史上最強アーモンドアイは、いかにして日本競馬界に授けられたのか
「アーモンドアイの出現が必然となるまでの1981-2020日本競馬史」(上)
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3頭の“3冠馬”(アーモンドアイ、コントレイル、デアリングタクト)が激突、世紀の一戦とよばれた2020年のジャパンカップは、先輩格のアーモンドアイが快勝。3歳牡牝(ぼひん)の3冠馬がそれぞれ2、3着に食い込むという絵にかいたような大団円で幕を閉じた。これでアーモンドアイは芝G1レース9勝、収得賞金19億円超というレコードを手土産に引退、繁殖牝馬として第二の生活に向かうことになる。
豊かな土にこそ大樹は幹を伸ばすといわれる。では、史上最強馬ともいわれる名牝はどのような土に根差し、特大の枝ぶりを得るに至ったのか。その観点から、アーモンドアイをはぐくんだ競馬サークルの社会的、構造的な時代変遷を、ジャパンカップがはじまった1981年を起点として、いくつかのキーワードとともに探っていきたい。
第1回ジャパンカップが突きつけた日本馬の世界的位置
最初のキーワードは「ジャパンカップ」。強い馬づくりを合言葉にはじまった国際招待レースは、1981年の第1回からして衝撃的だった。自国でも二線級の外国勢を相手に、日本の大将格が赤子の手をひねられるかのような惨敗を喫したのである。
その後も95年までの15回で日本馬は5勝、外国馬は10勝。相手関係や、ましてホームで迎え撃つことを考えれば、かなり厳しい結果と認めざるを得ず、「賞金は一流、競馬は三流」のレッテルを日本の競馬界が自ら背負うこととなってしまった。
そして、なにより懸念されたのは、ダービーであれ天皇賞であれ有馬記念であれ、種牡馬の選別機能を背負った競走さえ、実は日本というお山の大将争いにすぎないことが周知されてしまったとき、興行として従来どおりファンの支持を得られるかということだった。
JRAだって手をこまねいていたわけではない。栗東(りっとう)トレセンに遅れること8年目の1993年には美浦(みほ)トレセンにも坂路コースが完成したし、ロンドン、パリ、ニューヨークなどに駐在事務所を相次いで設置し、情報収集・発信の最先端基地とした。あるいはのちの名伯楽・藤沢和雄調教師が93年に弱冠42歳で初のリーディングトレーナーに輝くなど、若い力の台頭も散見されるようになった。いずれも、前述の「5勝10敗」の道すがらの出来事である。
ただ、幸か不幸か、当時は空前の競馬ブーム。97年にピークの4兆円に到達するまで、馬券の売上げはつねに右肩上がり、当然、賞金も上がる一方だし、馬主席はプラチナチケット。一部の人が独自の危機感をもって走りはじめたのはたしかだが、恵まれた経済環境のなかでは、その動きは限定的だったと言わざるを得ない。
市場開放の荒波と国内生産者の窮地
そんな状況のなかで降ってわいたのが「外国産馬出走制限緩和策5カ年計画(案)」である。このタイトルからすれば、次のキーワードは「外圧と市場開放」ということになるだろうか。この案がJRAからまず生産者団体の日本軽種馬協会に提示されたのは1991年のことである。
スポーツとしての意義高揚を図るためには、国際交流の推進は不可欠という大義はあったが、日本の高額な賞金や旺盛な競走馬の購買意欲を狙って、海外から市場開放の圧力が高まっていた事情は容易に想像がつく。具体的には5年かけて外国産馬が出走できるレース(混合レース)を全体の65%にまで高め、主要17レースを外国調教馬も出走できるレース(国際レース)として開放するというのが骨子だった。
もちろん生産者サイドは猛烈な抵抗姿勢を示した。当時の社台グループでさえ「時期尚早」とのメッセージを発信していたと記憶する。その後、混合レースの比率を65%から55%とするなど多少の譲歩を含んで、5カ年計画は8カ年計画(92~99年)に修正されて実行に移されたが、市場開放の流れを止めるすべはもうなかった。
