史上最強アーモンドアイは、いかにして日本競馬界に授けられたのか
「アーモンドアイの出現が必然となるまでの1981-2020日本競馬史」(下)
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新たなセリ市場の創設が流通機構を変えた
サンデーサイレンスの降臨とともに、筆者が二大転機だと考えるのは「セレクトセール」の立ち上げである。1998年に日本競走馬協会が創設したセリ市場だが、実質的な牽引役はやはり社台グループである。
なにが革命的なのか。これは、お金さえあれば、誰でも気に入った馬を買える時代になったということである。当然のことだと思わないでいただきたい。調教師、馬主、牧場間の庭先(相対)取引が圧倒的な主流を占めていたそれまでは、セリ市場に良血馬が上場されることは少なく、規模も小さく、いささか不透明感もあって、新しい馬主がきてポンと馬を買える場としての機能性は乏しかったのである。
社台グループがサンデーサイレンス産駒を惜しげもなく上場させた。ここに来れば、どんな良血馬でもしがらみを気にすることなく買える、やがてセール出身馬から活躍馬が相次ぐ、さらに多くの良血馬と馬主が参じる。そんな好循環が時代を代表する大オーナーを生み出し、一方でビギナー馬主を受け入れ、セリ市場は海外のバイヤーまで巻き込んでの幅広い信頼性を高めていったのである。
それまでは相対取引が中心だと申しあげた。それは「おつき合い」を大切にする日本の商習慣に寄り添ったものではあり、いい意味で小さくまとまっていた社会だった。しかし、おそらく昭和の時代あたりまでは散見された「ダンナさま」は姿を消していくなかで、調教師は新しいスポンサー(馬主)を見つけにくい、馬主だっていつまでも健康であるとはかぎらない、牧場としては販路が広がらない、みんながそれぞれに悩みを抱えていた頃合いでもあった。
そしてこの膠着(こうちゃく)ぶりは、後述するもうひとつの構造的な悩みを内包していたのだが、それを含めて、セレクトセールから投じられた一石は完全に打ち砕いた。
第1回セレクトセールの上場番号1番はサンデーサイレンスを父に持つ当歳牡馬だった。落札したのは後に日本ダービー4勝など、伝説的オーナーと呼ばれることになる金子真人氏。筆者は金子氏の真後ろにいて、そのときのことをはっきり覚えている。隣には夫人が座られているだけで、自身が見立てた馬を淡々と落札された姿が印象的だった。そしてこのシーンは、後に重要な意味を持つことになると、筆者は直感したものだった。
さて、前項の「構造的な悩み」とは調教師の力が強すぎたことである。誤解のないように付け加えると、調教師が傲慢だったと申し上げているわけではない。ただ、限られたコミュニティーのなかで、免許に裏打ちされた馬房を有しているというのは絶対的なアドバンテージだったということだ。
おつき合いが大切ということは、馬主も生産者も特定の調教師と強く結びついているということ。事実上、馬主は調教師の手のひらの上にいて、また転厩(厩舎を移ること)などという発想も希薄だったので、調教師が首を縦にふらなければ、どんな馬を買おうと売ろうと競走馬にはなれなかった。さらには、今日ほど一人の調教師が預託契約できる頭数が多くなかったという制度的な事情もあった。とにかく、そういう時代だったとしかいいようがない。
おカネを出せば誰でも馬を買える時代の到来
そこでキーワードとなるのが「馬主と生産者の台頭」である。
重賞を勝つにはサンデーサイレンスの血を引いた馬をセレクトセールで手に入れるのが手っ取り早い。まあ、サンデーサイレンスの直仔でなくてもいいが、とにかく良血であることは必須だ。
さきほど生産者の二極化に触れた。血統のレベルがレース結果に直結する時代、換言すれば、良血馬と、そうとはいえない馬との乖離(かいり)が拡大しはじめた時代は、牧場ごとの活力の違いも明確に色分けしはじめたのである。その証拠というべきか、とりわけ21世紀に入った頃から、オグリキャップのような小さな牧場の雑草的な存在がスターダムにのしあがるケースはほとんど見られなくなった。判官贔屓(ほうがんびいき)の日本人のなかには寂しく思う人もいるだろうが、サラブレッドは血統改良の積み重ねというのがまずは競馬の基本理念だ。
