月撮影)
冷却機能を回復するため、200人がかりで敷設したケーブル(2020年9月撮影)

福島第2原発構内には、今も10年前に人海戦術で敷設したケーブルを引いた後が残っている(2020年9月撮影)
福島第2原発構内には、今も10年前に人海戦術で敷設したケーブルを引いた跡が残っている(2020年9月撮影)

必死のケーブル敷設作業の間、1、2、4号機で圧力抑制室の温度が100度を超え、原子炉格納容器の圧力が設計圧力の限界に近付きつつあった。「止める / 冷やす / 閉じ込める」の3番目も危うい状況だったのだ。増田は「福島第2でも、半日遅れで第1と同じことが進行していた」という。

三嶋は「それまで注水を続けていたので、燃料は損傷していないという確信があった。仮に、格納容器の圧力を下げるためにベントをしても、放射性物質を放出する可能性は低い。最後はベントをすればいい」と覚悟を決めていた。しかし、福島第1に続いて、第2もベントすれば、地元ばかりではなく、日本中がパニックになっていただろう。「そうならないように最善を尽くそう。それをモチベーションにしていた」と話す。

モーターも重機もそろったが…

一刻でも早く冷却系を復旧するため、東芝の三重工場から調達するモーターは、自衛隊に空輸を依頼した。福島空港に到着したモーターを無事に受け取り、トラックで設置場所まで運んだ。ところが、荷台からモーターを下ろすことができない。

平常時、資機材の運搬や据え付けは、協力企業と呼ばれる外部の会社が担当しており、東電の所員は重機を扱う必要もなければ、経験もなかったのだ。「なんだ、うちら何にもできねぇな」極限状態の中で、自分たちの無力さに笑うしかなかった。

結局、わずかに残っていた協力企業の社員の力を借りて、トラックからモーターを下ろして据え付けた。ケーブルをモーターにつなぐには、被覆を剥いで、端子を付けなければならない。ここでも、協力企業の技術者の熟練の技に救われたという。

3月14日、午前1時過ぎにケーブルをモーターに接続。最も不安定な状態だった1号機の冷却システムが復旧した。あと2時間遅れていたら、ベントを実行しなければならなかった。ギリギリのタイミングだった。

地震発生から冷却設備の回復を見届けるまでの100時間、増田は一睡もしなかった。「大変なことになったとは思ったが、絶体絶命とは一度も考えなかった」という。状況を把握し、打つべき手を考え、指示を出す。その繰り返しだった。

冷温停止に成功した福島第2原子力発電所。爆発した「第1」とは異なり、原子炉建屋もきれいに残っている(2020年9月撮影)
冷温停止に成功した福島第2原子力発電所。爆発した「第1」とは異なり、原子炉建屋もきれいに残っている(2020年9月撮影)

「想定外」は起こる

全電源を喪失した福島第1と違い、第2は外部電源を維持する幸運に恵まれた。だからといって、難なく危機的状況を乗り越えたわけではない。苦しい決断を繰り返しながら現場で指揮をとったリーダーと、それぞれの持ち場で「プラントを守ろう」と必死に踏ん張ったスタッフがいたからこそ、事故を回避できたのだ。

福島第1原発の事故から10年がたち、全町避難が続く双葉町など福島県の7市町村に残る帰還困難区域を除き、避難指示は解除された。しかし、旧避難区域の居住率は約3割にとどまる。農業や漁業に携わる一次生産者のみならず、多くの県民がいまだ風評被害に苦しんでいる。事故を起こした東電が免罪されることはなく、未来永劫、事故と向き合い続けなければならない。

このインタビュー記事に、誰かをヒーローに仕立てようという意図はない。しかし、画一的に「東電=悪」と決めつけてしまっては、私たちは貴重な教訓を学ぶチャンスを逸してしまうのではないか。

東日本大震災で私たちは「想定外のことは起こる」ことを知った。防潮堤を高くして、発電所をさらに頑健にしても、さらにそれを上回る想定外が起こらない保証はどこにもない。

増田は、「何が起こっても、止める/ 冷やす/ 閉じ込めるの基本変わらない。想定外があっても大丈夫な発電所を作ろうとするのではなく、この3つのステップをきちんと踏めるよう訓練を積み、臨機応変に対応できることこそ必要だ」と説く。

「無力さに笑うしかなかった」苦い経験から、福島第2原発では、東電の所員がショベルカーやクレーンなどの重機の免許を取得するようになった。今でも、定期的にがれき撤去などの訓練を続けている。

・文中の敬称略

・増田尚宏日本原燃社長へのインタビューは2021年3月5日、三嶋隆樹福島第2原子力発電所長、井上孝司福島第2原発保全担当へのインタビューは2020年9月16日に実施した

・東京電力HD提供写真以外は、ニッポンドットコム編集部土師野幸徳撮影

バナー写真 : 津波で失われた冷却機能を回復するため、人海戦術でケーブルを敷設する福島第2原発の所員ら(東京電力HD提供 / 画像の一部が加工されている)

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