93年には競走用の輸入馬の数が初の3桁(189頭)にのぼり、97年にピークの453頭という数字を記録するまで、増加の一途をたどるばかりだった。96年には混合レースのNHKマイルカップが新設された。その第1回は出走18頭中14頭が外国産馬、もちろん勝ち馬も外国産馬。案の定だ……生産者の溜息があちらこちらから聞こえてくるかのようだった。
日本の馬は弱い、でも賞金は高い。そこに良質な外国産馬が大挙して押し寄せてこられてはたまったものではない。そんな生産者の窮状にくらべて、馬主や厩舎(調教師)の立場はまだマシだった。欧米の競走馬価格の上昇という悩みを抱えつつも、基本的には日本在住の馬主が日本競馬の賞金を取り合う図式は変わらないし、調教師にしてみても、どこの国で生産された馬であろうと、馬さえ集まれば最低限の経営は維持できるからである。
しかし、生産者はなんとかして踏みとどまろうとしていた。反対しているだけでは何も変わらないと奮起し、内国産馬奨励賞の増額など、実をとる方向性を勝ち取っていったし、設備の更新や繁殖馬の入れ替えで粛々と自らの体力強化に心血を注ぐ動きも少なからずあった。この意欲の差や、もとよりの経営基盤の差がのちに大きく明暗を分けることにもなるが、それはさておき、いち早く危機の最前線にさらされたからこそ、いち早く競馬サークルが内包する問題意識に目覚めたのもまた生産者だったといえる。
現れた救世主サンデーサイレンス
そこに救世主が現れた。1990年に輸入された「サンデーサイレンス」である。
米国の年度代表馬が種牡馬デビューの地として日本の土を踏む、奇跡的な出来事といっていい。導入した社台グループの吉田照哉氏は「運がよかった」と謙虚だが、その裏には人知れぬ苦労やチャレンジがあったことは明らかである。
さて、94年に初年度産駒がデビューするや、いきなりフジキセキが2歳チャンピオンに輝く。翌95年は皐月賞(ジェニュイン)、日本ダービー(タヤスツヨシ)、オークス(ダンスパートナー)とクラシック戦線を席巻、この年、わずか2世代の産駒でリーディングサイアー(1シーズンの産駒の収得賞金の合計額で1位になった種牡馬のタイトル)を奪取するという離れ業を演じた。その後は2007年まで首位を独走、「救世主」といういい方が憚れるほど、産駒は暴力的な走りを重ねた。
種付け料は上がる一方だし、産駒は高く売れる。莫大な富はまずは社台グループにもたらされ、やがてその血の拡大とともに富は広く生産地にゆきわたった。サンデーの血と富を持てるものと持たざるもの、生産者の二極化という宿題を残しつつも、日本の生産馬のレベルを飛躍的に底上げさせたことは間違いない。
先ほど、ジャパンカップの初期を95年で区切ったのには理由がある。サンデーサイレンスの産駒が同レースに出走する前と出走しはじめた後という区別からだ。日本馬と外国馬の勝利数が「5対10」だったものが、以降の25回では「21対4」。勝ち馬のべ21頭のうち、サンデーサイレンスの直仔として孫として、その血をひいているのは16頭にのぼり、現在はなんと11連勝中である。ちなみに、外国産馬の輸入のピークは97年。サンデーサイレンス産駒の台頭と反比例するかのようなそれ以降の下降曲線が注目に値する。
サンデーサイレンスはもはやG1勝ち馬を送る種牡馬ではなく、種牡馬を送る種牡馬とまでいわれた。もう、外国産馬を買ってくる場合ではなくなったということだろう。とにもかくにもサンデーサイレンス1頭で日本の競馬は変わり、日本は「種牡馬の墓場」ではなくなった。
バナー写真:2020年のジャパンカップを制したアーモンドアイと、史上最多記録更新となるアーモンドアイの芝G1・9勝目を喜ぶクリストフ・ルメール騎手 共同