とはいえ、小さな牧場だって、大手牧場の繁殖牝馬(ひんば)を受託したり、後継者を大手牧場に住み込み修行をさせたりと、与えられた基盤のなかで精一杯の生き残りをはかっている。どちらにしても、その努力がきちんと報われ、業界としてかみ合う世界観こそ健全だと筆者は考えている。
二極化、これは調教師の立場にもあてはめることができる。たとえばG2クラスまでになると、出走させてくる調教師の顔ぶれはほぼ決まってくることに気づかれることだろう。逆に、下位の調教師から大レースの勝ち馬が出ることはめったに見られなくなった。良血馬とそうでない馬の格差は、供給先である調教師の経営手腕の差まで試しはじめたのである。おりしも新規参入者が増えて、馬主がしがらみにとらわれる時代でもなくなった。
そうなると、調教師の良血馬探しは良質のオーナー探しにもなったのである。馬を仕上げるのが調教師の本業だが、営業マンとしてのセンスも問われることになった。ごく一部の名門厩舎を除けば、待っているだけでは良血馬が向こうから寄ってくる時代ではなくなったのである。いきおい、馬主の力も大きくなった。
ちなみに、金子氏が落札した上場番号1番馬の預託調教師が決められたのは、セールからしばらくたってからのことだったと思う。そして、たしかに金子氏の落札現場の傍らには調教師は一人もいなかった。馬主がまずは自分の意志が尊重され、自由にモノを言える時代がやってきたことの象徴として、その絵はいまも筆者の記憶に鮮やかに残っている。
生産者もモノをいえる時代に
生産者の発言力の強まりは、馬主以上かもしれない。
目まぐるしく変化していく今日の社会のなか、馬主の経済力は不変ではない。亡くなることもあれば、本業が立ちゆかなくなる場合だってある。そこで、調教師は有力なオーナーを幅広く、フレッシュな状態で擁(よう)していることがなによりのリスクヘッジとなる。
ところが、調教師が独自に新しい馬主を開拓する機会は意外なほど少ない。調教師会がなんのコネクションも持たない新人馬主の紹介窓口になったり、各地の馬主協会が顔合わせの場を単発的に設けているくらいだろうか。そこで調教師が頼りとするのが生産者である。
今回は深くは触れなかったが、競馬の発展には「クラブ法人」の存在もきわめて大きかった。1頭の馬を数十~数百口に分けて共同出資するというシステムは、あまたの競馬ファンを仮想馬主に仕立てあげた。各クラブ法人はそこからリアルな馬主へとステップアップさせることにも積極的で、JRA(日本中央競馬会)には聞きづらいような質問もクラブは気軽に受けるし、申請作業の手伝いまでしてくれるところもある。
晴れて馬主になったあかつきには、セリの参加方法もサポートしてくれるし、調教師だって紹介してもらえる。なんでこんなに親切なのかといえば、そう、クラブ法人のほとんどが大手、準大手の生産者を経営母体としていて、その販路拡大の重要なツールとなっているからだ。馬主になるというこれまでの漠然とした敷居の高さは、クラブ法人によって大きくイメージが変えられたのである。
そのためだろう、近年、JRAの馬主登録をする人の多くはクラブ法人の会員を出発点としている。もっと具体的にいってしまえば、社台グループを経由して馬主登録を申請する人が、新規馬主の大半を占めているという話もあり、筆者もあながち的外れではないと感じている。
セレクトセールの前夜には、社台グループによる事実上のマッチングパーティが行われ、馬主との出会いを求めて、とりわけ若い調教師が大挙して参加するという。各クラブ法人が毎年開催している懇親パーティにも大半の調教師が参加して、会員と談笑するのがいまや自然な風景である。
調教師にしてみれば、とりわけ大手生産者は馬の供給元であると同時に、馬主の継続的な創出・供給元でもある。その線を大切にすることは、特定の馬主と深くつき合うよりも、明らかに経営的リスクの低下をもたらす。
実戦並み調教と体力回復の役割が生産者の地位を向上させた
もうひとつ、生産者の発言力が増した背景には、馬の育成、調教、出走までのプロセスがここ十数年来で大きく変わったことがある。
