バラックから世界のソニーへ:盛田昭夫生誕100年

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今日1月26日は、Mr. SONY 盛田昭夫の生誕100周年。ベテラン経済ジャーナリストが企業家精神の塊、盛田の軌跡を描き、人となりを偲ぶ。

戦後日本の奇跡の象徴

米国の代表的な知日派、エズラ・ボーゲル・ハーバード大学名誉教授は1年ほど前、週刊『エコノミスト』(毎日新聞社発行)のインタビューで、「日本からは残念ながらハングリー精神が失われてしまった」と語った。戦後に活躍したような経営者がいなくなったと述べ、例として「ソニーの盛田昭夫」を、本田宗一郎(ホンダ創業者)や松下幸之助(パナソニック創業者)とともに挙げた。

1カ月ほど前の2020年12月にボーゲルが90歳で亡くなった時、日本の新聞は、同氏を戦後日本の経済成長の奇跡を分析した『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(1979年)の著者として大きく報じた。彼の目に映った戦後日本の奇跡の象徴が盛田だったのだろう。

終戦の翌年、25歳で起業

今年1月26日で生誕100年の盛田昭夫は、終戦の翌年1946年5月、戦災の跡が残る東京で井深大とともにソニーの前身である東京通信工業を創業した。その時、井深38歳、盛田は25歳だった。この2人のリーダーシップにより、バラック住まいの零細企業は驚異の成長を遂げて世界のSONYに躍進した。

盛田はマーケティングや経営管理を受け持ち、井深が次々と開発する日本初、世界初のソニー製品を世界中に売り込んだ。71年には米国の週刊誌「タイム」の表紙を飾り、盛田はいわばMr. SONYとして、戦後日本の経済的成功を体現する存在になった。

時代を先取りしたカタカナ社名

「SONY」というブランドと社名は、外国人にも分かりやすい名称が必要だという盛田の発案から生まれた。「東京通信工業」や「東通工」では外国人には正しく発音できない。

井深とアイデアを練って「SONY」の4文字のブランドを決めたのは創業からわずか9年目の55年。3年後には社名も「ソニー株式会社」に統一した。今でこそカタカナ社名やローマ字のロゴは珍しくないが、社内にもいぶかしむ声があった。時代を先取りしていたのだ。

99年の年末、筆者は20世紀の輝かしい米国の産業史を振り返るテレビ番組をたまたまニューヨークで見て驚いたことがある。デュポン社のナイロンなど、米国企業が世界を制する上で推進力となった米国の工業製品が、テロップで次々と画面を流れる中、SONYのビデオテープレコーダーが出てきたのだ。なぜか唯一つの外国製品だった。

「おいしい話」を断る

SONYが国際的なブランドになった背景に、今も語り草になっている盛田の重要な決断があった。1955年、世界で2番目に開発したばかりのトランジスターラジオに早速「SONY」を付けて、米国に売り込みに出かけた時のことである。

大手時計会社が「10万台を買おう」と言ってくれた。生産能力の数倍の量に盛田は仰天したが、相手の条件に興奮はすぐに冷めた。無名のSONYでは売れないから、自社のブランドを付けさせろ。つまりOEM(相手先ブランドでの供給)を求められたのである。

盛田は心中「ノー」と決めて、東京に伝えると、井深をはじめ幹部はみな「受けてもいいじゃないか」という意見だった。しかし盛田は頑として譲らず、受注を辞退した。先方は驚き、「当社は50年かけて有名なブランドにしたのだ」と、無謀な日本人を笑った。盛田はこう切り返した。「50年後には、あなたの会社に負けないくらいSONYを有名してみせます。だからお断りします」と。

もしその時、「SONY」を取り下げてOEMで受注していたら、どうなっていたか。優れた技術を持つ下請けメーカーとしてそれなりに成長したとしても、今のソニーはなかっただろう。盛田には、小なりとはいえ自分たちのブランドで大を成すという、たぎるような企業家精神があったわけだ。

