若林正丈の「私の台湾研究人生」

私の台湾研究人生:近代台湾知識人の輝いた時代――台湾議会設置請願運動百周年を記念する

国際 歴史

1月30日、植民地統治下の台湾で行われた台湾議会請願運動から百周年を迎えた。筆者の脳裏に去来したのは、かつて目撃した1980年代の民主化運動との間での「民主自治の台湾」の発展に向けたビジョンの重なりだった。

台湾議会設置請願運動百周年

植民地下の民主運動として私が想起するのは、やはり前記の台湾議会設置請願運動である。台湾議会設置の請願とは、台湾総督が台湾(台湾島と澎湖諸島)を管轄する行政権と管轄下領域において「法律を要する法令を制定する権限」とを有していることを前提として、「台湾住民より公選せられたる議員を以て組織する台湾議会を設置し、而して之に台湾に施行すべき特別法律及台湾予算の協賛権を附与する」ことを定める法律の制定を帝国議会に求めるというものであった。

第一回の請願は、1921年1月30日、台湾中部の名望家林献堂を筆頭とする台湾住民178人によって、第44帝国議会貴族院衆議院両院に提出された。以後、請願活動は、1934年当局の圧力下に中止を余儀なくされるまで足かけ14年全15回にわたって行われた。請願は最後まで貴衆両院いずれの請願委員会においても採択とならず、中央政府に検討すべき案件として送付されることはなかった。去る2021年1月30日はその百周年に当たっていたのである。

最低の条件からの民主運動の創造

今日から振り返ると、1980年代初めの台北の私に「また再びの」と直感させた戦前と戦後の民主運動には、共通点が二つある。

一つは、戦前1920年代民主運動と戦後の「党外」民主運動とが、それぞれの政治環境下での最低の条件から立ち上がり、しかも支配への抵抗に対する国家による暴力的弾圧に記憶が生々しい、あるいはそれが並行的に展開している情況下で、合法的民主運動を創造したことである。

1920年代当初台湾人は台湾総督府の支配下で参政権といえるものは何ら持たなかった。加えて、台湾西部漢人地域最後の武装反抗事件であるタパニー事件の大弾圧(1915年)の記憶はまだ新しく、また1895年以来の武装反抗鎮圧過程で緻密に配置された警察派出所と保甲制度といういわゆる隣保制度を組み合わせた住民管理と監視のシステムが平地漢人社会を縛っていた。そんな中で当時の台湾知識人が見出したのは(おそらくは日本本国の普選運動などに示唆を受けて)、戦前の明治憲法に規定する議会への請願権(第30条)であった。

これは当時として許容され得る最低限の政治的権利であり、それを梃子(てこ)に運動が創造されたのである。請願活動の開始と前後して、台湾文化協会の「文化講演会」という一種の啓蒙活動である示威運動が始まり、『台湾青年』から『台湾民報』へと発展する台湾人自身の言論活動とジャーナリズムの創設などが請願行動のまわりに結晶し発展して、1920年代台湾の政治社会運動が花開いた。その途次には、植民地期版の美麗島事件とも言い得る「治警事件」(1923年12月)も発生している。当時のいわゆる「内地延長主義」の統治方針に照らして、この運動を違憲とすることができなかった台湾総督府は、日本内地で政治運動を取り締まるために制定した治安警察法を台湾に延長施行して(1923年元旦)、運動の幹部を一網打尽にしたのであった。

『台湾民報』創立記念(財団法人白鷺鷥文教基金会提供)
『台湾民報』創立記念(財団法人白鷺鷥文教基金会提供)

台湾議会設置請願運動百周年は、厳しい条件下でも許容される最低限の権利を被統治民族自らが自覚的に行使して自らを政治主体に形成していったという意味で、台湾の民権運動の百周年でもあると言えよう。

戦後の民主運動にとって1920年代台湾知識人にとっての請願権に当たるものは、地方公職選挙であった。柯旗化先生が「台湾監獄島」と呼んだ(連載第13回)長期戒厳令下の政治的自由の厳しい抑圧の中で、国民党政権がある意味でやむなく挙行し続けた選挙こそ貴重な「自由の隙間」であった。政権による様々のハラスメント、そして1960年の中国民主党、1979年美麗島雑誌社集団による「党名の無い党」結成の挫折を経て、「自由の隙間」は次第にこじ開けられ、1986年国民党一党支配を打破する民進党結成成功に至った。戦後台湾の民主運動は、選挙という「監獄島」の最低限の「自由の隙間」から創造されてきたものであった。

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