いま、多くの生産者が美浦や栗東のそれに勝るとも劣らない自前のトレーニング施設を持っていて、独自に馬をあらかた仕上げてから厩舎に送りこむのが普通だ。かつてなら、新馬など入厩からデビューまで3ヵ月はかかっていたものが、いまではゲート試験クリアも含めて1ヵ月もあれば十分に足りてしまう。
また、一戦ごとの消耗が激しい今日のスピード競馬では、続けて何戦も走らせていては上積みが見込めるどころか疲労がたまるばかり。かつては「テッポウ(久しぶりの出走)は不利」「叩き(休みを挟んで)3戦目こそ走り頃」などという馬券の金言があったが、いまや死語である。それこそアーモンドアイはほとんどのレースを放牧明けで臨み、それでいて毎回、結果を出しつづけたことはご存じだろう。
そんな状況下、限られた自分の馬房数の中で調教師が成績を出すには、馬を短いサイクルで効率的に牧場との入れ替えを繰り返し、常にフレッシュな状態の馬だけをレースに向ける必要がある。当然、この流れは従来の育成のみにとどまらず、実戦に近い調教や馬のリペア(回復)の場としても牧場が活用されるようになり、牧場の役割を飛躍的に増大させた。
だからというわけでもないだろうが、調教師試験に合格した人が、厩舎を開業するまでの一定期間、民間の牧場に住み込んで自主研修に励むケースもいまや普通だ。いずれにしても、牧場といかに緊密な連携をはかっていくかということが、調教師の経営を左右する重要なファクターのひとつとなったことはたしかである。
外圧を跳ね除けて強靭化に成功
ここまでジャパンカップが始まった1981年頃からの競馬界の超現代史をお届けした。
ジャパンカップは世界という舞台における日本馬の位置づけを叩きつけた「つむじ風」だった。やがて外国産馬への市場開放という動きまで本格化し、つむじ風は竜巻となってまずは生産者を襲った。
それでも自暴自棄にならず、粛々と本業にいそしんだ生産界にサンデーサイレンスという救世主が現れた。この一頭で日本の馬は見違えるほど強くなり、世界の競馬地図をすっかり塗り替えることになった。さらにはセレクトセールをきっかけに競走馬の流通革命が起こり、クラブ法人の浸透とあわせて、競馬サークルは経済面でも体質強化を図っていく。
歴史という観点で述べてきたので触れられなかったが、体質強化には「ファン」の存在も大きかった、いや、なくてはならなかった。大レースのたびに(平時なら)10万人規模のファンがときに息をひそめて発走を見守り、馬券の首尾を越えて勝ち馬には万雷の拍手が贈られる。こんな競馬は世界のどこにいったって見られない。
2020年、そして突然、世界を襲った魔の手。インターネット投票網の充実という後押しがあったにせよ、JRAは前年を上回る馬券売上げを記録し、コロナ禍はいみじくもファンの揺るぎない熱意と支持を浮かびあがらせることになった。
調教師、馬主、生産者、ファンが担う正方形
話を元に戻そう。競馬サークルの体質強化とともに、サークル内のパワーバランスが大きく変わった。確認しておきたいが、調教師が弱くなったと言ったのではない。それがよかったというのでもない。時代の流れのなかで、調教師の役割が変化したのだ。
一方、馬主と生産者が相応の発言力を持ち、しがらみや旧弊にとらわれない風通しのよさのなかで、それぞれが自由な挑戦を試みることができるようになった。もちろん課題はなおたくさん残っている。しかし、たとえば40年前と決定的に違うのは、あらゆる方面から合理的な解決をはかるための道筋や選択肢が担保されつつあるということだ。
唐突だが、ついトランポリンのマットを連想してしまう。思えば歪んだ三角形のマットだった。それがいまはどうだろう。調教師、馬主、生産者、そしてファンが四つの角を同じくらいの力加減で握り、呼吸を合わせている。その大きな正方形の中心に堂々と立ち進み、特大の飛躍をみせたもの――それがアーモンドアイだったとは言えまいか。
だとすれば、彼女の出現はけっして奇跡ではない。むしろ奇跡ではないことを認識しておくことで、彼女の名馬物語はいっそう夢にあふれた旋律を刻みはじめるような気がする。
バナー写真:2020年のジャパンカップで有終の美を飾ったアーモンドアイとルメール騎手 共同
以下、「史上最強アーモンドアイは、いかにして日本競馬界に授けられたのか」第3回「アーモンドアイの強さの秘密を具体的に考える」に続く。