井深のオモチャをヒット商品ウォークマンに

また何が商品として売れるかを瞬時に見抜く嗅覚も天才的だった。ヘッドホンステレオの「ウォークマン」の商品化が典型的な例である。

名誉会長に退いていた井深が小型のテーププレーヤーを特別に作らせたのが発端だった。既存の小型テープレコーダーから録音機能を外してステレオ回路を組み込んで音質を良くした再生機である。海外出張の際に飛行機内で音楽を楽しむための、いわば井深のオモチャである。

会長の盛田は、井深に勧められて再生機を試聴した。なかなかいい音がする。同時に「これはいける」と持ち前のビジネス勘でピンと来た。直ちに商品化に乗り出した。

ところが「録音機能のないテーププレーヤーなんか売れるわけがない」というのが社内の大勢で、販売店も疑問視した。それを押し切って1979年7月に発売すると、たちまち大ヒットして、和製英語のWalkmanが世界を席巻したのはご存知の通りだ。

最高の舞台ニューヨークへ

ソニーのグローバル化を先頭切って進めた盛田のやり方も型破りと言えた。1962年、ニューヨークの五番街にショールームを開設した。国際的にSONY製品の需要を喚起するには世界中の人が訪れるニューヨークのど真ん中が最高の舞台と判断したのだ。世界の企業が競うここに「日章旗を掲げたい」という心意気もあった。

翌63年には42歳で家族ぐるみでニューヨークに引っ越した。生活をしてみなければ米国人の心を真に理解することはできないと考えたからだ。2年の予定とはいえ副社長でありながら外国への移住は、凡人にはとうてい思いつかない。

議論好きの真意伝わらずバッシング

現地に溶け込もうとする姿勢によって、海外の大企業経営者、元首、政治家、芸術家と分野を問わず、多くの友人、知人を得た。しかし、1980年代から日本脅威論が米欧に起き、日米、日欧の通商摩擦が激化する。89年に盛田自身も石原慎太郎と共著で『「NO」と言える日本』を出して、米国の反発を買う。

盛田としては、労働者をすぐレイオフするような経営では競争力は強くならないという具合に率直に助言したつもりだった。その後も、めげずに講演や文筆によって、相互の誤解を解消するために努めた。日本の産業界にも、労働分配率が低い点など「日本型経営」のマイナス面を改めるよう提言し、国内からも反発を受ける。

互いに意見をぶつけ合って最適解を求めるという考えなのだ。「外に対して『ノー』と言うのと同時に、わが国内にもノーと言えなければいけないというのが私の考えです」と『「NO」と言える日本』に記している。

盛田は13歳年上の井深と深い友情で結ばれていたが、個性は違う。仕事で議論を始めるとまるでケンカではないかと思えるくらい激しかった。意見が同じでは意味がないと割り切っていたようだ。盛田は『学歴無用論』という著書があるように、井深と同様、人を学歴はもちろん年齢、性別、国籍などの属性で判断しない。だからソニーでは、盛田と井深だけでなく、上下も関係なく自由に議論できた。

旧家出身、気さくでおおらか

筆者が初対面で感心したのは、会長の盛田は社員と同じグレーの制服を着て現れ、笑顔で気さくに取材に応じてくれた点である。この人が世界の大物たちと対等に渡り合っているのか。威圧感どころか腰の低ささえ感じた。次期経団連会長への待望論が盛り上がったころ、そちらに水を向けても「ご冗談でしょう」と笑って受け流し、いつもと変わらない。

愛知県の知多で酒造業を営む300年余りも続く旧家の御曹司で、戦前、屋敷にはテニスコートに、自動車、電気冷蔵庫があり、電蓄でレコードを聞いて育った。豊かな中で旧家ならではのしつけと教育を受け、おおらかで物おじせず、明るく礼儀正しい洗練された人柄が育まれたのだろう。

1993年に脳内出血で倒れ、闘病6年を経て99年10月3日78歳で人生に幕を降ろした。新型コロナウイルスの流行により内外ともに危機的な状況にある今、戦後の荒廃の中から世界に雄飛した盛田昭夫のような気概のある企業家の再来が求められる。

バナー写真:ソニーの盛田昭夫氏(左)と井深大氏(右)=1992年撮影、共同

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