「打狗」から「高雄」へ ――高雄の由来は京都? 東京?
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「高雄100年」京都からの祝福
2020年9月1日、高雄市は「打狗」から「高雄」への改名から100周年を迎えた。これを記念して、高雄市立博物館では新たに常設展を設けた。盛大なオープニングセレモニーでは、門川大作京都市長と北川洋一京都市右京区長からのお祝いビデオメッセージが披露された。
なぜ京都市長と右京区長が揃って祝ったのだろう? 100年前、当時、台湾を統治していた台湾総督府は、元の名である「打狗」と日本語の発音が同じで、漢字が異なる「高雄」の名を選び、新たな名称とした。日本には何カ所か「高雄」の地名があるが、京都市右京区の高雄山が最も有名なので、一般に京都由来と考えられている。
2020年の高雄市長補選では、「この地が高く、雄々しくあってほしいとの願いから高雄と名付けられた」との説を唱える者が現れ、瞬く間に地名がホットな話題となった。教育部も直ちにフェイスブックページで「歴史小教室」をアップ、「高雄」は元の名を「打狗」といい、原住民族の一部族である「マカタオ(馬卡道)」の閩南語(びんなんご)の音訳であり、その語音が京都郊外の「高雄」に音が近いことから「高雄」の文字が当てられたと説明し、「京都由来説」を公式に認めた形となった。
実際には、なぜ「打狗」から「高雄」に改名されたのか、公式の説明はないが、100年前に大きな地方制度改革があったことが関係している。元々台湾の最高行政区域は「廰(ちょう)」であったが、長期にわたる議論と検討を経て、1920(大正9)年8月10日、総督府の府令第47号により、行政区域の新たな調整を発表、それまでの「12廰」を「5州2廰」に改組し、同年9月1日からこれを正式に施行した。
5州2廰は、西部台湾を中心とした台北、新竹、台中、台南、高雄の5つの州、そして東部の花蓮港廰と台東廰であった。また1カ月後の10月1日には、台北、台中、台南の3つの「市」を成立させ、この年は台湾の行政制度が最も大きく変化した年となった。
「打猫→民雄」、「阿緱→屏東」
上述の5州2廰のうち、すでに都市としての形を整えつつあった台北など4州に比べ、改組は高雄州により大きな変化をもたらした。高雄州の面積は、現在の高雄市と屏東県に加え、清朝時代の鳳山県を合わせたものであった。それまで清朝時代より行政・経済の中心は鳳山にあったが、改組後は政・経の中心が港に近い立地の高雄に移り、更に行政区域の名称も「鳳山」から「高雄」に変わった。このため高雄市政府はこの時の改組と名称変更を大きな歴史イベントととらえ、改組から100年目の2020年に、丸1年をかけ、全市を挙げて記念イベントを実施した。
1920年に名称を変更した行政区域は高雄だけではなかった。新しい地名は、元の地名を音の似た漢字に置き換えたり、風光明媚(めいび)な地名にしたり、簡略化して日本風の音にしたりするものだった。 「打猫」は「民雄」に、「阿緱」が「屏東」に、「蕃薯寮」は「旗山」となった。2020年は、「民雄100年」や「屏東100年」でもあるのだが、地元の人たちはこうした歴史を知らず、祝賀行事もなかった。
しかし、「高雄」は本当に京都の高雄山に由来するのだろうか。 歴史学には「積み重ねによって作られた歴史」という言葉がある。即ち、時が経つにつれ、後から生まれた解釈が初期のものに取って代わる事が多いという意味である。従って、この問題を理解するには、歴史の原点に立ち返るべきであろう。
「高雄」の語源は諸説紛々
日本統治時代の公文書には、「高雄」に改名したとの記述は多いが、その経緯についてはほとんど説明されていない。
1923(大正12)年、松本朝吉は《臺灣見聞錄》の中で、本土人が「高雄」を「タ・ク」と呼ぶのは間違いで、「タ・カ・オ」と呼ぶべきだとしているが、由来については述べていない。「高雄」の由来を最初に説明したのは、第6代高雄市長の宗藤大陸(むねとう たいろく)だった。
宗藤は、1939(昭和14)年6月3日付けの「台湾日報」に寄稿した随筆「高雄市とその語源」の中で、1920年に総督府の地方課長だった水越幸一が、「打狗」と発音が同じ「高尾」への改名を提案したが、「尾」は印象の良い言葉ではないため、最終的に、同じ発音で「高く雄々しく飛翔する」の意味を込めて「高雄」にしたと記している。
当時の高雄市長で書いたものなので、内容はそれなりの信憑(しんぴょう)性がある。 興味深いのは、「尾」よりも「雄」の方が漢語として好ましかった、と述べていることである。
もし宗藤の記述が本当なら、高雄の地名は実は「高尾」に因んだものだったことになる。日本で最も有名な「高尾」は、東京都八王子市の「高尾山」だ。八王子市と高雄市は、2006年から姉妹都市提携を結び、市長が相互訪問するなど良好な関係にある。
一方、京都起源説は今も定説となっており、その鍵となる人物が、当時の台湾総督府総務長官であった下村宏である。下村の最も有名な事績として挙げられるのは、1945(昭和20)年8月、昭和天皇が降伏を決意すると、本土決戦を主張する強硬派の将校たちに知られることなく、天皇が降伏を受け入れる内容の「終戦の詔書」を玉音放送としてレコード盤に録音、放送して、さらなる犠牲者の発生を防いだことであろう。
1920(大正9)年前に「高雄」と改名される際、近隣の「打狗山」も「高雄山」と改名され、偶然にも京都市右京区のもみじの名所「高雄山」と同じ名前となった。下村は京都を好み、それ故、京都市内のもみじの名勝である「高雄」の名を「打狗」に使ったと伝えられる。しかし、その根拠を見つけることは未だにできていない。中央研究院台湾史研究所には、日本の国会図書館に所蔵されている下村弘の台湾赴任時代の日記があるが、この日記にも記録はない。
その後、1923(大正12)年に台湾に行啓した裕仁皇太子(後の昭和天皇)が高雄山に登ったことを記念して、高雄山の名称は「寿山」と改められている。
京都か? 東京か? それぞれの根拠
下村の他にも、当時の台湾総督の田健次郎が自分の好きな京都に寄せて改名した説もあるが、下村の名前をその上官であった田に変えただけの可能性が高く、これも歴史的な記録は残っていない。
結局のところ、「高雄」の名は京都由来なのか、東京由来なのか? 名付け親は台湾総督府の地方課長・水越浩一か、その上司である総務長官・下村宏か、それとも総督・田健次郎が名付けたのか? 直接の歴史的事実が見つからない限り、この問題の正確な答えを見出すのは困難だろう。
実際のところ、1920年の台湾における地名変更には、絶対的なルールはなかった。「打狗」が同じ音を持つ「高雄」と改名したように、「錫口」は、似た雰囲気の風景を持つ「松山」に改名された。一方、日本の地名とは関係のないものも多く、例えば「阿緱」が「屏東」に改名された起源についても、歴史家による解明が待たれる。もちろん、高雄の例のように、断言は難しい場合もあるだろう。
歴史学者たちは、これらの地名問題に頭を悩ませてきたが、日台が共有する名前はまた多くの新たな話題も生み出した。例えば、日台双方に「松山空港」があることから、世界で初めて同名の空港間の往来が実現し、また2014年には台湾の交通部観光局と日本の国土交通省観光庁が協力して、日台同名の32組の駅をモチーフとし、日本と台湾とを結ぶ観光企画を実施して好評を博した。
台湾の高雄と京都の高雄との交流が特に注目を呼んだのは、「同名」の面白さがその理由だと考えられるが、一方、「同名」の力を借り、日台の「高雄」が姉妹都市となることが、人々の望む結果であることも、また疑いのないところであろう。
バナー写真 = 日本統治時代の市役所。現在は高雄市立歴史博物館となっている(高雄市立歴史博物館提供)